2011年2月17日木曜日

顔の無い「市民目線」に振り回される日本政治  カトラー

小沢一郎の再・強制起訴をめぐり、小沢一郎サイドから申し立てられていた議決の無効申し立てを東京地裁が却下した。
前回のこのブログのエン トリー記事でも取り上げたように、検察審査会の2回目の議決内容には、告発した市民団体の告発内容や検察当局の訴追内容に含まれない事柄が含まれている。 小沢一郎サイドもこの点をとらえ「今回の議決そのものが検察審査会の権限を逸脱した違法なもので無効」と主張し、議決の取り消しとともに、東京地裁が進め ていた指定弁護士を決める手続きの中止を求めていた。東京地裁は、そうした問題も含め、法廷で争うべきとし、この申し立てを却下したことで、今後の舞台は 法廷に移ることになる。

今回のエントリー記事で考えて見たいのは、小沢一郎を告発し、強制起訴の起点となった市民団体のことである。小沢の告発にどのような市民団体が動いたのかについてこれまで大マスコミは、なぜか触れてこなかった。
というのも、ネット上では既に話題になっていたが、在特会(在日特権を許さない市民の会)という極右団体が告発をおこなったことを、この会の桜井誠代表のブログ等で公表していたからだ。こうした団体が、在日外国人の参政権取得に前向きだったとされる小沢一郎の追い落としという政治的意図を持って仕掛けた告発であったとは、大新聞、テレビメディアはさすがに取り上げることができなかったのだ。

小沢一郎を告発した「真実を求める会」という市民団体

ところが、最近になって、朝日新聞のasahi.comが、小沢の強制起訴に向けた告発をおこなった市民団体として「真実を求める会」という正体不明の団体を探しだし、その団体に関する記事を掲載した。

Asahi.com 10月8日記事
小沢氏告発の団体とは 「保守」自認、政治的意図なし

取材を受けたこの団体の代表者は、小沢一郎という時の最高権力者の強制起訴に向けた告発を行うことで「命の危険があるから、名乗ることはできない」 と言っているらしく、記事中でも、関東近郊に住む60代の元新聞記者、元教師、元公務員、行政書士などの集まりとしか説明されていない。こうした団体のこ とを取り上げる朝日新聞asahi.comの見識も疑うが、この団体のような自称「市民の会」が、在特会などより、考えようによってはよほど質が悪い。

在特会の場合は、善し悪しは別にして、立ち位置や主張が明らかである。何故、小沢一郎を強制起訴に持ち込みたいのかも理解できる。しかし、「真実を求める会」とやらは、そうした自分たちの立ち位置をことごとく隠蔽している。あえて顔を隠しているのだ。
「命 の危険」という言い草もちゃんちゃらおかしいとしか言いようがない。民主的な手続きによって告発を行った日本国民を一体誰が抹殺できるというのか。いい歳 をして仮にそれを本気に恐れているのだとしたら、顔を世間に出し、自らの団体を公知のものにするほうがよほど身を守る上で安全だし賢明だよと言ってやりた い。

安全な場所に身を置きつつ批判だけは行いたい

要するに彼らは自分の姿は見せないで安全な場所に身を置きつつ、他人(この場合は小沢一郎)の批判だけは行いたいのだ。このように書いてくるとほと ほと情けなくなってくるが、こうした似非(えせ)インテリの連中が、常に「市民」を詐称してきたのであり、この国における「市民意識」「市民目線」なるも ののどうしようもない底の浅さを物語っている。

何かに向かって喧嘩する時は、自分も返り血を浴びる覚悟が不可欠であることは、子供だって知っている。それが嫌なら大人しくしていれば良いのだ。
ともすれば「無名性」に逃げ込み、「空気感」を醸成し、「おまえらも空気読めよ」と強制するのが、残念ながらこの国の世論やメディアの常道、常套手段になっている。

「真実を求める会」に集まっている人々も、心のどこかで自分たちは、議決書で謳われているところの「市民目線」や「世間」を代表しているとでも思っ ているのだろう。だからこそ、朝日新聞asahi.comも「世論」の代表として、名前すらも明らかにしないこの団体を取り上げている。根拠なきヒステ リックな小沢批判を繰り広げる朝日新聞にとって、告発の起点が在特会のような団体であってはまずいので、自分たちの醸成している「空気感」に近い「市民団 体」としてこの「真実を求める会」に飛びついたのだ。

ひと昔前まで、新聞TVに登場してくる「市民グループ」とは、共産党や社会党、労働組合などの支持組織・グループの別名だった。そうした詐称のお作 法がメディアでは今でも性癖として続いているのかもしれないが、「市民」というものが言葉の正しき意味において実体化した例はない。

「市民」なんてものはこの世のどこにも存在しない

あえていえば、この国に「市民」なんてものは無かったし、これからもないだろう。
それでは、民主主義の先進国といわれる欧米諸国において「市民」なるものが存在しているのかといえば、日本のように自分のことを「市民」という顔の無い無名の存在として捉えるような習性は誰も持ち合わせていないだろう。

要するに、朝日新聞をはじめとした日本の大手メディアが重宝がる「市民」や「市民目線」なんていうものは、そもそも世界中のどこにも存在しない幽霊のようなものなのだ。この世の中に存在しているのは、生身を持って切れば血が出る「あたな」であり「私」である。
様々な異なる生き方、考え方、異論を持った人間たちがいるだけなのだ。にもかかわらず、その幽霊のような「市民目線」に一国の総理になってもおかしくない政治家が追いつめられ、日本の政治全体が振り回されている。

検察審査会の討議内容を公開せよ

検察審査会についても同じことがいえる。審査会のメンバーについては、性別、年齢だけが公表され、どのような議論がされたのかは全くのブラックボックス状態である。
こ の場合、無名性と匿名性を分けて考えることが重要だ。個人名を公表しなくとも、取り交わされた議論の内容を匿名で公開すれば良い。議論のプロセスが明らか にされていない今の状態では、下された議決が妥当なものかどうか誰も判断できず、異論・反論の余地のない「市民目線」として独り歩きを始める。異論の余地 がない言説が独り歩きする世界、これこそがファシズムである。

ファシズムとは、もともと実体的なものではない。それは、人々の心が招来する亡霊のようなものだ。

市民たちよ!己が心のファシズムを恐れよ

(カトラー)

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