2011年2月13日日曜日

連載「脳力のレッスン」世界 2010年3月号

水上達三と貿易立国日本—問いかけとしての戦後日本(その9)

高坂正堯が「海洋国家日本の構想」を書いたのが東京オリンピックの年一九六四年であった。戦後の日本が「大東亜共栄圏構想」の挫折を踏まえ、国家と してのフロンティアを七つの海に求め、「東洋でも西洋でもない立場に生きること」「通商を通じて国を豊かにしていくこと」を暗黙の国民目標として「戦後復 興・成長路線」を走り始めたことを象徴する論文であった。そして、通商の現場で戦後日本の復興・成長の現場を担った中心人物の一人が水上達三であった。戦 後、GHQに解散させられた三井物産を再生させた水上達三という人物と、私は一九七三年に出会った。「石油危機」の年、一九七三年に三井物産の新入社員と して調査部に配属された私は、既に社長を退き相談役として「日本貿易会会長」の仕事に情熱を燃やしていた水上に、正に末席の新人として資料作成の下働きを 始め、その「お礼」ということで、何度か円卓の中の一人として中華料理をご馳走になったこともあった。日本の輸出が三六九億ドルになったのが正に一九七三 年であったが「輸出が一日一億ドルになったよ」と感慨深く水上が語っていたのを思い出す。 「国際収支の天井」という言葉がつきまとい、「売るものがない から買いたいものも買えない」、つまり輸出産業が育っていないから「輸入超過」という状態を日本経済が脱したのが一九六五年であり、安定的な「輸出超過」 を持続し始めたのは、第二次石油危機を経た一九八一年からであった。戦後直後の貿易の前線を担い、「外貨獲得」に立ち向かった「商社マン」たちは、まずは 米国市場においてクリスマスツリーのランプや三条燕の洋食器の見本をバッグに詰め、靴を履きつぶすような戦いを続けたのである。

水上達三という人生

水上達三は一九〇三年(明治三六年)、山梨県巨摩郡に生まれ、甲府中学を卒業した。故郷山梨が水上の人生に大きな意味をもったことは間違いない。彼 は「私の履歴書」の中で「甲府中学には優秀な先生が多く、私は様々に影響を受けた。甲府は江戸幕府の直轄地であったから、学問にも熱心な風土が自然に出来 ていたものと思う。甲府中学の前身は、一七九六年(寛政八年)に幕府が設立した『甲府学問所』のちの『徴典館』という塾で、ここから多くの学者が輩出して いる。一九〇六年(明治三九年)には大島正健という校長が赴任し、さらに校風を高めている。この人は札幌農学校の第一回卒業生で、“ボーイズ・ビー・アン ビシャス”のクラーク博士の直接の教えを受けており、開明的思想を甲府中学に注ぎ込んだものとみえる。石橋湛山は中学の先輩で、大島校長に強く打たれたよ うだ」と述べている。

正に「人間山脈」という言葉を想起させられるが、人間は人間によって育つ。それが連綿と繋がり不思議な影響の連鎖が生まれ、クラーク博士が 蒔いた種が甲府で大島正健によって花開き、石橋湛山、水上達三などに受け継がれていく。石橋湛山は『湛山回想』(岩波文庫)において「(私の)意識の底 に、常に宗教家的、教育者的志望の潜んでいたことは明らかであった。そこに私は、大島校長を通じ、クラーク博士のことを知り、これだと、強く感じたのであ る。つまり私もクラーク博士になりたいと思ったのである。私は今でも書斎にはクラーク博士の写真を掲げている」と書く。その石橋湛山を郷里の母校の先輩と して敬愛し、水上は石橋を囲む『東洋経済』の時局座談会に欠かさず参加していたという。湛山の亡き後、その自由主義、民主主義、平和主義(国際協調主義) の思想を普及することを目的に「石橋湛山記念財団」が設立されたが、水上は財団の理事長を引き受け、十五年以上もその活動を支え続けた。

一九二八年(昭和三年)、水上達三は東京商科大学を卒業後、三井物産に入社した。その翌年には高崎派出員として群馬県高崎市に赴任、以来六 年間も高崎での生活を続けた。入社早々、国内の小店に六年間も勤務させられる状況にも水上は腐らなかった。むしろ積極的に受け止め、「派出員だからこそ、 本店にいたら若手では読めないような書類が読めた」、「何でも任されて、いやでも全体の業務を覚えた」と述懐している。

置かれた状況を積極的に受け止め、吸収し、学び取ろうとする精神は、水上の生涯にわたり貫かれている。終戦を三井物産の北京支店長代理とし て北京で迎えた四一歳の水上は、接収された三井物産の残務整理に当たった後、抑留されていた日本人引揚者一三五〇人の団長として一九四六年に帰国する。こ の敗戦後の大混乱期の北京においてさえ、水上は苦心して短波放送の受信機を手に入れて、サンフランシスコ、メルボルン、デリーなどから入る情報を入手し て、敗戦後の日本がどうなっていくのか、正確な情報を得ようと手を尽している。情報へのこだわり、集中力は驚嘆すべきものであった。

帰国後、三井物産に復帰して間もなく、一九四七年七月、「財閥解体」を意図する占領軍総司令部(GHQ)の指令によって「解散」させられ た。GHQの指令は、「かつてどの敗戦国の一民間企業が受けたこともない過酷なもの」であった。何しろ「旧三井物産で部長以上だった者が二人以上で新会社 を組織すること禁止」「旧三井物産の従業員が百人以上で新会社を組織すること禁止」「商号使用禁止」「資本金二〇万円以上の新会社設立禁止」というもの で、完膚なきまでに三井物産という組織を壊滅させる意図が込められていた。

「三井物産は無に帰したのだ」「明日からどう食うかの事態になったのだ」と、この時の思いを水上は書き残している。水上は旧三井物産の仲間 三七人を集め、資本金一九・五万円の新会社「第一物産」を設立した。四三歳の水上は「辛い時代でも夢は大きく持ちたい。今後の日本も、大切なのはやはり貿 易だ。貿易会社なら広い範囲のものを扱うべきだ」と判断したという。二百以上もの弱小企業として点在していた旧三井物産系の商社群の中から、水上の第一物 産が力をつけ、合併再編の中核企業になっていく。

何故、第一物産が一九五九年の「三井物産大合同」の中核になったのか。つまるところ経営者の志と意思だったといえる。解散直後から「十年以 内に三井物産を復活する。第一物産がその母体になろう」と水上は言っていたという。投機的な「思惑買い」をせず、「日本の進むべき前途を考え、国際情勢を 出来るだけ細かく分析しながら進んだことが、力をつけた理由であろう」と彼自身は述べている(「私の履歴書」)。会社の規模は小さくとも、取り扱い品目の 多様性だけでなく、輸出・輸入・外国間貿易・国内商内など商内形態の総合性、さらには金融機能など、企業機能の総合性にこだわり続け、「総合力」を志向し 続けた。第一物産が思いがけぬ利益を挙げた時、水上がまず踏み切ったのは「調査情報部」と「技術部」の創設であった。商社にとって、情報と技術が成功の鍵 であることを見抜いていたのである。

水上の貿易立国論の進化

私の思い出の中の水上達三は、「恐ろしく情報感度の高い人物」という印象である。右手にマクロの貿易統計、左手にミクロの三井物産の実績を持ち、そ れを付き合わせながら、次に如何なる戦略・戦術を打つべきかを考え抜いて、的確な指示を与えていた。経営者の持つべき問題意識と行動力の凄みを思い知らさ れたものである。好奇心が強く、常に新しい事象に関心を抱き、若手の話に興味を抱いていた。

一九八八年(昭和六三年)、水上達三は『貿易立国論―水上達三論集』(有斐閣)を出版した。水上が体験的に蓄積した思想や世界観を集約した 作品である。注目すべきは、「貿易によって日本の戦後復興に貢献しよう」という若い時代の問題意識が次第に進化し、「一国民、一民族中心の貿易立国論か ら、世界経済全体との関連の中で貿易立国論を位置づける」方向に向かっていることである。日本の戦後というのは、水上のような視界をもった経営者とそれを 支えた貿易の前線に立った先人たちの情熱が創り出したという面もある。

私が三井物産に入社した一九七三年に「一日一億ドル」を超した日本の輸出は、二〇〇八年には七八四一億ドルと実に二〇倍以上に増大した。日 本の産業力の高まりに感慨を覚えざるをえない。「売るものがない」といっていた国が隔世の感がある。にもかかわらず、この国を覆う無力感は何であろうか。 「ハヤブサの達」といわれた水上達三の眼光と「貿易には真理と哲学がある」といっていた言葉を思い出す。

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