2011年2月13日日曜日

連載「脳力のレッスン」世界 2010年8月号

日米同盟は『進化』させねばならない—普天間迷走の総括と今後   寺島実郎

鳩山政権は八ヶ月余の迷走の挙句、崩壊した。「宇宙人」といわれてきた人らしく、地球人的しがらみや苦悩を超越した愉快な表情で、実体権力者たるを誇示する小沢一郎幹事長を道連れに、テーブルをひっくり返すようにパラダイム転回を図り、天空の彼方に去った感がある。

だが、歴史は冷厳である。普天間問題は未解決のまま残り、政権交代を経た日本外交に方向付けさえできず、舞台は次の幕へと移ることになっ た。私は、長年にわたる鳩山由紀夫という人物との個人的親交もあり、政権発足の直後までは、日本が目指すべき国際関係の基軸に関して、意見を交わす機会も あった。だが、官邸と外交・防衛実務官僚との綱引き、そして内向するメディア状況の中で、外交についての筋道の通った議論が失われていく過程を遠くから観 察するにつれ、「この国の病の深さ」に深い失望と怒りを禁じえない心境になっていった。

ここは怒りを抑え、改めて鳩山政権を冷静に総括し、新たなる前進への礎とする作業を試みたい。私は、本年二月号の本誌に「常識に還る意思と 構想―――日米同盟の再構築に向けて」を寄稿し、普天間問題を含む日米同盟総体の見直しに向けた試論を提起した。本稿はその続編であり、その後の半年を観 察しながら、問題の本質をより構造的に探究した結果の補論である。

世界史の怒涛のような潮流に、冷戦型の「同盟外交」という枠組みそのものが限界にきており、とりわけ戦後六五年の惰性と既得権で固定化され た「日米同盟」という仕組みも明らかに軋み始めており、我々が取り組まねばならない同盟再生というテーマはくっきりと見え始めている。新しい時代へ、物語 は始まったばかりである。

鳩山外交は何故失敗したのか—迷走の構造

鳩山外交が失敗した理由は明白である。普天間問題を沖縄の負担軽減という次元の問題に押し込め、そこを踏み越えられなかったことである。ある意味で は、鳩山由紀夫という人は善意に満ちた人物であり、沖縄に在日米軍基地の七割以上が集中し、沖縄県民に過剰な負担を強いていることに強い問題意識を抱き、 普天間基地の移転先についても「何とか県外へ」と本気でこだわっていた。だが、仮に徳之島など県外に基地が移転されたとしても、それは決して問題の解決で もなんでもなく、基地問題の拡散にすぎないことは、沖縄の人さえも十分に認識している。沖縄の人もギリギリのところで理解できる方向付けは、たとえ前政権 が日米間で合意していた「辺野古移転」を過渡的妥協として受け入れたとしても、日本および沖縄における米軍基地問題を、民主党政権は如何なる方向に持って いこうとしているのかの長期方針が示され、その中で普天間問題が位置づけられることであった。にもかかわらず、問題を国内の代替地を巡るもめごとにし、ジ グゾーパズルの一片を握り締めた愚かな「持ち時間付のゲーム」にしてしまったのである。

普天間移転という問題は、一九九五年の米兵による少女暴行事件、二〇〇四年の大型ヘリコプター墜落事件によって浮上した問題であり、本質は 「基地の安全」の問題であった。したがって事件を起こした当事者である米国側が移転先を含め、責任をもってテーブルにつかねばならないはずの問題である。 それにもかかわらず、「気に入った代替地があれば移ってもいい」として、日本国内のもめごとの決着を腕組みして待ち構え、時間の経過の中で暗黙の圧力をか けうる問題にしてしまったのだ。

向き合うべきは米国であった。もちろん、普天間移設の代替案を巡っての日米協議はなされたが、日米安保の将来を検討する中での協議ではな く、現状の基本枠を是とする硬直した選択肢の中での議論から一歩も出ないのだから、パラダイムの転換などありうるはずは無い。ミクロの話に埋没すれば、現 場に近い実務者の技術論が重くなり「リアリティーがあるかないか」に押し負ける。首相官邸の沖縄負担軽減論も、米国の意向に最大の配慮を見せる外務・防衛 の実務ラインの羽交い絞めにあっていったのである。結局、首相官邸と外務省・防衛省が一枚岩になって米国と向き合い問題の本質に迫るということは五月末の 「日米合意」に至るまでできなかった。「現行の日米安保、基地の現状に変更を加えるべきではない」「米国との関係を損ねるようなことをしてはならない」と いうのが、外交防衛を支える実務官僚の不動の本音だからである。

政権交代によって「官僚主導から政治主導への転換」が語られている。だが、政治主導が機能していない省が二つある。外務省と防衛省である。 政務三役が虚弱というのではない。この二つの省を支える実務官僚には、厚い岩盤のように埋め込まれた「動かしがたい意思」が存在する。それがアメリカの意 向への配慮である。戦後、これらの省はアメリカとの関係によって存立してきた。この二つの省の中核を支える官僚群のキャリアは「アメリカでの研修・実務体 験と意思疎通」の中で形成されてきた。「アメリカへの配慮」と「アメリカの了解」が彼らにとって最も自然な現実的選択なのである。

バランス感覚と豊かな人間性を持った優秀な官僚が多いのだが、彼らと真剣に議論をしてみて、直感的に思い起こすのは、清国末期の、亡国に導 いた官僚が放つ空気である。アヘン戦争から六〇年が経過した一九〇〇年、義和団事件前後の清国の官僚にとっては、大英帝国は動かし難い前提であった。つま り、英国を初めとする列強の圧力を与件として、状況を打開するよりも列強の存在を当然の現実として受け止め「なんとか穏便に事態が推移すればよい」という 心理に陥った専門家が清朝を支えていた。教養と学知はあるが硬直した時代認識に埋没した官僚群は、事件の囚人となって日々を繰り回すことだけに憔悴し、惰 性のままに国の没落をもたらしていった。現下の日本も、客観的情勢判断から政策が決められるのではなく、「対米関係重視」という政策判断が先行して情勢判 断がされるという状況にあり、新しい事態を見通す柔軟で強靭な外交力など期待すべくもないのである。

外交政策の意思決定機構の硬直化と拘束という現実を思い知ったことこそ、今回の迷走劇の教訓であった。だが、鳩山前首相を含め、この国の何 代かの首相に国家の最高指導者としての構想力、目指すべき国に関する経綸が欠けていたことも否定しがたい現実であり、ロンドンエコノミストが「指導者なき 日本(LEADERLESS JAPAN)」という特集(本年六月三日号)を組むのも頷けるのである。

鳩山首相は「私の言葉が国民に届かなかった」と辞任会見で語った。ようやく最後の会見の段階で本音らしきものに言及したが、普天間問題の背 後にある日米同盟の今後に関して、何をどうしようとしているのかについて一度でも国民に語ったことはなかった。外交にはその政策判断の背後に世界情勢に対 する認識、歴史の中での現在という時代への認識が求められる。吉田茂の外交においても、一九五五年のバンドン会議前後の鳩山一郎政権の外交にも、一九六〇 年安保改定期の岸信介政権の外交にも、一定の世界認識と時代認識があったといえる。明確な時代認識と使命感に立つ指導力無き政権は、瞬く間に「今までのま まがいいのだ」という日米双方のエネルギーに囲まれ、身動き取れなくなってしまったのである。

それにしても我々は次元の低い政治ゲームを見せ付けられたものである。あたかも幕末の「攘夷決行」を巡る迷走にも似たドタバタであった。や れもしない攘夷決行を倒幕派が問い詰め、攘夷決行日を約束させ、幕藩体制の権威を失わせていく過程である。今日から見れば、世界観に欠ける滑稽な迷走なの だが、国内だけに眼の向いた「内輪のもめごと」に興奮して屍の山を築く、愚かな熱狂であった。今回の普天間を巡る迷走も自虐と加虐が交錯した日本国内のも めごとであった。「最低でも県外移設」と約束したのだからやってみせると首相がいう。「いつまでに」と問い詰められ、「五月まで」と答える。「自分でいっ たことなのだからやって見せろ」とメディアが迫る。この過程で問題の本質を問い詰める視界は消え、虚ろな三文芝居と化す。昔、「腹切り芸」という話があっ て、「やってみせる」と啖呵を切った男に、「やれなかったなら腹を切れ」と追い詰め、回りで囃し立てて腹切りに追い込む馬鹿馬鹿しい話だが、正に自虐と加 虐が交錯した次元での顛末となった。そして、滑稽な迷走劇を遠目でみている米国、そして世界は苦笑を禁じえないでいるのである。

立ち込める無力感は何であろうか。民主党の議員の中にも、「アメリカのトラの尾を踏んではならない」「日米同盟の在り方、米軍基地に手をつけたら火傷する」という空気が漂っている。だが、この無力感を乗り超えていかねば、日本の戦後は終わらない。

迷走の中で確認できたこと—米国の本音と直視すべき現実

深く洞察するならば、普天間問題で迷走の八ヶ月において改めて確認できたこともあり、そのことは今後の展開において重要な糧となるであろう。

●確認事項1 米国をも呪縛する日米安保の構造

日本の政権が変わり、ひょっとしたら普天間問題が米軍基地総体の見直しにつながりかねないという危機感を背景に、米軍の本音が明らかになってきた。 「日米安保は米国だけがリスクをとって日本を守る義務を負った片務条約であり、日本からの引き上げもありうる」と胸を張っていた米国が、「東アジアの安定 のためには在日米軍基地は不可欠の存在」という懸命のアピールを始めた。日本列島に恒久的に米軍基地を確保することが米国の利益でもあることを隠さなく なったのである。それまでは、「何故、米国の青年の血を流してまで日本を守らねばならないのか」という議論が囁かれ、「いつ引き揚げるかもしれない米軍」 という暗黙の圧力が「集団的自衛権に踏み込んでも日米同盟を深化させないと対等な日米同盟にはならない」という日本側の生真面目な空気さえ醸成してきてい た。

「本気で、米軍は日本に駐留し続けたいのだ」という再確認は重い。理由は明快である。駐留経費の七割を受入国側が負担し、ほぼ占領軍にも等 しい地位協定上のステータスを確保できる基地など、日本以外に無いからである。「米国の世界戦略上の必要性」とか「同盟責任の遂行」とか、もっともな理由 はあるが、日米安保の構造が「経費負担」という短期的な経済利害に関る部分で異常なほど日本側に依存しているが故に、その呪縛から米国自身が逃れられなく なっているのである。一九七八年度に六二億円で始まった「思いやり予算」は、ピークの九五年度には二七一四億円にまで肥大化し、国際法上の常識では外国の 軍隊の駐留を受け入れている国が負担しなくていい米軍の光熱水料から娯楽費まで日本側が負担する事態が続いている。二〇一〇年度には一八八九億円にまで削 減されているが、基本構造は変わっていない。

一つだけ不可解な具体例を挙げる。東京首都圏の座間と多摩に米軍は専用のゴルフ場を保有する。自衛隊でさえ専用のゴルフ場などない。こんな コストも「思いやり予算」として日本側が負担しているのである。冷戦が終わって約二〇年が経過するが、この間「日米同盟」を理由に日本側が支出した経費 は、「思いやり予算」を含む米軍基地の経費負担、湾岸戦争の戦費分担、米軍再編に伴うコスト負担、自衛隊のインド洋・イラク派遣のコストなど、概算で累計 一五兆円にもなるであろう。こんな同盟関係が米国を逆縛りしているのである。

政権交代を機に、利権の構造の将来に危機感を抱いたワシントンにおける日米関係を専門とする人たち、「日米安保で飯を食っている人たち」が 一斉に蠢き出し、日本側の利害関係者とともに「日米の良好な関係を崩してはならない」と叫び始めた。現状変更そのものが利益の喪失だからである。持ち出し てきた現状維持のための論理のキーワードが「抑止力」であった。

実は、普天間迷走の八ヶ月間で米国の防衛安全保障戦略は大きく変化している。オバマ政権の防衛安保政策の輪郭が明確になってきたということ である。三月、オバマ大統領は核兵器の削減について、「国家安全保障戦略における核兵器の役割が縮小している」との認識を示し、「核の均衡による安全保 障」という考えを「時代遅れの冷戦思考」と発言した。さらに、四月には「相手が核不拡散条約(NPT)を遵守する非核保有国ならば核兵器を使用しない。た だし、核開発国(イラン、北朝鮮)は対象外」と発言、五月にニューヨークで開かれたNPT再検討会議の開催と行動計画の最終文書採択を主導し、「核なき世 界」の具体的実現に向けての意思と構想を明らかにし始めている。

また、本年二月にペンタゴンから発表された「四年毎の国防見直し」(QDR),五月に四年ぶりに公表された「国家安全保障戦略」を読んでみ ても、米国の安全保障戦略が大きな曲がり角にきていることは明らかで、それはR・ゲーツ国防長官自身が寄稿したフォーリン・アフェアーズ五・六月号の論文 “HELPING OTHERS DEFEND THEMSELVES”にも鮮明に表れている。読み取れるのは、米国は海外に大規模軍事展開する余裕を失いつつあり、同盟国 や問題を抱えている国が自らの国を自力で防衛し安全を確保することを背後から支援する政策をとらざるをえないという政策意思である。六月に発表された「軍 事費を二〇一二会計年度から五年間で一兆ドル削減する」という方針も、イラク、アフガンでの戦争で肥大化した軍事費をなんとか削減しなければ米国の財政が 成り立たないところにきていることを示すものである。

冷戦の終焉後、クリントン政権下で軍予算の削減が続き、二〇〇〇年度に二九四五億ドルにまで圧縮された軍事費が、「9 ・11」を経て二〇一〇年度には七二八〇億ドルにまで急増してきた。これを年額二〇〇〇億ドル程度は圧縮しようというもので、オバマ政権の政策思想が「冷 戦型核抑止論からの脱皮」と「縮軍」にあることは確かである。

しかし、この安全保障政策の転換を日本との関係で考察するならば、話が屈折していることに気づかねばならない。つまり、日本だけは例外で、 決して日本からの軍事基地の引き上げや縮小を意味せず、むしろ「同盟のコスト負担」という名目で、日本側への負担増加を求める傾向が高まることが予想され る。米軍基地のコストの七割を受け入れ国側が負担しているという日本の現実は、米本土に基地を置くよりもコストがかからない軍事力の維持を意味し、できる だけ日本に基地を置き続けることが「縮軍」につながらない現実的選択だからである。米国の世界戦略全体の転換の中で、日本が如何なる賢明な戦略意思を見せ るのか重大な局面である。

●確認事項2 メディアにおける思考停止の構造

普天間迷走の八ヵ月、我々は物事を根本から考え、課題解決に踏み込もうとしない日本の現実を確認した。まず、確認できたことは「沖縄以外に米軍基地 の受け入れ先なし」という現実である。五月末、全国知事会に対して鳩山首相が普天間の代替施設の受け入れを要請したものの、結局のところどの都道府県も手 を挙げなかった。「誰も受け入れたくない迷惑施設」という本音が明らかになった瞬間だった。だが、その一方で「米軍基地は日本とアジアの安全のための公共 財」という建前がまかり通り、「北朝鮮や中国の脅威という現実を考えれば、米軍基地の存続はやむをえない」という議論に引き寄せられる日本人が多いという のも事実である。つまり、「沖縄ならば米軍基地が存在し続けても構わない」という歪んだ判断で日本という国が存在していることを確認せざるをえない。

ここでは国民の判断の座標たるべきメディアの問題に触れておきたい。普天間を巡る日本の迷走は、メディア論調の迷走でもあった。戦後日本の 国際関係を巡る論争において、例えばサンフランシスコ講和会議、バンドン会議、六〇年安保改定など、新聞の論調を再読してみたが、現在のメディア論説の知 的劣化は歴然としており、問題の本質に迫るジャーナリズムの役割を放棄しているとしか思えない。

例えば、日本の多くの経済産業人がその世界認識の座標としている日本経済新聞の普天間・日米安保を巡る論調は、冷戦型視界から一歩も抜け出 そうとしない典型である。イラク戦争を支持し、自衛隊のイラク派遣に賛同したこの新聞は、「イラクの失敗」を冷静に総括することもなく、「駐留米軍はアジ アの安定のための公共財」であり、「日米同盟が最もコストのかからない安全保障」であるという主張を繰り返している。経済産業面で、日本経済がアジアとの 相互依存の中で生きていかざるをえない潮流のなかにあるという現実を報じ続けながら、政治面で近隣アジアの脅威に対して「日米同盟で構えなければ不安だ」 という論理にこだわる亀裂は滑稽でさえある。つまり、冷戦期の日米関係を維持・固定化することが正しい選択だと思い続けている思考がここにあるといえよ う。

定番の固定観念に埋没した論調とは別に、今回の普天間問題を巡るメディア論調の迷走に拍車をかけたのが朝日新聞である。その象徴が五月五日 付の主筆船橋洋一氏の「拝啓鳩山由紀夫首相」と題する論稿であった。この論稿はある意味ではバランスがとれていて、全方位に配慮して書かれており、さすが に朝日を代表する論者であり、長い実績を有する船橋氏ならではの論稿なのだが、全方位に配慮して書き進めるうちに玉虫色の論説となり、かくあるべしという 主張が混乱しているのである。

「在日米軍基地は、日本を守るだけではなく、極東における平和と安全のためのものでもあるのです。その役割、つまりは抑止力が弱まることを 近隣諸国は、そして米国も、心配しているのです」と「磐石の日米同盟」が「中国を開かれた国際主義的な世界秩序に組み込むために不可欠」なことを船橋氏は 主張する。そして、米高官が「海兵隊が沖縄から出て行ったら、尖閣諸島はどうなると思う。次の日から尖閣諸島に中国の旗が立つだろう」と語ったことを紹介 し、さすがに「尖閣列島を守るのは、まずは日本の自衛隊と海上保安庁が果すべき役割」としたうえで、「『尖閣諸島カード』をちらつかせなければ日本の“平 和ぼけ”を覚ますことはできない、米国がいら立ちを高めている」と述べている。尖閣諸島を米軍が本気で日本の側に立って守るか否かは「グレーゾーン」の問 題であり「戦略的あいまいさ」の象徴的課題であることは、船橋氏の知見において十分に承知しているはずである。我々が今なすべき議論は、「抑止力」の内実 を真剣に吟味し、現状を固定化する思考から脱して、冷戦後の世界秩序にふさわしい地域安定化の構想を描き、実現に立ち向かうことである。

船橋氏の論稿は「現状を追認する勇気」を首相に促すもので、現状を変革する方向に日本の政治を後押しするものではない。「日本の対外構 想」(一九九三年、岩波新書)において、冷戦後の日本外交ビジョンとして「能動的にグローバル・シビリアン・パワーたること」を提唱していた船橋氏をして 現状のままでよいとする思考に導く力学は何なのか。この点こそ我々は凝視しなければならない。

●確認事項3 米中関係の深化—世界の構造変化

五月二四-二五日、北京で開催された米中戦略・経済対話は「対立を回避し関係強化を図る米中」という現実を確認させるものだった。オバマ政権は前 ブッシュ政権がはじめた主要閣僚を連ねた米中戦略対話の仕組みを「安全保障分野」まで拡充した。いうまでもなく、米中間には深刻な対立をもたらしかねない 課題が山積している。人民元切り上げ問題、チベット・人権問題、台湾への武器供与問題、イラン・北朝鮮の核開発問題など、とりわけ直近の韓国哨戒艦事件で の北朝鮮制裁問題への対応も注目された。

これまでの北朝鮮ミサイル発射、核実験においても、いかに米国が中国の主張に配慮し、決定的対立を回避しようとするかを確認させられてきた が、今回も北朝鮮という国際秩序攪乱国をあたかも「保護国」として囲い込みながら存在感を見せ付ける中国のしたたかさに押し切られるように、国連制裁の動 きも実効のない微温的なものに落ち着いていった。「多極化の中での実体的G2化」という表現があるが、冷戦後世界秩序が「米国の一極支配から多極化」に 向っているといわれる中で、中国の台頭を背景に実体的には「米国と中国の二極間の利害調整」が世界の合意形成において重要になってきたことを若干ジャーナ リスティックに強調した表現だが、G2という表現がでてくるほど米国の中国への配慮は極端である。

二〇〇九年の貿易(米国側統計)において、米中間の貿易額(輸出入合計)は三六五九億ドルと日米間の貿易額一四六九億ドルの二・五倍となっ た。米国にとって、既に中国は日本の二・五倍の貿易相手なのである。また驚きの数字でもあるが、昨年、米国から日本への来訪者は七〇万人であったが、中国 を訪問した米国人は一七一万人であった。モノの動き、ヒトの動きをみても、日米中の経済的相関の下部構造は急速に変化しているのである。

「米国の抑止力を利して中国を制御する」という考えは否定されるべきものではないが、「日米同盟で中国の脅威と向き合おう」というのであれ ばその認識はずれているというしかない。米中間のほうがはるかに密度の濃い意思疎通を図っているからである。そして、日本人の「頭越しでの米中接近への怯 え」を手玉にとるように、「オバマは鳩山には一〇分間しか時間をとらなかったが中国には・・・・」という心理操作によって、アメリカは思い通りにならぬ日 本に「孤立の恐怖」を与えうるのである。そして、依然としてその手法が有効なほど、日本人はナィーブなのである。日本こそ、臆することなく閣僚級の日米戦 略対話を提起し、日米同盟の新たなる在り方を正面から議論すべきであろう。

日米安保改定から五〇年という歴史認識―忘れてはならない歴史の方向感覚

今年は日本初の遣米使節「万延元年の使節」とともに咸臨丸が太平洋を渡って一五〇年という記念すべき年である。このことは本誌の七月号で書いた。そ して咸臨丸から一〇〇年という年が奇しくも一九六〇年、日米安保改定を巡る熱い政治の季節であったことにも言及した。「咸臨丸の時代を生きた幕末・明治の 日本人は誰一人として、外国の軍隊を頼りに自国の安全を図るという事態を考えてもいなかった」と私は書いた。「敗戦」がいかに重かったとはいえ、六五年も が経過した今、日本人はどこまで自堕落になってしまったのであろうか。

改めて戦後日本の外交思想という視座から考えるならば、我々は今、「吉田外交」という枠組みからいかにして前に出るのかを模索し続けている といえよう。サンフランシスコ講和会議での「単独講和」によって西側陣営の一翼を占める形での国際社会への復帰を急いだ日本は、日米同盟を基軸として冷戦 下の世界で「軽武装経済国家」として生きる路線を歩みだした。第一の転機が一九五四年に成立した鳩山一郎政権下の選択であった。吉田外交からの脱却を目指 した鳩山一郎政権は、重光葵外相や石橋湛山に支えられて、及び腰ながらも一九五五年のバンドン会議への参加を契機とするアジア復帰、周恩来・高崎辰之助会 談による日中貿易の再開、日ソ国交回復と外交の視界を広げていった。「対米自主外交」というには限界があり、あくまでも「日米同盟を基軸とするアジア復 帰」ではあったが、新たな展開でもあった。

そして迎えた「六〇年安保改定」、全国で五八〇万人が安保反対デモに参加したという六月一五日には東大の女子学生樺美智子さんが国会前で死 亡するという惨事までが発生した。「大学から国会へ」、異様な熱気が日本を包み込み、若者の多くが丸山真男の『日本の思想』(一九六一年、岩波新書)に展 開された、「である論理とする論理」を心に刻み、市民運動の証として「行動する論理」に突き動かされていた。岸信介をはじめとする日本の当時指導者も、安 保反対運動の側にあった人間も、少なくとも米国との同盟関係の適正化に強い関心を抱いていたともいえる。

誤解してはならない吉田外交の本質は何か。彼は米国との協調を重視したが、決して米国への過剰依存や従属を是とするものではなかった。「独 立心なくして国家なし」、それこそが吉田茂の真意であり、求め続けたものであった。そのことは吉田の回顧録や吉田の周りにいた人たちの証言が明らかにして いる。六〇年安保の改定までは、駐留米軍基地に関する「事前協議制」の導入など対等の軍事同盟に進化させる意思を後進の指導者たちは少なくとも受け継いで いた。だが、一九六七年に吉田が死去し、吉田の姿が遠ざかるにつれ、吉田外交を曲解したエピゴーネンとしての「吉田主義者」が跋扈し始めた。「米国との関 係を見直そう」という意思は、七〇年安保の段階で国民意識からも消失していた。

確かに、七〇年安保は「全共闘運動」という形で、さらに過激な新左翼によって盛り上がったかに見える。しかし「大学解体」という闘争は、大 学自体が闘争の場として燃焼しただけで、決して国民運動として国会には向かわなかった。日本の国際関係を再構築する試みもなされなくなっていった。七〇年 安保と大阪万博が同じ年であったことは象徴的であった。政治は静かに後退していった。背景には「所得倍増」「高度成長」という時代潮流があり、国民も「経 済の季節」に酔いしれ、政治には燃焼しなくなっていった。六〇年安保の頃の一人当たりGDPは約500ドルであったが、一九六六年に一〇〇〇ドルを超え、 一九八一年に一万ドルを超した。正に「黄金の七〇年代」であり、ピンクレディーが阿久悠の歌で踊っていた。

それでも、外交に関して言えば、永井陽之助のような政治学者が、考える座標を提示していた。『平和の代償』(中央公論社、一九六七年)に収 録された「日本外交における拘束と選択」が中央公論に掲載されたのは一九六六年三月号だった。この論稿で永井は「日本は、敗戦後、選択によってではなく、 運命によって、米ソ対立の二極構造のなかに、編みこまれた」という認識に立ち、「多角的オプションの外交戦略」を展開するために、日本外交の中期構想を 「中国との国交回復と正常な外交樹立」とした。冷戦下という拘束の中で、「敵対者の攻撃を抑止し、行動選択の自由を確保する」ために、日本は「こうかつ さ」と「弱者の恐喝」というべきしたたかさを探究すべきことを示唆していた。

一九七〇年代に入り、ニクソンショック、米中接近という新たな局面を迎え、永井の洞察が光ったのが「同盟外交の陥穽」(中央公論、一九七二 年一月号)であった。それから四〇年経っても「米中の頭越し接近」に脅え続ける日本外交の構造に変わりがないことに苦笑を禁じえないが、冷戦という拘束の 中で真剣に日本の選択の自由を拡大しようと、「安全(福祉価値)」と「独立(名誉価値)」の二律背反に苦しみながら構想力を練磨した永井の知的しなやかさ には敬服せざるをえない。

驚いたことに、管直人新首相の所信表明演説でも、永井陽之助という名前が学生時代に国際関係論において影響を受けた人物として言及された。 「私は若い頃、イデオロギーではなく、現実主義をベースに国際政治を論じ、『平和の代償』という名著を著された永井陽之助先生を中心に勉強会を重ねまし た」というもので、現実主義に立った外交・安全保障政策を展開する意思を語る理論的正当性を語るものであった。だが、もし現実に直面している状況を不変の 与件として受け入れ、何も変えようとしないことを「現実主義」とするならば、それは明らかに永井陽之助への誤った理解である。政治的現実主義の重みを見 失ってはならない。

それにしても、「冷戦」という拘束から解放されて二〇年、永井陽之助が志向していた「国際状況の多元化」が現実のものとなり、まさに「多角 的オプションの外交戦略」が可能な時代が到来しているのに、日本外交は柔らかい選択肢を志向することなく、冷戦型視界の金縛りにあっていることに気付くの である。知的緊張に満ちた国際政治学者の不在とメディアの低調はあきれるばかりである。

本当になすべきこと—日米同盟の段階的「進化」を求めて

日米同盟は安易な「深化」ではなく、深い洞察にたって「進化」させねばならない。我々は今、そのことを思慮深く構想すべきである。改めて、八ヶ月の普天間迷走の教訓を踏まえ、日本が心に期すべき同盟の進化とは次のような骨格での段階的アプローチであると考える。

第一段階:プラットフォームとしての「日米戦略対話」の実現

普天間の移設を巡る実務者レベルでの協議ではなく、外務・防衛だけではない経済閣僚を含む閣僚レベルでの日米戦略対話の仕組みを実現し、経済と防衛 の二本立てでの包括的同盟関係の未来像を構築すべきである。実は、日米同盟は軍事片肺同盟であり、経済についてはFTA(自由貿易協定)一つ実現していな い。EPA(包括的経済協力協定)など将来のアジア太平洋地域連携の先行モデルとなるような経済産業における日米連携の深化を図り、同時に防衛安保につい ては、新しいアジア情勢を踏まえて「過剰依存構造」を解消する方向での見直しを図る。

第二段階:在日米軍基地の「抑止力」の吟味と基地の「共同使用」化への移行

日米戦略対話での課題として、一九九三年にドイツがすべての「在独米軍基地」の使用目的と現実的機能をテーブルに乗せ、米軍基地の段階的縮小と地位 協定改定を実現したごとく、すべての米軍基地・施設を「抑止力」の視点から吟味し、「地位協定二条三」にあるごとく、目的を終えたと合意できる基地・施設 の返還を実現する。その際、「例えあいまいであっても米軍の抑止力がなければ極東情勢の中で不安である」と感じる日本国民が多いのであれば、まずは可能な 限り米軍基地を「米国側が占有権を持った基地」から「日本側が管理権を持ち、抑止力のために米軍が駐留している共同使用基地」(地位協定二条四-b)に移 行させることを進める。世に「シンガポール方式」」といわれ、米軍がフィリピンからの基地撤退を余儀なくされた時、東南アジアに軍事的空白を作らないため に、管理権はシンガポールが確保するが米軍が共同使用という形で駐留する形をとった。

明らかに現在の地位協定には、占領軍時代の基地のス テータスを延長した性格が残っており、日本側が主権を有する形への変更が必要である。実は五月末に発表された普天間問題についての「日米共同声明」におい て、「米軍と自衛隊の間の施設の共同使用を拡大する機会を検討する意図を有する」という項目が記されたが、これは今後の見直し論議において重要な一歩とい える。米軍の抑止力に期待する人でも、主権回復の重要性は理解できるはずである。

第三段階:「基地無き日米同盟」と適正な自主防衛構想の確立

次のステージとして、東アジアの安定(例えば、朝鮮半島の統一)を見極めながら、駐留米軍のハワイ、グアムの線までの撤退というシナリオの実現を図 る。但し、「極東有事」に対応するために、「緊急派遣軍」のような兵力を抑止力として維持するために日本側が一定の機関、一定のコスト分担をするというの も、選択肢としてありうる。「基地無き安保」への進化である。

その方向に向けて、当然のことながら「日本の防衛は日本自身が責任を持つ」という所謂「自主防衛」への具体的構想が求められる。軍事大国へ の誘惑を絶ち、近隣諸国にとって軍事的脅威とならないという専守防衛に徹したシナリオでなければならない。その前提として、東アジアの平和構築の基盤とな る「北東アジアの非核化条約」などを主体的に働きかける粘り強い外交戦略が必要となるであろう。

心すべきは、冷戦期を前提とする同盟外交の枠組みをそのまま温存すれば日本が安全と安定を確保できるという時代は確実に終わりつつあるとい うことである。古今東西、同盟外交は敵対する敵陣営が明確なときに機能するものであり、敵概念が錯綜とした「全員参加型秩序の時代」においては柔らかく設 計されねばならないからである。

海外を動いていると「中国の台頭」との対照において日本の存在感の低下について質問される機会が増えてきた。様々な理由はあるが、日本人と して注視すべきことは、中国の強勢外交の背景に横たわる歴史意識における自信である。アヘン戦争以来一七〇年、中国は列強の植民地主義の生贄とされて蔑ま れた時代もあったが、辛亥革命、中華人民共和国成立を経て、一九九七年の香港返還に至る過程で、一歩ずつ民族の自立自尊を回復してきた。戦後日本に失われ てきたものは、正に自立自尊の意思である。我々がなすべきことは、今のままの米軍基地を前提として「良好な日米関係」なる言葉の交換に自己満足するのでは なく、基地を削減しつつ東アジアの安定と真に信頼できる日米同盟に進化させることなのである。

0 件のコメント: