2009年12月15日火曜日

国家の論理と企業の論理 寺島実郎著

    第三章 「新米入亜」の総合戦略を求めて 「米軍なき日米安保」と「アジア集団安保」

 日米同盟の支柱となっている日米安保について、それを受け止める日米両国民の本音の中で、共通の敵のために力を合わせるという正当性が消失しつつある。普通の米国人の常識からすれば、日米安保は片務条約であり、「極東に非常事態が起こって、日本の安全が脅かされたとして、なぜ、世界一の債務国が世界一の債権国を守る為に青年の血を流さなければならないのか」との疑問に共感を覚えるであろう。そうした疑念を押さえ込む為に本音に迫ると、究極的には「日米安保は日本の軍事大国化を抑える役割」という、いわゆる「ビンのふた」論になってしまう。他方、日本人からすると、本音ベースで「日米安保の傭兵化」が進んでいる。「米国の思惑と必要で米軍は駐留しているのだし、しかもその経費の七割以上、六四億ドルもの負担を日本がしている。金を払ってガードマンを雇っているようなものだ」という意識が見え隠れし始めるのである。つまり日米安保は相互にイメージを矮小化させてきている。そのような仕組みが長続きするはずはない。考えておかなければならないのは、日米同盟を守ることと、現在の日米安保を基軸とした日米同盟を継続することは違うという点である。両国に芽生えつつある自然な形でのナショナリズムが、これまでの「日米安保=日米同盟」という枠組みを崩しつつある。戦後五十年たった現在も、国内に四・七万人の米国軍人と一千万坪の米軍基地が存在することに無神経なまま、国際社会のなかで、日本が責任ある大人の国として認知されることは不可能である。安手なナショナリズムでも、自主防衛の幻想でもない。旧来の「反基地・反安保・反米」のパターナリズムを踏襲しようというものでもない。これからも日米関係が重要であると考え、親米の軸を守るべきと考えるからこそ、日米安保をあるべき姿に修正する勇気をもたねばならないといいたいのである。歴史の経緯の中で、「外国の軍隊の基地が日本にあること」は恥ずべきことではない。しかし今後五十年先を展望して、これをどうしていくのかについてのプログラムをもとうとしないことは、独立国家として恥ずかしいことである。これは、明治期日本の悲願であった「条約改正」にも比すべき正気と自尊への回帰である。中国も、アヘン戦争から一五五年、新界の租借から九九年かけて香港返還を実現した。安保を再考する場合、日米安保体制は、何の為にどこまで必要なのかということをもう一度冷静に突き詰める必要がある。「東アジアの安定を維持する為に」という漠然とした期待と、現状変更のもたらすものへの不安だけで、あるべき姿への議論を回避してはならない。