2009年5月20日水曜日

石原慎太郎エッセイ 「日本よ」 2003年11月5日発売の産経新聞より転載  産経新聞社HP http://www.sankei.co.jp/

担当大臣として藤井道路公団総裁との会談が、当初の一時間の予定をはるかに越え て五時間にも及んだという報道を聞いた時、私は会談の内容のおおよその想像がつく ような気がした。その夜息子に電話してみたらおおまか想(おも)った通りだった。 いってみれば間近にせまった総選挙ぐるみ自民を含む複数の政党が脅されたというこ とだろう。

 息子から聞いた会談の生々しい内容はここでは明かせないが、藤井総裁の潔いとは いえぬ思いこみは官僚としての自負とおごりを踏まえた、結局は官僚の通弊たる保身 ということだろう。名誉棄損の裁判も起こすということだが、平行してこの際、是非 外部から会計監査を入れて公団の経営実態を衆目に晒(さら)すべきだ。

 東京都の場合、数多い外郭団体に外部監査を入れて初めて、世間ではまかり通らぬ 経営実態が露呈してきた。恐ろしいのはそれが、納税者である都民への背信という後 ろめたさが全く無しに行われてきたというところにある。

 都の財政再建のために始めの二年間、それぞれ知己の深く長い樋口廣太郎、牛尾治 朗、宮内義彦、鳥海巌、高橋宏といった日本の代表的経営者と当時日本公認会計士協 会の会長だった中地宏の六氏に財政再建の顧問を頼んだが、度重なる会合の中で、あ るいかにも不審な問題について厳しい質問が出て調査の末、次回にその回答が役所側 の責任者から行われた時、六人が同じ瞬間、「なるほど、税金だあっ!」と同じ言葉 を発して慨嘆したのを目のあたりにし強い印象を受けた。つまり役人の扱っている金 は、民間の経営者が扱っている血のしたたるようなせつない金とは違って血の通わぬ、 というより彼らが血を通わせぬ「税金」という特殊な金ということだ。

 前にも記したが役人というのは、この日本では、罪を犯さぬ限りその地位を失うこ とがない、つまり一生失業保険をかける必要のない種族であるが故にも、三つの特性 を備えている。

 一つには金利の感覚が欠如。二つには時間のコスト感覚の欠如。三つには、手掛け た仕事への確実な保証、保険という発想がほとんどない。今日あちこちで露呈してき ている日本の特殊法人の経営の杜撰(ずさん)さは、共産圏でもとっくに淘汰(とう た)された国営企業と同質で、道路公団も放漫杜撰な経営の末に藤井総裁の代になっ て債務超過の危惧(きぐ)がようやく表沙汰(ざた)になった。

 これが民間なら、いかなる企業だろうと債務超過となった時点での経営責任者は、 いかに不本意だろうと従来の経営の誤りの責任を集約してとって職を辞するのが常識 であり、それしか株主たちへの経営の責任の表示はあり得ない。このゴタゴタが起き た時、親しい仲のJR東日本の松田昌士会長から興味深い話を聞かされた。国鉄時代 から今日まで、鉄道を跨(また)いで通る高速道路の工事の際、鉄道当事者が鉄道を 跨ぐ部分の工事に関しては特別に関与して、工法、期限、予算等について聴取すると いう。そしてその度、公団側の示す予算案はどう眺めても常識の四〇%に近い水増し になっているそうな。鉄道側もそれならついでにということで一緒に儲(もう)けさ せてもらってきたということだろう。

 側聞すれば道路公団の工事のほとんどは随意契約で行われてきていた。つまり民間 での競争入札による価格決定ではなしに、身内の特定の会社ともたれ合いで随意な予 算を組んでつかみ金でまかなわれ、公費の見積もりに正当性を欠くのも当然のことに 違いない。

 これは何も道路公団に限らず他の特殊法人も同じことで、例えば国家の威信をかけ てロケットを打ち上げる宇宙航空研究開発機構も、従来新しいプロジェクトに関する 原価計算を明示することはほとんどなかったという。素人にロケットなどという高級 な技術による計画の何たるかがわかるはずはないということだろう。

 国家官僚の隠語に「鉛筆を嘗(な)める」というのがある。つまり予算獲得のため のいい加減な数字をでっち上げるということだが、彼等のそんな技術に政治家たちが 媚(こ)びへつらって今までいかに膨大な税金や郵便貯金が浪費されてきたことか。

 あの小さな島の四国に内海を跨いで三本も橋を架けるというばかげたプロジェクト を、同じ特殊法人の本州四国連絡橋公団はやってのけ、ほとんど車の通らぬ三本の橋 は典型的な不良債権として膨大な赤字をつくり続けている。それに注ぎこまれた郵便 貯金はほとんど還っては来まい。

 そしてそのからくりに、いかに多くの与野党の政治家たちが群がり食いついて相伴 にあずかってきたことか。その結果特殊法人という非合理非現代的な組織のからくり は、官僚が逆に政治家を使うという官僚の国家支配を造成強化してきたのだ。

 亡き司馬遼太郎氏が慨嘆していた、太政官制度以来本質的に代わっていないこの国 の政治のスキームを温存維持するために、特殊法人なる官僚支配の隠れ簑(みの)が いかに効果的に働いてきたかを今回の道路公団総裁の更迭事件は逆証している、とい うことを国民もそろそろ知った方が身のためということだ。

 選挙が終わった時点で小泉内閣は改めて、道路公団のゴタゴタを、政治家の迎合を 踏まえた官僚の国家支配の象徴的問題としてとらえ過去のすべての事例を洗い出し、 国家の体質そのものの改善につとめるべきに違いない。このままでは救われないのは 国民なのだ。息子大臣閣下も捨て身でやってもらいたい。