2011年10月12日水曜日

裸の王様「特捜検察」を即刻解体せよ

既に報道されているように、小沢一郎の政治資金団体「陸山会」の土地購入をめぐり政治資金規制法違反の容疑で起訴された元私設秘書、石川知裕衆院議員に関する供述調書の大半が証拠採用されないことが決まった。
これは石川元秘書が、特捜の田代検事による再聴取の模様をICレコーダーで密かに録音したものを裁判所に提出し、そのやりとりから供述調書の作成にあたって「威迫行為」が存在したことが認められたことによる。

大手マスメディアはこの裁判所の決定をほとんど何の解説も加えず、申し訳程度に報じていただけが、村木厚子さんを冤罪に陥れた郵政不正事件の場合と 同様に、核心となる供述調書のほとんどを証拠採用しないという裁判所の異例の決定は、特捜検察の決定的な敗北を示唆するものに他ならない。

特捜検察の決定的な敗北と小沢一郎の帰還

これで石川知裕衆院議員の無実はほぼ確実となったし、その供述調書を根拠に検察審査会にまで持ち込んで強制起訴した小沢一郎の裁判にも大きな影響を 与え、立件の根拠を失った検事側は、今後の公判の維持さえままならなくなるだろう。政界では早くも小沢復帰後の政局シナリオまで囁かれ始めている。

ニコニコ動画で、渦中の石川議員、郷原信郎弁護士、江川昭子氏、そして「健全な法治国家のために声をあげる市民の会」代表の八木啓代氏と元暴言検事こと市川寛氏による緊急討論「検証!徹底討論:検察調書大量却下は何故起きたか」が行われた。

この中で印象的だったのは、「威迫行為を行った」とされた特捜の田代検事の対応だ。
威迫というと、検事が暴力的な言葉を浴びせるような場面を創想像するが、それとは逆に田代検事は「特捜部は恐ろしいところだ。何でもできるところだ。(シナリオ通りの調書がとれないと)捜査の拡大がどんどん進んでいく」と言って石川議員に供述書へのサインを迫ったという。
かつて容疑者を恫喝して供述をとったことから「暴言検事」として世間からバッシングされた経験を持つ市川寛弁護士は、「田代検事のとった態度は、自分の場合とは正反対に見えるが、上層部の見立てに沿った証言をとるために追いつめられていた点では全く同じ」と指摘していた。

見立て通りの供述をとるために追いつめられる検事

特捜検事が、自分の属する組織「特捜部」を「何をするかわからない恐ろしい所」といっている構図は、暴力団の下っ端構成員が、ミカジメ料を取り立て るために堅気の人間を脅す時の常套句と何ら変わらない。しかも、この田代検事は、自身がその暴力装置の一部となっている自覚を持ちつつ、無実の人間に対し て強引に罪を認めさせようとしているわけで、考えようによっては暴力団よりも性悪の頽廃行為といえよう。

市川寛元検事の暴言行為が問題となった時は、世間やメディアは、その行為を彼自身の個人的資質の問題に帰して、検察全体の構造問題として議論する動 きを封じてしまった。しかし、この田代検事や郵政不正事件で証拠を改竄した前田検事のケースから浮かび上がってくるのは、特捜検察という組織全体が頽廃し きっているという事実である。問われているのは、個々の検事の問題ではなく冤罪を生み出す検察の組織構造、体質そのものである。

今や裸の王様になってしまった特捜検察だが、過去において日本人の特捜に対する信頼には特別のものがあった。「お天道様はどこかで見ている」という 言葉に表れているような素朴な庶民的心情を背景に、特捜検察は、世が乱れると必ず登場してきて世直しを行う正義の味方として世間から喝采を浴びてきた。

特捜検察のルーツはGHQの占領政策

しかし、特捜検察とは、そもそもお天道様などではなかった。
特捜のルーツを辿ると戦後のGHQの占領政策につき当たる。占領直後、旧日本軍 部によって隠匿されていた金塊、ダイヤモンドなどがフィクサーを通じて政界等に流れていた隠退蔵物資事件が発覚する。この退蔵物資の行方については、当の 占領軍の要人が深く関わっていたといわれこの事件自体が深い闇に包まれているが、この捜査を担当する組織としてGHQによってつくられた隠退蔵事件捜査部 が、現在の特捜の前身だ。つまり、GHQという絶対権力者の手足として動くことが特捜という組織に与えられた最初のミッションであり、GHQの権力を背景 に当時の官僚・政治機構に対して超越的な立場で捜査を行った。端的にいえば、特捜はGHQの手先機関(エージェント)だったのだ。

現在の特捜検察が、官僚組織であるにも関わらず、政治に対して独立して二重権力のように振るまうのはこうした出自によるのであり、特捜とは本来的 に、政治家、官僚を取り締まる超越的な存在であり、自分たちが国を動かしているという強烈なエリート意識もこうした出自から生まれている。

同時期にGHQによって、もう一つの重要な占領政策が実行された。それはメディアに対する「検閲」である。この検閲問題の存在そのものを明らかにしたのは、江藤淳氏の研究とその著書「閉ざされた言語空間、占領軍の検閲と戦後日本」によるところが大きい。

GHQがメディアに強制した自主検閲

GHQが行った検閲は、旧日本軍部の言論統制のように検閲した部分を黒く塗りつぶすような稚拙なやり方とは異なり、メディア側の自主検閲という巧妙 な仕掛けで行われた。すなわち、検閲行為は存在していたにも関わらず、そのことは一般国民にはわからぬように仕組まれたのだ。GHQは、メディアに対して 検閲のガイドラインを示し、それに従わぬ報道機関は、有無を言わさず取り潰すという圧力を加えた。その結果、日本のメディアは検閲ガイドラインを念頭に置 きつつ、あたかもタブーを自己増殖させるような形で閉ざされた言語空を形成していった。日本のマスメディアの多くは、何かを伝えようとするのではなく、逆 に伝えてはならないタブーを常につくりだし、そのタブーを中心とした、閉ざされた言語空間の「空気を読む」ことで生き延びるという道を選択したのだ。

そして、ここ数年で手の内がすっかり明らかになってしまった特捜検察とメディアの共犯関係も、この占領期の闇の時代にその原型が形作られた。特捜検 察が獲物を捕らえると、メディアが総動員で検察からのリーク情報をもとに血祭りに上げ、裁判がスタートする以前に犯罪者としてのイメージが作り上げられて しまう。この基本構造はGHQの占領政策の下で政官支配のために仕組まれたものであるが、占領時代が終わっても特捜とメディアの共犯関係はそのまま存続し たのである。

実はそうした共犯関係に基づく特捜事件およびその報道とは、日本というムラ社会にある種のカタルシスをもたらす祭りのような機能を果たした。これまでの特捜事件を通じて逮捕、起訴された政治家、官僚、経営者は、その祭りのスケープゴートにされたといってもよい。

特捜とメディアの共犯関係の底流にある祭りの構造

もちろん、これまでの特捜事件が全て冤罪であったなどというつもりはない。しかし、この国の人々が、特捜検察によって新たなスケープゴートが祭り上 られる度に喝采の声を上げてきたのは紛れもない事実であり、生け贄の血を欲したのは、特捜検察やメディアというより、この国の人々のほうなのだ。

郵政不正事件をめぐる村木厚子さんの冤罪事件などに関わることを通じて、冤罪を生み出すものとは結局何なのかと折ある毎に考えてきたが、多くの場 合、冤罪を最初から意図的に仕組む極悪人がいたわけではない。冤罪が生まれるきっかけとなっているのは、検察組織の中で上層部の見立てには逆らえないとい うサラリーマン根性であったり、特捜にいるうちに手柄を立てて昇進コースに乗りたいというような卑しい出世欲であったりする。

そうした小さな劣情の連鎖が、結果として冤罪を生み出し、無実の人間の人生を大きく狂わすわけだから、法曹人はより高い品性を持って仕事をしなけれ ばならないというのは当然だ。しかし、そうした議論以前に、そもそも特捜という組織が、日本ムラの生け贄祭りの祭司として機能しているのだとしたら、その 構造自体が冤罪を生み出す土壌、根本要因になっているといえよう。

歴史的使命を終えた特捜という組織

特捜の本来のミッションは、占領時代が終了した時に終わっている。ところが、その後も組織はゾンビのように存続したために「お天道様」として振る舞 わざるを得なくなり「検察無謬神話」が作り上げられていった。しかし、その無謬神話に縛られたことで、逆に冤罪をつくりだし、証拠を改竄し、供述を捏造す るような組織に成り下がってしまった。さらに、ライブドア事件など最近の経済事件などにおいては、郷原信郎氏などが指摘しているように、時代錯誤な法律運 用や経済音痴による弊害ばかりが目につく。今や裸の王様と化した特捜は即刻解体すべきだ。

特捜検察に屠られたスケープゴート、例えば、江副浩正、鈴木宗男、堀江貴文といった人たちは、国策捜査のまさしく被害者だと考えているが、ここで繰 り返し指摘しておきたいのは、彼らが成功者の座から引きずり下ろされる姿を見て喝采していたのは、他ならぬ私も含めたこの国の愚かな国民だったということ だ。もういい加減、特捜検察に「世直し」を期待したり、彼らを世の不正の全て暴いてくれる「お天道様」に準えたりすることからは卒業しなくてはならぬ。我 が心の「特捜」を解体することこそが特捜検察解体の第一歩となる。

(カトラー Twitter: @katoler_genron

2011年5月18日水曜日

行き場を失った石原批判票と「菜の花革命」の始まり(カトラー)

今回の東京都知事選では、初めて共産党候補に一票を投じた。

理由は単純で、脱原発を公約で掲げているのが、都知事の候補の中では共産党の小林候補だけだったからだ。渡邊美樹さんは、昔、仕事上の関係でお会い したことがあり、その頃から経営者としても人間としても優れた方と尊敬し応援もしていたのだが、石原慎太郎に対する差別化戦略を完全に間違え、明確な対抗 軸を打ち出すことが結果的にできなかった。
都政に経営マインドを持ち込むという主張は、平時であれば、それなりのメッセージ性を持ちえたと思う が、現在は異常事態の時期、すなわち乱世である。統一地方選挙そのものが、東日本大震災と福島原発問題によって完全にかき消され、背景に押しやられた中に あって、渡辺美樹氏の真面目な主張は、新鮮味を持ち得なかったばかりか、残念ながら現実に対してピントはずれになってしまった。

石原候補に対抗軸を打ち出せなかった渡邊、東国原

東国原候補についても事情は一緒だろう。世の中に平時の退屈感が蔓延しているなら、森田健作やら東国原のようなタレント候補を「退屈しのぎ」に選ん で見るという選択も有権者にはありえただろうが、千年に一度の天災に襲われ、放射能の雨が首都圏に降り注いでいるような3.11以降のような状況下では、 「退屈しのぎ」はありえない。
災害対策が争点になるという見方が新聞などの下馬評にあったが、それも見当違いだ。これからどんな災害がいつ起きる かもわからない中で、その対策の中味で差別化ができるはずがない。仮にこの問題について少しは気の利いたことが言えたとしても、現職が持ち合わせている情 報やリアリズムに対抗できるはずがない。

今回の選挙で石原慎太郎に対して勝てるメッセージが唯一あったとすれば、それは「脱原発」ではなかったかと考えている。
ここ数週間で、福島 原発に対する東電、原子力保安院の対応や、政府の情報公開の在り方をめぐって国民の批判は急速に高まっている。事故後1ヶ月が経過したにもかかわらず、依 然事態を収束させることができず、放射能汚染は、周辺地域ばかりでなく、首都圏に出荷される野菜、水道水、水産品などへと拡大し、ますます深刻化してい る。福島原発で発電される電力は全て東京都民が消費するものであるから、このことは実は都民ひとりひとりが問われるべき問題に他ならない。しかも、その東 京のための原発事故によって深刻な被害をもたらしているのは地元福島の人々である。この現実をどのように考え、それでもなお原発を選択するのかどうか、今 回の選挙の中でそのことを都民に対して問いかけ、争点にすることはできたはずだ。

都民の不安感を変化へと繋げることに失敗

脱原発を争点にすることは、東日本大震災に対する「天罰」発言と原発推進容認を表明する石原慎太郎候補に対して最大の対立軸とすることができたはずだが、何故か渡辺、東国原両候補とも尻込んでしまい、明確なメッセージを出せないままだった。
隣の神奈川県は無風選挙に近いといわれていたものの、黒岩候補は「脱原発」を公約に掲げることで、着実に得票をのばすことができた。一方、東京では、残念ながら、私も含め石原に対する批判票は行き場を失ってバラバラに分散してしまった。

選挙後、渡辺美樹氏は「都民は変化よりも安定を望んだ」とコメントしたが、そうではなくて、都民の間にある不安感を逆に「変化」へと繋げることがで きなかった選挙戦略のあきらかな失敗である。選挙ポスターの作りもひどかったことを見ると、渡邊氏の選挙陣営にはコミュニケーションの専門家が関与してい なかったのではないか。

話をもうひとつのテーマに移そう。
地方統一選挙と同日の昨日、全国で脱原発のデモが行われた。私は高円寺のデモに参加したのだが、このデモ を主導しているのが、高円寺でリサイクルショップや古着店などを展開し、活動の拠点を持っている「素人の乱」の人たちであり、5~6年程前からサウンドデ モという独特のスタイルで社会運動を行っている。

Kouenji_demo_2

5年前にこのグループと出会い、高円寺で行われたデモに参加したことがあるのだが、その時は「家賃をタダにしろ」「セックスのできる広い部屋にすま せろ」といったナンセンスな要求プラカードを掲げた酔狂な若者、フリーターたちによる運動だった。もう少し高尚にインテリ風に言うならカルチャー・ジャミ ングという手法により、固定化した社会システムをゲリラ的に攪乱させるパフォーマンスを意図したものだった。とことんナンセンスな要求を掲げてデモを組織 し、機動隊やら警備の警官らが見守る中、ロックやレゲエの音楽を大音響で流しながら街を練り歩き半ば占拠するという、デモというより非日常的なアートパ フォーマンスともいえる痛快なイベントだったが、今回の「デモ」にもそのアート精神はしっかりと受け継がれていた。

アートパフォーマンスのようなデモ行進

デモの参加者たちは、それぞれが思い思いのメッセージプラカードを掲げ行進し、中には脱原発のメッセージを込めたコスプレを身にまとって参加するパフォーマーも多数いて、さながらハロウィンのパレードのようでもあった。

秀逸だったのは、某都知事の遺影を掲げて黒の喪服姿で参加していた青年(写真)。4年前に参加したサウンドデモでは、たかだか数百人規模だったが、 今回は親子連れなど参加層も広がりが見られ、主催者発表で1万5千人が参加する大きな運動へと成長した。ただ、私の知人などで真面目モードで参加した人た ちは、このおふざけモードにはかなり違和感を感じたようだ。

デモ行進が始まってしばらくして、参加者に菜の花が配られた。菜の花やひまわりは、チェルノブイリなどで放射能汚染された土壌の浄化などに栽培され たことが知られていて、脱原発の象徴になっている。その黄色い菜の花を手にした人々の行進が、大音響の音楽とともに高円寺の街に延々と連なって続く。

「原発反対!」のシュプレヒコールを上げながら「菜の花革命」という言葉がふと脳裏に浮かんだ。

Nanohan_revolutiion

ドイツなどで25万人規模の反原発デモが行われていることに比べれば、ここ東京では、原発推進派の首長の再選を阻止することもできず、動員できたの も、たかだか1万5千人。東電や電事連、当局にとっては、痛くもかゆくも無いレベルの反対デモかもしれない。しかし、これまでの日本の「市民運動」の歴史 からすれば、何の組織も存在していない状況下、ツイッターやフェイスブックを介して、縁もゆかりもないこれだけの「素人」たちが自然発生的に集結し、乱を 引き起こしていることは、正に「革命」の名に値する。
4.10は、フクシマ以降の永きにわたる脱原発運動の起点になった記念日として人々に記憶され語り継がれていくことは間違いない。

菜の花革命、万歳!

(カトラー Twitter: @katoler_genron

2011年3月31日木曜日

思い上がりも甚だしい経団連会長の発言、東電の経営層(カトラー)

 電力関係者、政治家、メディア含めて、従来から原発がなければ、日本の今の快適な生活はあり得ないという言説をふりまいているが、それは大嘘だ。 自然代替エネルギーの利用を怠り、スマートグリッドの導入でさえ鼻先で笑ってきた東電経営層の怠慢を隠蔽する言い訳として利用されてきたに過ぎない。今、 日本国民は、一方的な強制停電によって、不自由な生活と経済の沈滞を余儀なくされているが、電力の問題でいえば、ピーク時の対応が問題なのであり、現在の ように総量規制を押しつけられるいわれはない。インターネットのような分散制御型の電力システムに移行すれば、巨大な発電能力を持つ原発のような存在は最 小限ですむか、不要となるだろう。

もう一歩踏み込んでいえば、原発とは、地域独占企業体である電力会社の神殿のようなものであり、原発の安全神話とは、その体制を護ってきた一種のカ ルト宗教に他ならない。3.11により、それがガラガラと崩れ去ったことは、悲惨な現実の中にあって国民が得た唯一の収穫かも知れない。

2011年2月17日木曜日

31あるがままに見る  稲盛和夫

澄んだ純真な心には真実が見えます。しかし利己心に満ちた心には、複雑な事象しか見えないのです。
たとえば、もし「この仕事からどんな利益があるだろうか」という私欲を抱いて仕事に取り掛かると、その欲望が単純な問題さえも複雑にしてしまうでしょう。私たちは往々にして、自分を良く見せようとしますが、そのような利己的な動機は問題の焦点をぼやけさせ、皆生湯を遅らせてしまうのです。
物事をあるがままに見ることのできる純粋な心を持つよう努力すべきです。利己的な欲望に駆られた目には単純な問題でさえ、非常に複雑に見えてしまうのです。
たとえ自分にとって不利益であったとしても、物事をあるがままに見て、自分に非があれば、間違いを認めなくてはなりません。純粋な目で物事を見始めるとき、突然問題が解け、簡単な解決方法が現れる事は良くあることです。ところが、自分自身が、快楽や贅沢を追い求めるような利己的な心から離れる事が出来なければ、自分の目を曇らせてしまい、物事の真実は曖昧なままになってしまうのです。
しかし、真実を見つめるだけでは充分ではありません。その真実を追い求め続けるためには、勇気を持つことも必要とされるのです。
物事をあるがままに見て、さらに自己犠牲を払ってでも成し遂げようという心構えできていれば、結局は克服できない問題など無いのです。

30 信頼は自らの内に築く   稲盛和夫

信頼できる人間関係がなければ、成功することはできません。特に経営者においてはそうです。
それでは信頼関係を築くには、どうすれば良いのでしょうか。私の場合はまず、信じられる仲間をつくろうろ思いました。つまり自分の外に信頼関係を求めたのです。
しかし、私は間違っていました。自分が信頼される人間にならないと、本当の信頼関係は築けないことにきずいたのです。第一に自分自身の心がほかの人たちから信頼されなければ、仲間でさえひきつけることはできないのです。信頼関係は自分自身の心の反映だったのです。
私も人に裏切られたことは何回もあります。しかしそれでも私は、相手の人を全面的に信頼すべきだと考えています。また自分の心が相手の信頼に値するかどうかを常に自問自答し、もし値しないのであれば、自分の態度を改めなければならないと思っています。
たとえじぶんがそんをしたとしても、人を信じていく、その中でしか信頼関係は生まれないのです。
信頼とは、外に求めるのではなく、自らの心のうちに求めるべきものなのです。

顔の無い「市民目線」に振り回される日本政治  カトラー

小沢一郎の再・強制起訴をめぐり、小沢一郎サイドから申し立てられていた議決の無効申し立てを東京地裁が却下した。
前回のこのブログのエン トリー記事でも取り上げたように、検察審査会の2回目の議決内容には、告発した市民団体の告発内容や検察当局の訴追内容に含まれない事柄が含まれている。 小沢一郎サイドもこの点をとらえ「今回の議決そのものが検察審査会の権限を逸脱した違法なもので無効」と主張し、議決の取り消しとともに、東京地裁が進め ていた指定弁護士を決める手続きの中止を求めていた。東京地裁は、そうした問題も含め、法廷で争うべきとし、この申し立てを却下したことで、今後の舞台は 法廷に移ることになる。

今回のエントリー記事で考えて見たいのは、小沢一郎を告発し、強制起訴の起点となった市民団体のことである。小沢の告発にどのような市民団体が動いたのかについてこれまで大マスコミは、なぜか触れてこなかった。
というのも、ネット上では既に話題になっていたが、在特会(在日特権を許さない市民の会)という極右団体が告発をおこなったことを、この会の桜井誠代表のブログ等で公表していたからだ。こうした団体が、在日外国人の参政権取得に前向きだったとされる小沢一郎の追い落としという政治的意図を持って仕掛けた告発であったとは、大新聞、テレビメディアはさすがに取り上げることができなかったのだ。

小沢一郎を告発した「真実を求める会」という市民団体

ところが、最近になって、朝日新聞のasahi.comが、小沢の強制起訴に向けた告発をおこなった市民団体として「真実を求める会」という正体不明の団体を探しだし、その団体に関する記事を掲載した。

Asahi.com 10月8日記事
小沢氏告発の団体とは 「保守」自認、政治的意図なし

取材を受けたこの団体の代表者は、小沢一郎という時の最高権力者の強制起訴に向けた告発を行うことで「命の危険があるから、名乗ることはできない」 と言っているらしく、記事中でも、関東近郊に住む60代の元新聞記者、元教師、元公務員、行政書士などの集まりとしか説明されていない。こうした団体のこ とを取り上げる朝日新聞asahi.comの見識も疑うが、この団体のような自称「市民の会」が、在特会などより、考えようによってはよほど質が悪い。

在特会の場合は、善し悪しは別にして、立ち位置や主張が明らかである。何故、小沢一郎を強制起訴に持ち込みたいのかも理解できる。しかし、「真実を求める会」とやらは、そうした自分たちの立ち位置をことごとく隠蔽している。あえて顔を隠しているのだ。
「命 の危険」という言い草もちゃんちゃらおかしいとしか言いようがない。民主的な手続きによって告発を行った日本国民を一体誰が抹殺できるというのか。いい歳 をして仮にそれを本気に恐れているのだとしたら、顔を世間に出し、自らの団体を公知のものにするほうがよほど身を守る上で安全だし賢明だよと言ってやりた い。

安全な場所に身を置きつつ批判だけは行いたい

要するに彼らは自分の姿は見せないで安全な場所に身を置きつつ、他人(この場合は小沢一郎)の批判だけは行いたいのだ。このように書いてくるとほと ほと情けなくなってくるが、こうした似非(えせ)インテリの連中が、常に「市民」を詐称してきたのであり、この国における「市民意識」「市民目線」なるも ののどうしようもない底の浅さを物語っている。

何かに向かって喧嘩する時は、自分も返り血を浴びる覚悟が不可欠であることは、子供だって知っている。それが嫌なら大人しくしていれば良いのだ。
ともすれば「無名性」に逃げ込み、「空気感」を醸成し、「おまえらも空気読めよ」と強制するのが、残念ながらこの国の世論やメディアの常道、常套手段になっている。

「真実を求める会」に集まっている人々も、心のどこかで自分たちは、議決書で謳われているところの「市民目線」や「世間」を代表しているとでも思っ ているのだろう。だからこそ、朝日新聞asahi.comも「世論」の代表として、名前すらも明らかにしないこの団体を取り上げている。根拠なきヒステ リックな小沢批判を繰り広げる朝日新聞にとって、告発の起点が在特会のような団体であってはまずいので、自分たちの醸成している「空気感」に近い「市民団 体」としてこの「真実を求める会」に飛びついたのだ。

ひと昔前まで、新聞TVに登場してくる「市民グループ」とは、共産党や社会党、労働組合などの支持組織・グループの別名だった。そうした詐称のお作 法がメディアでは今でも性癖として続いているのかもしれないが、「市民」というものが言葉の正しき意味において実体化した例はない。

「市民」なんてものはこの世のどこにも存在しない

あえていえば、この国に「市民」なんてものは無かったし、これからもないだろう。
それでは、民主主義の先進国といわれる欧米諸国において「市民」なるものが存在しているのかといえば、日本のように自分のことを「市民」という顔の無い無名の存在として捉えるような習性は誰も持ち合わせていないだろう。

要するに、朝日新聞をはじめとした日本の大手メディアが重宝がる「市民」や「市民目線」なんていうものは、そもそも世界中のどこにも存在しない幽霊のようなものなのだ。この世の中に存在しているのは、生身を持って切れば血が出る「あたな」であり「私」である。
様々な異なる生き方、考え方、異論を持った人間たちがいるだけなのだ。にもかかわらず、その幽霊のような「市民目線」に一国の総理になってもおかしくない政治家が追いつめられ、日本の政治全体が振り回されている。

検察審査会の討議内容を公開せよ

検察審査会についても同じことがいえる。審査会のメンバーについては、性別、年齢だけが公表され、どのような議論がされたのかは全くのブラックボックス状態である。
こ の場合、無名性と匿名性を分けて考えることが重要だ。個人名を公表しなくとも、取り交わされた議論の内容を匿名で公開すれば良い。議論のプロセスが明らか にされていない今の状態では、下された議決が妥当なものかどうか誰も判断できず、異論・反論の余地のない「市民目線」として独り歩きを始める。異論の余地 がない言説が独り歩きする世界、これこそがファシズムである。

ファシズムとは、もともと実体的なものではない。それは、人々の心が招来する亡霊のようなものだ。

市民たちよ!己が心のファシズムを恐れよ

(カトラー)

自由貿易協定

現在の自由貿易地域(Free Trade Area)   (クリック拡大)


自由貿易協定(じゆうぼうえききょうてい、英: Free Trade Agreement, )は、物品の関税、その他の制限的な通商規則、サービス貿易等の障壁など、通商上の障壁を取り除く自由貿易地域の結成を目的とした、2国間以上の国際協定である。

地域経済統合の形態の中では、緩やかなものとされている。2国間協定が多いが、NAFTA(北米自由貿易協定)等の多国間協定もある。

またFTAには自由貿易地域(英: Free Trade Area) として、自由貿易協定を結んだ地域を指す場合がある。 国際的には自由貿易協定(Free Trade Agreement)によって設定される自由貿易地域(Free trade Area, FTA)に略語を当てることが多く、日本では、自由貿易協定(Free Trade Agreement)にFTAの略語を当てることが多い。

環太平洋戦略的経済連携協定


環太平洋戦略的経済連携協定(TPP:Trans-Pacific Partnership、またはTrans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement)は、元々2006年5月シンガポールブルネイチリニュージーランドの4カ国加盟で発効した経済連携協定。これらの国々が太平洋を囲む関係であった事からこの名が付けられ、環太平洋間での経済協定として始まった。加盟国間の経済制度、即ち、サービス、人の移動、基準認証などに於ける整合性を図り、貿易関税については例外品目を認めない形の関税撤廃をめざしている。環太平洋経済協定環太平洋連携協定環太平洋パートナーシップ協定とも呼ばれる。

2006年5月に4カ国加盟で発効した経済連携協定であったが、2010年10月よりアメリカ主導の下に急速に推し進められる事となり、TPPの転換点と見られ参加国間で協議を行い2011年のAPECまでの妥結を目標にしている。

また、交渉・締結国に日本を加えた10カ国のGDPを比較すると、その9割以上を日米2カ国が占めるため、実質は日米FTAだとの見方もある。

2015年までに協定国間の貿易において、工業品、農業品、金融サービスなどをはじめ、全品目の関税を10年以内に原則全面撤廃することにより、貿易自由化の実現を目指すFTA(自由貿易協定)を包括するEPA(経済連携協定)を目標としている。実質関税自主権の放棄である。

また農林漁業のダメージや食料安全保障の観点から、多くの道府県議会から反対の意見書提出や特別決議の採択が相次いでいる。

金融分野において、現時点の郵政改革関連法案は金融の非関税障壁となっており改正の必要があると米国が問題視しているという報道がある。これに対し 郵政・金融担当相 自見庄三郎は、報道などが先走っており、仮に日本がTPP交渉参加を表明した場合でも米国がいかなる要望をしてくるかは現段階で不明である と会見で説明している。

ほか、これまでのような外国企業の進出・投資規制や労働者の受け入れ制限が難しくなるといった指摘もある。

連携協定の対象

参加を目指す国家がまとまり交渉の作業部会を設けている。連携協定が目指す貿易に関する作業部会の主な議題は次の通り。

工業製品、農産物、繊維・衣料品の関税撤廃
金融、電子取引、電気通信などのサービス             緑:発効時の加盟国
公共事業や物品などの政府調達方法            オレンジ:発効後の加盟国
技術の特許、商標などの知的財産権
投資のルール
衛生・検疫
労働規制や環境規制の調和
貿易の技術的障害の解決
貿易紛争の解決
  

日本

2010年10月8日菅直人首相は自身が設置した新成長戦略実現会議[16]で、「米国、韓国、中国、ASEAN、豪州、ロシア等のアジア太平洋諸国と成長と繁栄を共有するための環境を整備するにあたっては、EPA・FTAが重要である。その一環として、環太平洋パートナーシップ協定交渉等への参加を検討し、アジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)の構築を視野に入れ、APEC首脳会議までに、我が国の経済連携の基本方針を決定する」という旨の総理指示を出した。

11月9日菅内閣は関係国との間での経済連携強化に向け「国を開く」という観点から、農業分野、人の移動分野および規制制度改革分野において、適切な国内改革を先行的に推進すると閣議決定を行った。与野党でも賛否両論の中核である農業分野は関係大臣からなる「農業構造改革推進本部(仮称)」を設置し、2011年6月をめどに基本方針を決定する。さらに情報収集を進めながら対応していく必要があり、国内の環境整備を早急に進めるとともに、関係国との協議を始めるとしている[19][20]

11月13日、9日の閣議決定に沿い菅直人首相はAPECにおいて「日本はまた再び大きく国を開くことを決断した」と述べ、交渉参加に向けて関係国との協議に着手することを正式に表明し、また「貿易の自由化いかんにかかわらず、このままでは日本の農業の展望は開けない」とも述べ農業の競争力強化への取り組みの決意も示した。

11月30日菅内閣は「食と農林漁業の再生推進本部」を発足し、首相、関係閣僚と民間有識者11人からなる「食と農林漁業の再生実現会議」を設置し初会合が開催された。この初会合ではこの協定(TPP)への参加と農業の改革や国際競争力強化の両立論や協定への参加を前提としないなど意見は分かれた。

12月3日、TPPへの参加表明9カ国が集まる第4回ニュージーランド・ラウンドに、まだ参加を決定していない日本はオブザーバー参加を打診していたものの、参加が断られたと大畠章宏経済産業相は記者会見で述べ、参加国はTPPに関する交渉で忙しく、個別接触も難しかったとしている。交渉会合終了後に、政府は参加各国を個別に訪問し内容を確認するとした。

12月9日経済産業省は「農業産業化支援ワーキンググループ」を立ち上げ、資源エネルギー庁中小企業庁や関係団体として日本経済団体連合会日本商工会議所全国商工会連合会日本貿易振興機構中小企業基盤整備機構をメンバーとして農林水産省とは違った立場から農業の産業化を支援する作業部会を始めた。

高橋洋一の俗論を撃つ!

TPPで農業を自由化すると
日本の農業は本当に壊滅するか

 菅総理は並々ならぬ決意で、TPPを6月までにまとめると言った。同時に増税路線もいっているが、増税については、このコラムの第四回第六回で述べたので、今回はTPPを取り上げたい。

 TPPの正式名称は、環太平洋戦略的経済連携協定(Trans‐Pacific Strategic Economic Partnership Agreement)。シンガポール、ニュージーランド、チリ、ブルネイの自由貿易協定(FTA)として2006年に発効し、その後、米国、豪州、ベトナ ムが参加するなどして、現在は計9ヵ国で枠組み作りに向けた交渉を行っている。

 モノやサービスはもちろん、政府調達や知的財産権なども対象とする包括的FTAで、原則として15年までにほぼ100%の関税撤廃を目指す。当然、農産物も例外ではない。

 TPPに対しては案の定、農業関係者は猛反発している。民主党では政治問題としても騒がしい。というのは、執行部対小沢一郎元代表の確執があるか らだ。TPPに反対しているのは大半が小沢グループの面々。関税撤廃反対、農家の保護を大義名分に、小沢氏を排除する執行部を牽制しようという本音が透け て見える。

 そこでまず検討すべきは、TPP参加によって、国としてプラスになるのかどうかである。これは大学生レベルの経済学の良問だ。もちろん歴史的にも自由貿易が支持されてきたことの裏付けになる。

TPP

別名:環太平洋経済協定環太平洋戦略的経済連携協定環太平洋パートナーシップ環太平洋パートナーシップ協定太平洋間戦略経済連携協定トランス・パシフィック・パートナーシップ
英語:Trans-Pacific PartnershipTrans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement

2006年APEC参加国であるニュージーランドシンガポールチリブルネイの4ヵ国が発効させた、貿易自由化目指す経済的枠組み工業製品農産品金融サービスなどをはじめとする加盟国間で取引される全品目について関税原則的に100%撤廃しようというもの。2015年をめどに関税全廃実現するべく協議が行われている。

2010年11月現在、すでに米国オーストラリアペルーベトナムマレーシアの5ヵ国がTPPへ参加次いでコロンビアカナダも参加意向表明している。

日本これまでTPPに対す姿勢を明らかにしていなかったが、2010年10月開かれた新成長戦略実現会議」で、菅直人首相がTPPへの参加検討表明した。しかしながら、TPPが原則として例外認めない貿易自由化協定であることから、コメをはじめ国内農業漁業壊滅的な打撃を受けるとして反発する声も上がっている。

2010年11月9日閣議決定ではTPPへの参加決定されなかったものの、下記通り「関係国との協議開始する」との決定が下された。

トヨタ“シロ裁定”に潜む、TPPの罠に覚醒せよ(カトラー Twitter: @katoler_genron )

「娘もトヨタ車買った」 米運輸長官、厳しい攻撃から一転、安全宣言
ラフード米運輸長官は8日の記者会見で「娘もトヨタ自動車の車を買った」と述べ、安全性にお墨付きを与えた。1年前は議会で「運転をやめるべきだ」と話すなど厳しいトヨタ攻撃で物議を醸しただけに、この日の会見は“安全運転”に徹した。(
MSN産経ニュース

米運輸当局がこれまでの強硬姿勢を一転させて、「トヨタ車の電子制御システムに問題はない」とする最終的な“シロ裁定”を出した。トヨタ攻撃の急先 鋒だったラフード米運輸長官は記者会見で、自分の娘からトヨタ車を買いたいといわれ、「トヨタ車は安全だ」と自らがお墨付きを与えた話などを披露し、これ までの態度を一変させてトヨタ車を持ち上げて見せた。

米国側がこうした異常とも思えるリップサービスを行っているのは、トヨタ車に対する過去の行き過ぎたバッシングの罪滅ぼしということではなく、この 1年間で日米政府およびトヨタのような日本を代表する輸出産業との間で何らかの合意、握りが取り交わされたことを物語っている。その見返りが、今回のラ フード運輸長官のリップサービスに見られる、米国市場におけるトヨタの信用回復というわけだ。

一転、トヨタの信用回復に動いた米国の意図

そして、日米政府そして日本の輸出産業の間で取引された、その合意、握りとは何かといえば、日本のTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)への参加に 他ならない。以下に、2009年以降の動きを中心にトヨタリコール問題とTPPの動向を比較できる年表(クリックすると拡大します)を作成したが、これを あらためて眺めると、この2つのテーマが正に不即不離の形で進展してきたことが見えてくる。

Toyota_recall_tpp

そもそも米国のオバマ政権が、TPPへの参加を表明した背景には、リーマンショック以降の苦境が続く米国経済の立て直しを図るために打ち出した「輸 出倍増計画」にある。これは、米国からの輸出を倍増させて、貿易不均衡の解消と国内産業の活性化および雇用の確保を目標に、昨年1月のオバマ大統領の一般 教書演説で述べられたものだが、大方は、その実現性を危ぶんだ。景気低迷の中にあっても、米国が現在でも世界一の内需・消費大国であることに変わりはな い。その米国が一転して、モノを売る方に回るというわけだが、世界中で一体どこの国が米国製品の買い手となり得るのか。

急速な経済成長で確かに中国などアジア新興国の購買力は高まっているとはいえ、今の新興国市場が米国製品の輸出倍増の受け皿になるとはとても考えら れない。例えばアップル社の製品のほとんどが中国、台湾のEMSで製造されているように、そもそも米国製造業の製造拠点の海外移転が限界まで進んでおり、 今更、製品輸出に貢献する産業を国内に見つけようと思っても難しい状況だ。

また、中国に関しては、中国人民元の固定為替レートを保持している限りは、TPPのような包括的な枠組みに参加すること自体が不可能だ。となると、米国製品の受け入れ先として残る標的は日本だけである。

TPP加入は実質、関税自主権の放棄

京都大学の中野剛志准教授が指摘し ているように、TPPとは、米国が輸出倍増計画のもと日本を標的に打ち出した通商貿易戦略に他ならない。中野准教授も指摘しているように、TPPに加入を 表明している国のGDPシェアを比較してみれば、そのことは一目瞭然で、「米国が7割、日本が2割強、豪州が5%で残りの7カ国が5%。これは実質、日米 の自由貿易協定(FTA)」(中野剛志准教授)に他ならない。

ただし、FTA(自由貿易協定)であれば、2国間で関税品目等を協議して決められるが、TPPの場合は、2015年までに原則全ての関税をゼロにす ることを前提としているわけだから、これは実質的な関税自主権の放棄に等しい。逆にいえば米国側の関税も取り払われるわけだから、自動車のような日本の工 業製品を売り込み易くなるという見方もできる。しかし、米国も含め各国が通貨安競争に走る傾向が強い現在のような世界経済の下では、そうした希望的観測は 全て裏切られることになるだろう。トヨタ車の信用が地に墜ちて販売台数が激減するのを尻目に、米国市場で大幅にシェアを伸ばしたのは韓国ヒュンダイだが、 トヨタの信用失墜もさることながらウォン安の追い風を受けたことが大きく働いた。
要するに凋落したGMに代わって世界一の自動車メーカーになったトヨタを、米国は、円高と技術欠陥デマを流布することで完膚無きまでに恫喝し屈服させたのだ。

かくして、トヨタのようなグローバル輸出企業にとって残された選択は現地化である。米国市場ではトヨタに先行して現地化を進めているホンダの現地化 比率が実に70%に達している。米国が今回のトヨタのリコール問題への対応を通じて発しているのは、「トヨタも米国内で車を売りたいのなら、ホンダのよう にもっと現地化を推し進め、工場もヒトも米国内で調達しろ」というメッセージなのだ。

米国のターゲットは農産品、医薬・医療、金融

一方、TPPという万能鍵を得た米国は、虎視眈々と日本市場をこじ開ける機会を狙っている。そのターゲットは、農産品、医薬品・医療サービス、そし て金融である。中でも農産品はTPP加入の人身御供として差し出されるといっても過言ではなく、既に日本のメディアでは、国内産業の就業者比率で5%、 GDPに占める比率では1.5%に過ぎない農林水産業が抵抗勢力になって「第三の開国」を阻み、日本の輸出産業の足を引っ張るのかというナイーブな論調が 支配的になりつつある。

確かに、日本の農林水産業には抜本的な構造改革が必要だ。しかし、それは日本側の事情と戦略に基づいて進められるべきだ。

仮にTPPが導入され2015年までに農産品の関税障壁が取り払われたら、大規模化が進んでいるといわれる北海道等の農業生産者であっても全く太刀 打ちできず、壊滅的な打撃を受けるだろう。TPP議論に関しては、小泉政権時代の構造改革論者や経済学者までが勢いづいて、米国の外圧を利用して構造改革 や規制撤廃を進めるチャンスというようなことを言い出しているが、そんな与太話には間違っても乗ってはいけない。繰り返していうが、TPPとは米国製品を 日本に買わせるために仕組まれた米国の戦略であり、相手の戦略に乗っかって自国民を利することなどできるはずがないからだ。

現地化とTPP支持の見返りだったトヨタの信用回復?(カトラー Twitter: @katoler_genron )

現地化とTPP支持の見返りだったトヨタの信用回復?

もう一度、私が作った年表に戻ってほしい。
管首相がTPP加入検討を言い出したのが昨年の10月、そのわずか1ヶ月後に開催されたAPEC では、オバマ米大統領を議長とするTPPの枠組みが実質的に決められた。この時点で日本の輸出産業のTPP参加の支持とトヨタの米国市場での信用回復まで のシナリオがほぼ決定されたと見ていいだろう。

トヨタは米国における更なる現地化の推進、そして日本国内においてはTPP参加支持に回ることを前提に米国内での信用回復という企業として大きな見 返りを得た。一方、管直人率いる現政権は、国内輸出産業や経団連等の財界、経済団体からの支持を得られという見通しから、米国追従という、かつて辿った道 に再び舞い戻り「第三の開国」を言い出したのだ。
ちなみに「第三の開国」とは、私がこのブログで3年前に言い出した(関連記事参照)ことである。 管首相が私のブログを読んでそのキーワードをパクったのかどうかは知るよしもないが、言っていることの中味は全く異なる。私が主張した「第三の開国」と は、移民の受け入れも含めてアジアに向かって国を開くことを意味しており、管の言うように米国の前に三度ひれ伏すことではない。

管直人「第三の開国」の虚妄

先週まで出張で北海道の人々と仕事をしていたが、地元はTPP加入問題で相当ピリピリしていた。北海道の農林水産業の命運がこの問題には絡んでいるわけだから無理もないことだ。もし、TPPが発動されたら北海道は独立すべしと私は言っている。
リ ンゴ、さくらんぼ、牛肉とこれまでも農産物自由化の波はあったが日本の農産品は生き残ってきた、だから今回も何とかなるはずで、反対しているのは、農協だ けだというナイーブな議論を展開する経済学者もいるが、彼らは北海道の農業の現場の声を一度でも聞いたことがあるのか。
TPPで標的になるのは、米や大豆、とうもろこしといった主要農産物である。リンゴやさくらんぼといった高付加価値化が可能な嗜好作物ではない。
北 海道は、遺伝子組み換え作物の導入を拒否する決議を行っているが、TPP加入によって、先ず米国が標的にするのは、このあたりになるのではないか。関税障 壁を無くし防御手段を喪失させ、格安な米国の農産物が怒濤のように押し寄せてくることに恐怖を抱いた日本の農業生産者に対して、遺伝子組み換え作物の種苗 を採用するか、米国からの価格破壊の農作物輸出を受け入れるかの二者択一を迫るのだ。

当然、北海道の農民としては、米国農産物の価格破壊により壊滅させられるより、遺伝子組み換え作物の受け入れに踏み切るしかなくなるだろう。米国は 国策会社のモンサント社を通じて食料資源戦略を世界的に発動しており、その基本戦略が遺伝子組み換え作物の世界的な普及推進である。米国モンサント社は、 ベトナム戦争で悪名高い枯れ葉剤を製造していた化学会社で、その後は農薬を製造していたが、チマチマ農薬を造っているより、その農薬に耐性のある遺伝子組 み換えの種苗を生産する方が百倍儲かると現在のような企業に様変わりした。しかし、この会社は、私にいわせれば人類史に残る極悪な企業だ。

何が極悪かといえば、遺伝子組み換え種子の知財権を握り、世界中の農民を支配・搾取し、食料を米国の覇権構築の手段にすることを明確に意図している からだ。しかも、その意図を実現するために、自社の種苗の安全性は確認されているとし、自然界の作物が持っている遺伝子を汚染することを厭わない。ブラジ ルのように遺伝子組み換え作物を拒否していた国に対しては秘密裏に遺伝子組み換えトウモロコシを密輸してばらまき、在来種の遺伝子を汚染させ遺伝子組み換 え作物を既成事実化させるというようなあくどい所業を行っている。

TPPが発動されれば、北海道の大地は、こうしたモンサントのような企業に蹂躙されてしまうだろう。管直人は、日本の土と作物を汚染させた文字通り「売国奴」として末代まで糾弾されることになる。

2011年2月13日日曜日

連載「INSIGHT」THE WORLD COMPASS 2008年10月号

資源大国日本へのパラダイム転換—海洋開発の重要性   寺島実郎

「日本は国土の狭い資源小国だ」というのが、大方の日本に関する認識である。確かに、日本の国土面積37.8万平方キロメートルは世界61番目にす ぎない。しかし、排他的経済水域の面積では447万平方キロメートルと第6位の海洋国家である。固定観念を脱し、海洋の可能性に眼を向けるならば、日本は 資源大国になり得る可能性を秘めているといえよう。

最近の海洋調査の成果によれば、日本の海底には、希少金属からエネルギー資源まで驚くほど多くの資源が眠っていることが確認されつつある。世界潮流 として資源ナショナリズムが高まる中で、自国の資源にしっかりと眼を向け、技術力を注入して探査・採鉱していくことは、21世紀の日本の創生にとって極め て重要なのである。

特に、日本近海には海底火山活動領域が多数存在し、銅、鉛、亜鉛、金、銀などの金属資源の宝庫といわれる「熱水鉱床」が次々に発見され、海外企業に よる海底鉱区の申請もされつつある。また、コバルト、マンガンなどが豊富に含まれている鉱物資源、さらにはメタンハイドレードなどエネルギー資源の埋蔵も 確認されている。

日本も「海洋基本法」を2007年4月に成立させ「総合海洋政策本部」を内閣府に設置したが、従来の政策の寄せ集めではない新たな総合的海洋戦略の 構築とタイムリーな実行が問われている。経済セクターも強い問題意識を持って、結束・連携してコンソーシアム型のプロジェクトを具体化させるべき局面にあ る。戦略研究所もJAPIC(日本プロジェクト産業協議会)の共同研究に参画しており、海洋開発の可能性に挑戦していきたい。

連載「脳力のレッスン」世界 2011年1月号

オバマ政権の苦闘—二〇一〇米中間選挙の意味

熱狂的な歓呼の中でスタートしたオバマ政権も一年八ヵ月が経過し、中間選挙という洗礼を迎えた。結果はオバマ大統領にとってあまりにも厳しいものと なった。上院では与党の民主党が議席は減らしたものの五三議席を確保して定数一〇〇の過半数を維持したが、下院では定数四三五の過半数(二三八議席)割れ の一九二議席となった(一一月二五日現在、未定一議席)。オバマ政権は共和党優位の下院と向き合いながら後半戦に入った。

中間選挙を挟む一週間、米国の東海岸を訪れた。一九九七年に、一〇年間の米国勤務を終えて帰国して以来、定点観測のごとく年に三~四回は米 国を訪れてきた。あの二年前の大統領選挙におけるオバマ当選の熱気、そして就任式のワシントンに溢れていたオバマへの米国再生の期待を思い起こしながら、 複雑な思いで多くの知人と面談してきた。オバマ政権への過剰な期待の反動としての失望というべき空気が満ちていた。

公約実現に挑戦したが故の反発

発足以来のオバマ政権は国民の評価に値しない無能力な政権だったのであろうか。決してそんなことではない。オバマ自身が「公約の七割は実現しつつあ る」と発言しているが、政治家としての虚勢ではなく、客観的に見ても、オバマは自らの公約に挑戦し、時代を動かそうとしてきたといってもよい。同じ政権交 代でも、日本の政権交代後の民主党の無残なまでの「公約からの後退」とは比較にならないほど「米国を変える」という試みに真剣だったといえる。

まず、金融改革である。オバマ政権はリーマンショックを背景として成立した政権であり、金融危機に立ち向かうことを余儀なくされた。サブプ ライム問題、リーマンショックをもたらした「強欲な金融資本主義の歪みを正す」ことを使命としたともいえるのである。一九三〇年代以来ともいえる金融改革 規制法の骨格は、「金融安定化監督評議会、通貨監督庁(OCC)を設置するなど金融機関への政府監督権限の拡大」「リスクの大きなデリバティブ(金融派生 型商品)取引の透明化と制限」「証券化商品に対する投資家保護のための銀行規制」などで、より厳しい規制を主張する人達からは「ザル法」「妥協の産物」と いわれながらも、行き過ぎたマネーゲームに縛りをかけるものであった。

この種の話はメディアによって誇張されることが多いが、「議員一人に一〇〇万ドルの金と四人のロビストを投入した」といわれるほど、本気に なってウォール街は金融改革規制法を潰しにかかった。それでもオバマは屈することなく法案成立に持ち込んだのである。だが、あざとい金融商品の創造と膨大 な成果報酬を得ることが常態となっているウォール街では、「水清ければ魚棲まず」という面があり、オバマへの拒否反応は強く深い。かつてはオバマに一定の 評価を与えていたウォール街の民主党支持者でさえ、自分の懐に手を入れてきたオバマへの、憎悪にも近い感情をむき出しにするのには驚かされた。

次に、医療保険制度改革である。「一五〇〇万人もの人が健康保険にさえ入れない」とされてきた米国で国民皆保険の制度導入は不可能といわれ た。日本人の感覚からすれば「大きな前進」と思える改革にオバマは踏み込んだのである。このことが、競争主義・市場主義を信奉し、貧困や格差も「自己責 任」とする傾向を根強く潜在させる米国民の反発を顕在化させた。「何故、貧しいやつの医療費を我々が負担せねばならないのだ」という拒絶反応である。

この拒絶反応を象徴するのが「茶会党(ティーパーティー)」という草の根運動の盛り上がりといえる。独立戦争の引き金ともなった一七七三年 の「ボストン茶会事件」が運動の名前の由来である。宗主国だったイギリスが米国に輸入される茶に関税を課したことに反発し、独立急進派がボストン港内に停 泊中の船から茶箱を投げ入れた事件とされるが、調べてみると、「愛国的行動」というよりも、英国東インド会社が茶販売を独占しようとする動きにオランダの 密輸茶商人と茶卸商人が急進派をけしかけた事件だったことが分る。ともあれ、現代の茶会党の主張の基底にあるのは、「徴税拒否」のみならず「連邦政府の存 在」さえ否定する極端なまでの「小さな政府」志向なのである。

茶会運動の象徴的存在であるサラ・ペイリン(前アラスカ州知事)やデラウエア州の共和党上院議員候補(落選)となったクリスティン・オドネ ル候補の発言における「屈託のない無知」や「単純化された進歩主義への攻撃」には驚かされるが、「米国ではよく見かける悪意の無いおばさん」という存在で もある。建国以前のアメリカ以来、この国に内在する本能のような性格が見て取れるのである。

また、オバマが経済再生の柱として主導した「グリーンニューディール(化石燃料に過度に依存したエネルギー体系の再生可能エネルギーへの転 換)」も、まだ成果が現れていないこともあるが、財政支出による産業政策そのものが「税負担の増大への拒否」を誘発する構図になっているといえる。

「雇用を増やさぬ景気回復」への苛立ち

米国のマクロ経済指標は決して悪くない。前年九月のリーマンショックを受けて二〇〇九年にマイナス二・四%に落ち込んだ実質GDP成長率は本年の IMF見通しとしてはプラス三・三%へと回復している。株価もダウ工業株三〇種で一・二万ドル台とリーマンショック前の水準に戻った。ナスダックも二六〇 〇ポイント水準となり、二〇〇八年の一五七七ポイントを大きく上回っている。企業収益も「順調」と言って良いほど回復基調にある。二〇一〇年上半期の米国 企業の税引後の企業収益は一・一九兆ドル(年ベース)とピークだった二〇〇六年の一・一四兆ドルを上回るレベルとなっている。

では何が問題であり、米国民は苛立っているのか。「雇用」である。「ジョッブレスリカバリー」、つまり景気回復が雇用の増加に結びつかない ことへの怒りなのである。米国の失業率(九月)は九・六%と二〇〇七年の四・六%に比べ倍以上の高さに張り付いたまま下がらない。もっと踏み込むならば、 エコノミストの中には「CHEAP・JOBを除けば、失業率の実体は二〇%を超える」という人もいる。最低賃金ぎりぎりの付加価値の低い仕事はあるが、働 くことの充足感を得られるような仕事は少ないという意味である。

どうして雇用が回復しないのか。「米国経済の空洞化」というべきか、マクロの経済指標が好転し、企業収益が改善されても、米国内に新規の雇 用を生み出さない構造が横たわっているのである。米系の多国籍企業は、新興国をはじめ海外に生産立地や投資を展開することによって利益をあげている。

米国製造業の海外生産比率をみると、全企業ベース(○八年)で二六%、海外進出企業ベースでは四〇%となり、本社は米国にあっても海外で生 産している比重は確実に高まっている。ちなみに、日本の製造業の海外生産比率は、全企業ベース(○八年)で一七%、海外進出企業ベースで三〇%であり、次 第に米国の状況は他人事ではなくなってきている。企業活動のグローバル化によって、企業の利益と国内雇用の乖離が生じているのである。

オバマ政権は「輸出の促進」による雇用の創出に力を入れているが、いかなる産業分野において輸出拡大と雇用創出が期待できるといえるのであ ろうか。例えば、米国の輸出を支える基幹産業といえば農業であるが、農産品輸出が増大しても、大規模農業の米国において多くの新規雇用が生まれるというも のではない。また、ボーイングの航空機やIT関連の先端分野にしても労働集約型ではなく、グリーンニューディールでの太陽・風力・バイオマスにしても競争 力を持った海外からの輸入を増加させるだけで国内雇用創出力は限定的である。結局、流通の小売やサービス分野での雇用に依存せざるを得ないわけであるが、 「借金してでも消費する」とされた消費者心理が凍りつき、消費が動かなくなり始めている。一〇年一〇月現在、小売業の販売額も消費者信用残高もリーマン ショック以前の水準には戻っていない。

もちろん、今回の中間選挙の結果をもたらしたものは「経済」だけではない。イラク戦争に反対したオバマを大統領にしてまでパラダイムの転換 を図った外交政策においても、「主力部隊を撤退させても安定には程遠いイラク情勢」「泥沼化するアフガニスタン」「イスラム原理主義とイランの台頭」「制 御不能のイスラエルとパレスチナ問題の複雑化」と中東における米国の制御能力の低下は否定しがたい。また、オバマが勇気と誠意をもって「核なき世界」を リードしようとしてNPTに踏み込んでも、米国民は「米国の威信は揺らぎつつある」という苛立ちを拭えないのである。ただ、今回の中間選挙に限れば、米国 民の判断の最大の論点が「経済」にあったことは間違いない。

米国という国の経済構造の再考

改めて米国という国の経済構造を直視するならば、経常収支の赤字、つまり産業活動の海外との帳尻において膨大な赤字を抱えながら、資本収支の黒字、 すなわちウォール街を窓口に世界の資金を吸収する金融活動の黒字によって、なんとか経済を成り立たせてきたことが分かる。別表の資料を見てもらいたい。〇 七年まで経常収支の赤字を補って余りある資本収支の黒字にささえられて流入過剰の状態だったが、二〇〇八年を境に流入過少となった。つまり、このことが進 行中の「ドル安」の基本要因であり、これまで産業の実力以上の過剰消費と過剰軍事力を可能にしてきた米国の経済構造が崩れ落ちているのだ。世界中の過剰流 動性(資金)を米国にひきつける要素が失われたからである。一つは「相対的な金利の高さ」である。FFレートは〇七年の五・〇二%から、リーマンショック 後の超低金利政策によって一〇年九月現在〇・一九%という水準にあり、米国の金利の優位性はなくなった。二つは、「サブプライムローン」という金融派生型 商品の破綻によって、NY金融市場への信頼性が揺らぎ、かつてほど資金が米国に還流しなくなったということである。

中間選挙に先立つ一〇月二二日に韓国で行われたG20財務相・中央銀行総裁会議でガイトナー財務長官は「二〇一五年までに経常収支の赤字も しくは黒字をGDP比で四%以内に抑える」という数値目標設定を韓国と共同提案した。経常黒字大国のドイツと中国の反対で合意形成はできなかったが、米国 が経常収支の世界的再均衡(REBALANCE)を主張したことは注目される。米国としては、財政赤字を抑えて貯蓄率を高めることに努力することで極端な 自国の経常赤字を回避することを担保に、中国の人民元の切り上げを誘導しようという意図を示したといえる。

オバマ政権の後半戦は、共和党主導の議会の逆風の中を進まざるをえないであろう。ただ彼が背負わねばならない本質的課題は、米国の資本主義 の骨の髄まで沁みこんだ「マネーゲームに傾斜した経済の構造的歪み」の是正である。重い構造問題を抱えながら、性急な国民世論に向き合わねばならぬオバマ の苦悩は深い。


参考:米国の経常収支と資本収支

連載「脳力のレッスン」世界 2010年12月号

日蘭関係の原点、リーフデ号の漂着とは何か—一七世紀オランダからの視界(その2)  寺島実郎

一六〇〇年(慶長五年)四月、豊後(現在の大分県)の臼杵湾の海岸に一隻のオランダの商船リーフデ号が漂着した。一六〇〇年といえば、その年の九月が「関が原の戦い」であり、日本史の転換点ともいうべき年に不思議なオランダからの来訪であった。

オランダ東インド会社(一六〇二年設立)は、まだ存在しなかったが、ロッテルダムの企業家ファン・デル・ハーヘンが主たる出資者となり、ア ジア貿易開拓を狙って五隻の商船団が編成された。オランダを出航したのが一五九八年六月、実に二十二ヵ月の航海を経た漂着であった。リーフデ号には出航時 に約一一〇人が乗り込んでいたが、漂着時の生存者はわずかに二四名で、漂着後も数日で六名が死んだという。生き延びた者の中に英国人のウィリアム・アダム ス(後の三浦安針)とオランダ人のヤン・ヨーステンがいた。このヤン・ヨーステンこそ、江戸で彼が居住した場所にその名前に由来する「ヤエス(八重 洲)」(東京駅の八重洲口)という地名を残している。

この航海はあまりにも悲劇に満ちた冒険であった。大西洋を南下して南米大陸の南端マゼラン海峡を回り、チリーを経て、なんと太平洋を横断し て日本に辿り着いたのである。船団を形成した五隻の船の名前がこの航海への思いの熱さを象徴しており、その悲劇的結末を考えると何やら皮肉でもある。 「ホーペ(希望)」「リーデフ(愛)」「ヘーロフ(信仰)」「トローウ(誠実)」「プライデ・ボートスハップ(歓しき使)」というのが五隻の船名だが、次 々と災禍が船団に襲い掛かった。

荒れ狂う大西洋の嵐、熱帯性の気候で衰弱する乗組員に襲い掛かる厄病、不足する食糧で憔悴した船団がマゼラン海峡に辿り着いたのは一〇ヵ月 後の一五九九年四月であった。冬場のマゼラン海峡の寒風と飢餓で多くの乗組員を失い、ヘーロフ号は航行を断念し、本国に帰った。五隻のうちヘーロフ号だけ が再び故国を見た唯一の船となった。

マゼラン海峡を越えたものの、プライデ・ボートスハップ号は多くの乗組員を失い疲労困憊でチリーのバルパライソ港に入ったところをスペイン 艦隊により没収された。トローウ号はポルトガル船によって撃沈された。なんとか生き延びた旗艦ホープ号も、南緯三七度のセント・マリア島で食糧を調達しよ うとしたが、司令官や船長をはじめ多数の船員が島民の反発を受けて虐殺された。同じくリーフデ号もこの島での食糧調達を試みたが、上陸した船員はすべて殺 戮されてしまった。あまりにも過酷な体験を受けながらも二隻の船はチリー沖の太平洋上で邂逅、協議の結果日本を目指すことにした。だが、ホープ号は消息を 絶ち、リーフデ号だけが日本に辿り着いた。

オランダ船漂着の情報は、秀吉亡き後大阪城西の丸で実権を握りつつあった徳川家康に伝えられ、堺に回航されたリーフデ号の乗員を代表してア ダムスとヨーステンが大阪に呼び出された。通訳に当たったイエズス会の宣教師が敵対する新教徒の国オランダからの漂着者を「海賊」と決めつけ、死罪にすべ しと主張したにもかかわらず、家康はリーフデ号の乗員を助け、江戸に赴くことを命じる。リーフデ号は三浦半島の浦賀に回航されるが、修繕不能となるまで破 損が進み、浦賀で廃船となった。それからの乗組員の運命を含め、この小説も顔負けの壮大な史実を深く考えてみたい。

漂着ではなく意図された日本来訪

「リーフデ号の漂着」と言ってきたが、「漂着」という表現は適切ではないであろう。意図された日本来訪だったからである。そもそも何故リーフデ号は 船出したのか。そして何故、喜望峰を回る「東回りルート」のアジア航海ではなく、マゼラン海峡から太平洋を渡る「西回りルート」を採ったのか。

「大航海時代」はスペイン・ポルトガルが先行した。一五世紀のはじめから、ポルトガルはエンリケ航海王子(一三九四~一四六〇)の指揮の 下、西アフリカ航路の探検と大西洋諸島の発見と植民地化を進めた。一四四一年からは奴隷貿易が始まり、砂糖生産の担い手として拡大の一途を辿った。これに 続く、コロンブスの米大陸発見(一四九二)、バスコ・ダ・ガマのインド航路発見(一四九八)、マゼランの世界周航(一五二二)といった大航海時代を彩る一 五世紀末から一六世紀にかけての世界史的挑戦の背後には海洋帝国化するスペインとポルトガルが存在した。

一四九三年五月、ローマ教皇によって大西洋上の経線を境界として東はポルトガル、西はスペインと領有権を定める詔勅が出された。この決定は 翌年には境界線を西経四六度三〇分まで西に移動するトルデシリャス条約によって修正されたが、それにしても世界を二分するという勝手な決定がローマ教皇の 権威によってなされるという驚くべき時代であった。一六世紀に入り、ポルトガル・スペインの攻勢は加速する。ポルトガルがアジア経略の基点インドのゴアに 艦隊を派遣して制圧したのが一五一〇年だった。その後、マラッカ、ジャワ、中国、日本へと東進を続け、アジアに旗を立てていった。それと並走したのがイエ ズス会の十字架であった。

当時のオランダは北欧とイベリア半島を結ぶ仲介貿易で力をつけ始めた新興国であった。「鰊がオランダを造り、オランダが世界貿易を造った」 という言葉があるが、北海で捕った鰊を塩漬けや酢漬けにしてスペイン・ポルトガルに売り、その代金でアジアからスペイン・ポルトガルが持ち帰っていた胡椒 などの香辛料を仕入れて北欧に売るという仲介貿易で財をなしていったのである。新興国オランダにとってスペイン・ポルトガルの既得権益に食い込むことは容 易ではなかった。「スペイン・ポルトガルに邪魔されずにアジアに至る新航路はないのか」それがマゼラン海峡を越えて太平洋に出る試みであった。

それにしてもリーフデ号は何故日本を目指したのか。船に積み込んだ毛織物・羅紗の市場としての日本に期待したことと、日本の銀を入手し、そ の銀でアジアの香辛料を手に入れて帰ることを意図したといえる。東インドやモルッカ諸島などの熱帯では暑すぎて毛織物や羅紗は好まれず、日本ならば戦国武 将の陣羽織・合羽・胴服などへの需要が期待されると判断したようだ。また、リーフデ号が保有していた地図「南洋針路図」(東京国立博物館蔵)に石見銀山の 所在地が明記されており、銀の入手を意図していたと思われる。つまり、かなり正確な日本についての情報を入手していたということである。これには伏線が あった。ポルトガル船で来日した経験のあるヤン・リンスホーテンが一五九三年に出版した『ポルトガル人の東洋航海記』などを参考にしていたようだ。

この頃のオランダのアジアへの熱気を象徴する試みがなされている。一五九三年から数回にわたり中国・日本・アジアに向う航路として「北方航 路」の開拓に挑戦したというのである。驚くべきことだが、オランダから北上してバレンツ海から北極海を西に進み、ユーラシア大陸の北方海域をベーリング海 峡に至りアジアに向うというものであった。一五九五年にはノルウェイの北端から一〇〇〇キロ以上も北極圏に近づいた北緯八二度まで進んだものの、真夏にも かかわらず雪と氷に阻まれて航行を断念している。この航海にもウイリアム・アダムスが参加していたという。

リーフデ号が豊後の臼杵海岸に辿り着いた時、既に豊後に隆盛を誇ったキリシタン大名大友宗麟は一五八七年(天正一五年)に死去し、後を継い だ嫡男大友義統は、一五九三年(文禄二年)に朝鮮出兵における不始末を理由に豊後の国を没収され、豊後の大友家支配は終わっていた。「オランダ船漂着」の 情報はただちに長崎奉行寺沢広高に報告され、奇しくも当時のイエズス会の布教活動の中心であった臼杵にいたポルトガル人のパードレ(宣教師)が通訳として 駆り出されたのである。

この間の事情を理解するためには、イエズス会の日本での布教活動の歴史を知らねばならない。イエズス会がローマ教皇によって修道会として承 認されたのが一五四〇年、その翌年には東洋での布教に使命感を抱いたスペイン人フランシスコ・ザビエルがインドを目指しリスボンを出発した。彼は一五四九 年にマラッカから鹿児島に上陸、これが日本への「キリスト教伝来」とされる。その後山口、京都と布教活動を続け、一五五一年に豊後府内(現代の大分)から インドのゴアに帰った。半世紀後、正にその豊後にリーフデ号が来たのである。

家康の深慮遠謀がもたらしたもの

徳川家康は何故アダムスやヨーステンの命を救い、登用したのであろうか。前述のごとく通訳を務めたイエズス会宣教師の死罪具申にもかかわらず、家康 は二人の話に耳を傾けた。そして、彼らが布教目的ではなく専ら交易を求めていることや、ポルトガル・スペインと新興のオランダ・英国の対立など複雑な欧州 の政治力学を見抜いた。家康はリーフデ号を浦賀に回航することと二人に江戸に来ることを命じ、没収したリーフデ号の積荷の代金として五万レアールを支払っ たという。積荷の中には青銅の大砲が一九門と小銃五百門と砲弾・火薬などがあったが、これらは家康によって関が原の戦いにも使われたという。浦賀は、小田 原の北条氏が養成していた水軍(向井水軍)を引き継ぐ形で徳川の水軍の根拠地となっていた。家康は浦賀を関東の貿易港として育てる考えを抱き始めていた。 後に「ペリー来航」の舞台となる浦賀であるが、実は二五〇年前の歴史のDNAのようなものが埋め込まれていたとも言える。

アダムスとヨーステンの二人は徳川家康の外交や航海術の顧問のような役割を果すことになり、家康は一六〇一年(慶長六年)に朱印船制度の確 立を決意、一六三五年(寛永一二年)に幕府による海外渡航禁止までに三五六隻もの朱印船がアジアの海に向ったという。日本の「大航海時代」とでもいうべき 時代が三〇年以上も存在したのだ。アダムスとヨーステンも朱印状を得て、安南(ベトナム)やシャム(タイ)に向った。アダムスは平戸で(一六二〇年)、 ヨーステンは安南からの帰途に南シナ海の島で(一六二三年)に生涯を閉じたという。家康には重用されたものの秀忠の時代になって(一六一六年家康死去)活 躍の場を失っていった。ただ、「鎖国」といわれた時代に、何故オランダだけが通商関係を維持できたのかを考える時、リーフデ号の存在に気付くのである。

先日、大分訪問を機に臼杵に足を伸ばした。東京大学の岡田章雄教授の著作『三浦按針』(一九四四年、創元社)の影響もあり、リーフデ号の漂 着地は臼杵湾の黒島というのが通説とされている。この黒島に小さな船で渡り、三浦按針上陸記念碑の場所に立ち、小さな島を散策して太平洋を見渡した。遠浅 の美しい海であった。黒島よりかなり南の地点を漂着地とする異説があることも知ったが、四一〇年前に豊後海岸にオランダ船が漂着して府内に回航されたこと は事実である。それは単なる一隻の商船の漂着という出来事を超えて、日本近代史にまで繋がる「宿縁」を思わせる。そしてこの大分の海が、私自身がオランダ で何度か眺めたことのあるあの大西洋の海と繋がっているという陳腐なまでの事実に心が高揚した。

リーフデ号の船尾を飾ったエラスムス像だけは現存し、国宝として国立博物館にある。栃木県足利群吾妻村(現佐野市)の曹洞宗龍江院という寺 に「朝鮮伝来の貨狄さま」とされた謎の木像が大正時代の末期まで安置されてきた。一九二四年にバチカンの世界宗教博覧会に「聖人像」として出展されたこと で関心を呼び、一六世紀オランダの人文学者エラスムスの像であり、リーフデ号の船尾像であったことが検証されたのだ。この像が体験した四〇〇年という時間 に胸が熱くなる。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年10月号

米軍主力部隊のイラク撤退—『覇権なき中東』の序幕   寺島実郎

二〇一〇年八月、ついに米国はイラク駐留の主力部隊の撤退を開始した。五万人の訓練部隊は当面残るが、それも二〇一二年には全面撤退となる。〇三年 三月のイラク戦争開始から七年、憔悴の中で米国はイラクからの撤退を余儀なくされたということである。開戦から本年七月末までの米軍兵士のイラクでの死者 は四四〇五人となった。アフガニスタンでの米軍兵士の死者一一〇五人と合わせて、9・11後の展開で、五五〇九人もの米国の若者が犠牲になったということ である。この数は9・11におけるワールド・トレードセンター、ペンタゴンを含む犠牲者総数とされる二九八二人を大きく上回り、アフガン、イラクを合わせ た米軍の戦費の総額も二兆ドルに迫るものとなり、最終的には三兆ドルになるとの見方もある。「米国の正義を力で実現する」として突っ込んだテロとの闘いの 代価はあまりにも大きく、米国の苦悩は深い。

「覇権なき中東」への展望

これだけの犠牲を払ったイラク戦争がもたらしたものは何であろうか。それは皮肉にも「イランの強大化とその制御への苦闘」という構図である。一九六 八年に大英帝国がスエズ運河の東から後退した後、代わって湾岸に覇権を確立した米国は、イランのパーレビ体制を「湾岸の警察官」として支えた。だが、七九 年のホメイニ革命によってイランへの影響力を失った米国は、「敵の敵は味方」の論理で隣国イラクのサダム・フセインを支援しイラン・イラク戦争を戦わせた ものの、サダム・フセインの増長を招き、イラクのクウェート侵攻後の湾岸戦争、そして9・11後のイラク戦争とサダムを自らの手で葬り去るという皮肉な戦 いを余儀なくされたのである。

ところが、イラク戦争はイラクをシーア派主導のイラクへと追いやり、気がつけばペルシャ湾の北側に巨大なシーア派のゾーンを形成することに なった。つまり、シーア派イスラムの中核ともいえるイランの潜在的影響力を最大化する展開に帰結したのである。イラクという国は、人口的にはシーア派が多 数派を占め、北部のクルド族問題を抱えたモザイク国家であり、英国が人為的に線引きしたことによって成立した国である。「イラクの民主化」などといってサ ダム専制体制を倒したものの、「シーア派主導の制御不能の分裂国家」を生み出したのである。

米国がイランの核保有に恐怖心を深めイラン制裁に執着する理由も、強大化するイランを制御しないと、いつ米国を襲うかもしれない「イスラム 原理主義の核」の脅威にさらされるからである。だが、米国がイランの核武装を排除しようとするほど、宿命的に絡みつく「イスラエルの核」に対する米国のス タンスの矛盾、二重基準問題が炙り出される。つまりイスラエルの核は容認し、イランの核は否定する論理の矛盾である。

実は、米国とイスラエルの間には「一九六九年のニクソン・メイヤ秘密了解」が存在する。「イスラエルは核保有宣言せず、イスラエルにNPT 加入要求せず」というものである。つまり、イスラエルの核保有を容認してきた米国がどこまで本気でイスラエルを制御できるかが、イラン制裁を巡る注目点 だったのである。オバマ政権は、六月の国連安保理のイラン制裁決議(決議1929)に先立つ五月、国連NPT会議を主導し、「核なき世界」への一歩として NPT会議最終文書の採択に踏み込んだ。内容は「①『中東の非核化』に向けた会議の二〇一二年開催、②IAEA機能強化(未確認の核関連施設を抜き打ちで 査察できる『追加議定書』重視)」などであり、イスラエルを含む「NPTの普遍化」に真剣であることを示したもので、二重基準を解消して「中東の非核化」 を実現する意思を見せたといえる。

だが、話は単純ではない。強硬派のネタニヤフ政権を抑えることは容易ではない。国際政治の力学は微妙で、ブッシュ政権時の米国の「力こそ正 義」のネオコン路線が、反作用としてイランに保守派のアハマディネジャド政権を生み、さらに「力の論理が力の論理を誘発」する形で、イスラエルにも強硬派 政権を生んだ。イランとイスラエルの二つの強硬派政権に「協調と対話」路線のオバマが向き合う構図はあまりに皮肉である。

加えて、オバマ政権になってからの昨年十二月に七万人の増派を決めたアフガニスタンについても、とても秩序回復などといえる局面ではなく、 タリバンをはじめとする敵対勢力は二〇一一年からと明言された米軍の撤退を静かに待っているという状態であり、「出口戦略」を模索する米国の姿勢が見透か された形になっている。間違いなく、中東における米国のプレゼンスは崩れはじめている。つまり、大英帝国のペルシャ湾岸撤退と同じような構造変化が進行し ようとしているのである。ただし、大英帝国に代わって米国が湾岸における覇権を確立した一九七〇年代以降の展開と現下の情勢は全く違う。米国に代わって中 東に覇権を確立する国が登場するとも思えないからである。

情勢は複雑である。確かに、このところの中国の中東への強勢外交が注目される。本年五月には、「中東・アラブ協力フォーラム」の第四回閣僚 級会議を天津で開催、アラブ連盟加盟二二カ国との関係を深め、六月には湾岸産油国との「中国・GCC戦略対話」を北京で開催した。また、六万トン級の空母 建造など外洋海軍の拡充に力を入れ、ソマリア沖の海賊対策へのミサイル巡洋艦派遣などをインド洋への恒常的海軍展開への契機とするかのごとき動きを見せて いる。イランとの関係も緊密で、昨年も日量四八万バレルもの原油を輸入している。ただし、中国も国連のイラン追加制裁に賛成し今年に入ってイラン原油の輸 入を大幅に縮小させ始めており、中東諸国に対しても「中国の野心への警戒心」に配慮するような路線も見せ始めている。中国の覇権などといえる情勢ではな い。

また、ロシアの動きも微妙である。石油や原子力の分野でイランとの関係を保持しているロシアなのだが、中国とともに国連安保理のイラン追加 制裁に賛成し、このところイランとの関係を表面的には冷却させている。六月にタシケントで行われた上海協力機構の首脳会議では「国連制裁下にある国の加盟 を認めない」とする加盟規約を採択し、オブザーバー参加してきたイランの正式加盟を拒否する姿勢を示した。イラン制裁に執念をみせる米国に配慮した形であ る。何故、ロシアがイラン制裁に賛成したのか。あえていえば、二〇〇八年夏のグルジア侵攻・リーマンショック後二年間の教訓とでもいうべきであろう。ロシ アに対する世界の不信がロシアからの資本引上げを招き、ロシア経済が大きく落ち込むという事態を経験し、グローバル化した経済に身を置く中での孤立の怖さ をロシアも再認識したというべきであろう。

米国も影響力を維持するあらゆる戦略を模索するであろう。「米イラン国交回復」でさえある時期が来ればありえないことではない。「覇権交 代」や「覇権抗争」という視点では捉えきれないほど、様々な国や主体が複雑に中東に絡み合う構造に移行していくのであろう。ロシア、中国に加えインドやブ ラジルまでも中東でのゲームに参入しつつある。もちろん、英国、仏、独は歴史的関係を背景に深く中東と関っている。ただ、我々は中東諸国が基本的に「大国 の介入」を望まなくなっていることに気付かねばならない。イラク戦争後のイラクが見せた対応が象徴的である。敗戦国でありながらイラクは驚くほど自尊心に 満ちた姿勢で占領国米国と向き合った。米軍の長期駐留を拒否し、イラク駐留の米軍基地の地位協定において「近隣国への軍事行動のための使用を拒否する」な どの主張を貫いたのである。大国の利害に翻弄されてきた中東は、湾岸産油国を含めて強い自立自尊への志向を強めつつある。

新しい中東情勢と日本

八月九日・一〇日とアブダビで開かれた中東現地協力会議に、基調講演者の一人として参加した。これは石油危機を受けて興銀の中山素平氏や日本貿易会 の水上達三氏等が中東産油国と日本との交流のためにスタートさせたもので、(財)中東協力センター(奥田碩会長)を窓口に今年で三五回目となる。今年は日 本から官民合わせて三〇〇名を超す参加者が集まった。私にとってはイラク戦争開始直後の〇四年以来五度目の参加であり、中東地政学の構造変化についての報 告を行った。

強調したのは「米国の後退と覇権構造の終焉」という時代潮流の中で、日本は新たな中東との位置関係の再設計を余儀なくされるという点であっ た。米国の軍事的プレゼンスを前提に中東に関ってきた日本にとって、それは新たなる試練である。一九七三年の石油危機に際しての「中曽根油乞い外交」以 来、日本の中東政策は「石油モノカルチャー」とでもいうべき性格を帯びてきた。現在でも、日本は石油の九割、天然ガスの三割を中東に依存しており、それは 一次エネルギー供給の五割を中東に依存しているということである。

この数字がこれからの一〇年で大きく変わることになるであろう。ロシア要素である。サハリンプロジェクトとシベリアパイプラインの本格稼動 によって、石油の中東依存は六割台へ、一次エネルギーにおける中東依存は、石油比重の低下も加わり三割以下にまで低下すると予想される。つまり、中東にお ける「脱・米国」とエネルギーにおける「脱・石油」という事態に直面していかざるをえないのである。

それは日本にとっての中東の重要性が低くなることを意味しない。石油モノカルチャー的視界から脱皮した新しい中東との関係が問われるという ことである。私は日本の役割がより強く求められる局面だと考える。中東外交に関して、日本は他の先進国とは違う立ち位置を確保できる歴史を積み上げてい る。中東のいかなる国に武器輸出をしたこともなければ、軍事介入したこともない唯一の先進国である。 その意味でも、イラク戦争に関して自衛隊を派遣したことは悔やまれるのだが、「治安活動はしない」という枠組みで国際法上は正規の軍隊である自衛隊を派遣 するという奇妙な派遣であり、中東諸国にも奇異な印象を与えるが軍事的野心を示す性格のものとは受け止められていないのが救いである。

また、欧米諸国が「ユダヤ人問題」において歴史的な国内事情を抱え、パレスチナ紛争に中立的ではいられないのに対して、日本は紛争当事者の どちらかに肩入れしなければならない必然性はない。また、イラン問題に関しても、ホメイニ革命以降も外交関係を維持してきており、断交を続けてきた米国と は違う立場で関ることが可能である。原子力の平和利用を巡る国際ルール作りをリードし、非核保有国としてイランの核保有を諌め、孤立を深めるイランと国際 社会のパイプ役として一味違う役割を果しうるのである。

こうした「非政治性」という文脈も含め、中東諸国の日本への期待は極めて大きい。何よりも日本の技術力への評価である。例えば化石燃料から 原子力、再生可能エネルギーまで、エネルギー関連技術である。あまり知られていないが、(財)国際石油交流センター(JCCP)が中東産油国の石油関連技 術の研修のために日本に招いた研修生は一・九万人にもなり、産油国側の評価も高い。また、産油国も石油資源枯渇後の戦略を注視し始めており、原子力や太陽 光・太陽熱などのプロジェクトに真剣になりつつある。さらに、産業開発や生活の高度化に伴う水需要の増大に伴い海水淡水化など水プロジェクトの重要性が高 まり、日本の水関連技術への期待は大きい。覇権を求めぬ「非政治性」と技術力における日本の個性を認識し、中東諸国の日本との高等教育や医療分野での人的 交流を求める声も大きく真剣である。「覇権なき中東」に向かう大局観の中で、日本を際立たせる好機である。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年9月号

代議制民主主義の鍛え直しへ—2010参議院選への視点   寺島実郎

劇的な「政権交代」をもたらした二〇〇九年夏から約一年、参議院選挙は「与党大敗」という結果に終わった。「ねじれ国会」を選択した国民世論、揺らぎの中で実は政治の底流における「代議制民主主義」そのものの機能不全が浮かび上がる。

代議制民主主義の練磨

いうまでもなく日本の政治は「代議制民主主義」をベースにした「議員内閣制」を採用している。国民が政策決定に参画する直接民主制ではなく、代議者 を通じた間接民主制による意思決定を行っているわけだ。政治学では、「ギリシャやローマのような声が届く範囲での意思決定ならば、タウンミーティングのよ うな形での直接民主主義は可能だが、大衆が政治に参画する近代民主制においては、国民と意思決定を?ぐ代議者の存在が必要」という認識が定着している。そ して、この仕組みがこの国の意思決定において最適とはいえなくとも妥当な合意形成をもたらすという幻想が成立してきた。

だが、代議制を通じて適切な意思決定ができるという確信は揺らぎつつある。二世議員やタレント議員の跋扈など代議者の質の劣化もあるが、国 民の潜在意識における代議制への失望を加速している要因は、実はIT革命(デジタル情報革命)の進行を通じた「直接民主主義は可能かもしれない」という予 感の広がりにある。もし「民主主義」という言葉を純粋に突き詰め「国民の声を正確に反映する政治をすること」に最大の価値を置くならば、情報ネットワーク 技術を駆使して、争点、政策ごとに国民投票のような形で国民の意思を確認することは可能になりつつある。「ネット投票」のごとく、本人認証を的確にして国 民一人一人の政治への直接参加を促すことは技術的に可能という時代を迎えている。少なくとも、送られてきた葉書(投票券)を近所の学校に持って行き、多く の場合面識もない代議者に投票をし、その代議者を通じて国政に参画するという迂遠な手続きを踏むよりも、はるかに民主的意思決定に近づけるかもしれない。

他方、もし「代議制民主主義」における代議者の役割を、単なる国民と意思決定を?ぐパイプ役ではなく、代議者の国民に向き合う見識や指導力 に期待するものとするならば、代議者に求められる要件はより高度なものにならざるをえない。つまり、代議制を残すのであれば、代議者の資質はより厳しく吟 味されねばならないのである。ではどうするべきか。そのための第一歩が「代議者の数の絞り込み」なのである。

現在、日本には衆議院四八〇人、参議院二四二人、合計七二二人の国会議員が存在する。米国の場合、下院四三五人、上院一〇〇人の合計五三五人である。人口が日本の二・五倍であるから、人口比では日本は米国の三・三五倍の国会議員を抱えていることになる。

国会議員の定数削減については、今回の参院選を前にした国会答弁で管直人首相も「衆議院で八〇人、参議院で四〇人、合計一二〇人の削減」を 明言し、自民党も定数削減をマニフェストに掲げている。これでも一七%程度の削減にすぎず、今後の半世紀で日本の人口が二割以上減少するとの予想を考える と、より徹底した定数削減がなされるべきだが、まずは一二〇人の国会議員削減を実現することが肝要である。これだけでも直接・間接の費用を合わせて三〇〇 億円の「代議制のコスト」が削減されるのだ。

実は、市町村合併の進展(平成の大合併)によって、地方の代議者の削減は驚くほど進んだ。市町村の数は一九九九年三月末の三二三二から二〇 一〇年三月末の一七六〇となり、市町村議会の議員数も五・九万人から三・四万人へと二・五万人も削減された。市町村合併には「行政サービスの低下」などの 問題も指摘されているが、少なくとも地方代議員の削減において前進した。次は国会議員の削減である。逆説的だが、政治の究極の目的は政治で飯を食う人を極 少化することである。その中から「職業としての政治」を志す人物が練磨され、真の民主主義の指導者たりうる存在が育つのである。

2010参議院選挙の意味

さて、今回の参院選を「自民党の勝利」というのは間違いであろう。比例区の自民党得票率は前回の三一・四%から二四・一%まで七%も下落し、得票総 数も一四〇七万票に留まった。対する民主党の得票総数は一八四五万票、得票率は前回の四〇・五%から三一・六%にまで下落したが、自民党よりは七・五%も 上回った。自民党の党勢の回復とは言い難いのだ。

それでも、自民党が改選議席を一三議席も上回った理由は一人区における健闘であった。一人区というのは、大都市部ではなく田舎の農村部とも いえる選挙区である。前回は民主党が農業政策などで攻勢をかけ、二三勝六敗と大勝したのだが、この一人区で今回は民主党の八勝二一敗となった。一人区では 第三勢力が候補を立てても勝てる見込みがないため、民主対自民の一騎打ちになるケースが多い。そうなると与党を支持しない票は全て候補者を立てている野党 (今回の場合は自民党)に集中し、票が割れるという事態は起きない。政権党となった民主党に失望した票がすべて自民党候補に向かい、一人区だけで自民党が 一五議席も前回を上回るという事態が生じたのである。

「民主党への失望」は、決して「消費税」を巡る管首相の発言への反発などという表層の次元のものではなく、政権交代から今日に至る民主党の 政策思想の基軸の揺らぎに対する失望であろう。外交安保から財政、経済産業政策に至るまで、マニフェストからの路線変更とぶれが続いている。政権が何を目 指すのかが見えなくなり、「民主党の自民党化」が続いている。政権党の定見の無さはこの国の未来に重苦しい閉塞感を与えており、国民は迷いを経て失望に向 かいつつある。

こうした状況を踏まえた第三極狙いの新党設立ラッシュの中で「みんなの党」だけが一定の支持を得て一〇議席を獲得した。比例区の得票率で一 三・五九%、七九四万票を獲得したが、比例区のトップ当選者の個人名での得票はわずかに八・七万票、しんがりでの当選者の得票は三・七万票であった。一議 席も獲得できなかった国民新党の比例区での総得票は一〇〇・〇万票で、第一位の得票者たる長谷川憲正が郵政関係の組織を基盤として獲得した票が四〇・七万 票だったのと好対照であった。つまり、みんなの党の獲得議席は、候補者個人が支持されたわけではなく、みんなの党という党への漠然たる期待が積みあがった ものだった。

この政党の本質は、その顔ともいうべき渡辺喜美代表の立ち位置をみても分るごとく「行政改革にこだわる保守政党」であり「小泉改革に連なる 新自由主義を政策基調とする保守政党」である。政策の全体像は見えないが、民主党には失望したが自民党に回帰しえない層が「止まり木」として一時的に身を 寄せたというべきであろう。その意味では、保守分裂の中から「保守バネ」の発動として過去にも一時的に支持層を繋ぎ止める装置として機能した河野洋平の 「新自由クラブ」(一九七六年)や細川護熙の「日本新党」(一九九三年)ブームの系譜に位置づけられるべき存在といえよう。

ただし、東西冷戦を背景に「保守対革新」が概ね「資本主義対社会主義」の対立概念の中で鮮明に対照できた時代とは異なり、イデオロギーの終 焉後の「自民党対民主党」は政治思想的な対立軸が消失し、複雑に混在している。つまり政党という政治の上部構造はいかにようにも変容し、合従連衡、再編を 繰り返す可能性を孕んでいるのである。この意味でも代議制は液状化している。

それにしても、その他の新党の結末は惨めだった。平沼赳夫、与謝野馨に石原慎太郎都知事までが参加した「たちあがれ日本」は一二三万票でわ ずか一議席、世論調査で一時は「総理にしたい人第一位」とされた桝添要一率いる「改革」も一一七万票で一議席に留まり、首長連合として山田宏(前杉並区 長)、中田宏(前横浜市長)らが参画した「創新党」は四九万票で議席獲得さえできなかった。国民やメディアの関心が一段と移ろい易いものになっている。新 党の側も必死に差別化を図ろうとし、リーダーの大衆的人気に寄りかかる戦いを進めるのだが、国民の側は熱しやすく冷めやすい。

創造的な政策の選択肢と政策思想の基軸さえ国民に明示できぬ政党と移ろい易い民衆の意識を考えたならば、この国の政治を政局だけに関心のある政治好きの人たちに委ねてはならないとの思いが高まる。それゆえに代議制民主主義の練磨という視点が重要なのだ。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年7月号

咸臨丸一五〇周年に想う—日米関係の位相の変化

万延元年(一八六〇年)、江戸幕府の遣米使節団が太平洋を渡った。日本政府の初めての正式な訪米使節であった。その一八五八年に井伊直弼が結んだ 「日米修好通商条約」の批准書交換が目的で、正使新見豊前守正興、監察小栗上野介をはじめとする一行七七人であった。この使節一行は、米国のフリゲート艦 ポウハタン号(二四一五トン)に送り届けられて太平洋を渡ったのだが、一行を「護衛・随行する」目的で派遣されたのが威臨丸であった。勝海舟、福沢諭吉、 ジョン万次郎といった日本近代史を彩る人物を乗せた六二五トンのこの小船が太平洋を「日本人だけで」往復し、「アメリカを見てきた」ことは、やはり大きな 意味を持つものであった。二〇一〇年四月、私は威臨丸から一五〇年目のサンフランシスコに立ち、日米関係の位相の変化に思いを巡らせてきた。

咸臨丸とは何だったのか

一八五四年、幕府はスクリュー式のコルベット軍艦二隻をオランダに発注した。ペリー浦賀来航の翌年であった。当初は帆船を発注したのだが、三本マス トを残しながら蒸気エンジンでも動くスクリュー式で、帆走・汽走併用型に変更された。完成した船が「ヤッパン号(日本号)」と名づけられ、ロッテルダムを 出航したのが一八五七年三月、オランダ領だったインドネシアのバタビア(現ジャカルタ)を経て長崎に回航されてきた。幕府にとっては、一八五五年にオラン ダ国王から贈られた「観光丸」に次ぐ、二隻目の洋式軍艦であった。

咸臨丸の船体の大きさは、長さ三六・六m、幅八・六mというから、こんな小さな船に武士一九人、水夫六五人、大工鍛冶二人の日本人八六人 と、事情あって乗船することになったロイテナント・ブルーク大尉他米海軍の軍人一〇人の合計九六人もの人間が乗って太平洋を渡ったのだから驚くほかない。 事情とは日本近海に測量目的で来ていた米海軍の船が座礁・沈没し、生き延びた米海軍軍人が帰国の機会を待っていたということで、建前では日本側の配慮で同 乗させたことになっているが、実際は遠洋航海の実績もない日本の乗員にとっては有難い助っ人であった。「日本人だけで太平洋を渡った」という通説も、記録 を調べてみると虚構であり、瀬戸内の塩飽諸島の水夫達を調達して乗船させていたものの、福沢の『福翁自伝』に「牢屋に大地震の如し」と表現されているよう な北太平洋の荒れ狂う波風に苦しめられ、日本人水夫が全くお手上げだった中で、一〇人の米海軍の軍人が活躍して苦難を乗り切ったというのが実態だった。た だし、帰途の復路については、日本人だけの操舵で太平洋を渡ったことは間違いない。

咸臨丸が浦賀を出航したのは一八六〇年二月一〇日(新暦)で、サンフランシスコ着は三月一八日であった。修理を終えて咸臨丸がサンフランシ スコを離れたのは五月八日、滞在期間は約五〇日間であった。その間、一一日遅れて三月二九日に到着した正使一行が四月七日にワシントンに向かうためパナマ に立つのを見送った。咸臨丸に関し、「勝海舟や福沢諭吉もワシントンに行った」と思われがちだが、彼らはサンフランシスコにだけ行ったのである。福沢は七 年後の一八六七年(慶応三年)再び訪米し、ニューヨーク・ワシントンを訪れたが、万延元年の遣米使節においては、サンフランシスコだけを見て帰ってきた。 それでもこの時の勝三七歳、福沢二七歳、若い目線で目撃したサンフランシスコの意味は重かった。

サンフランシスコは一七七六年にフランシスコ派のメキシコ人伝道師によって建設された町であったが、一八四八年に近郊で砂金が発見されてか ら「ゴールドラッシュ」が起き、人口五〇〇人の町が、咸臨丸が訪れた一八六〇年には五・六万人の街へと変身していた。この新興の都市を日本の若きサムライ たちは、カルチャーショックを受けながらも恐るべき好奇心で見て回った。市庁舎、電信施設、造船所、砂糖工場、メッキ工場などに目を見張り、ホテルに絨毯 が敷き詰められていることや女尊男卑の風俗に驚嘆している。

福沢諭吉が米国の建国の父ともいえる「ワシントンの子孫はどうしているのか」と聞き、「知らない」といわれ、「源頼朝、徳川家康のような存 在のはずの子孫が・・・・・」といぶかる姿が 『福翁自伝』に描かれているが、「民主主義の国アメリカ」の衝撃は大きかったであろう。勝海舟も『氷川清 話』でこの時の体験に触れ、「おれがアメリカに行って帰朝した時、御老中から『異国にわたりて、何か眼を付けたことがあろう』と再三聞かれ、『アメリカで は、政府でも民間でも、人の上に立つものは、みなその地位相応に怜悧でございます』と答え、『無礼者』と叱られた」という話を語っている。

余談だが、咸臨丸の最後は悲劇に満ちたものであった。維新後、明治新政府の所有となった咸臨丸は北海道開拓使の運搬船として活動していた。 太平洋往復の頃から故障がちだった蒸気エンジンは除去され、帆船として運航されていた。最後の航海は、仙台の松島湾寒風沢から北海道開拓に向かう三九八人 の白石藩士を乗せ小樽に向かうものだった。明治四年十一月四日、函館から小樽に向けて出航した直後、咸臨丸は激しい暴風雨に襲われて木古内町の更木岬近く の暗礁に乗り上げて破損、沈没した。この時生き残った入植者が開拓したのが現在の札幌市白石区である。オランダで建造され、太平洋を渡った咸臨丸は函館近 くの海でその一四年の短い生涯を終えたのである。この間の事情は、合田一道氏の労作「咸臨丸 栄光と悲劇の五〇〇〇日」(道新選書、二〇〇〇年)に詳述さ れている。

東京お台場の「船の科学館」に五〇分の一に縮尺された咸臨丸の復元模型が展示されている。オランダに残されていた図面を基にオランダで製作 された。西国大名を警戒して五〇〇石船以上の大型船の建造を禁止した江戸時代の「和船」の展示の中に置かれた咸臨丸を見つめ、複雑な感慨を覚えた。

咸臨丸一〇〇年の年としての一九六〇年

今から五〇年前、咸臨丸のサンフランシスコ渡航から一〇〇年という節目の年が一九六〇年、「六〇年安保」の年であった。戦後日本の最も熱い政治の季 節であったといえる。日米安保条約の改定を巡り、「反安保」闘争が盛り上がり、この年六月一五日の「安保改定阻止第二次実力行使」には全国で五八〇万人が デモ行進に参加し、国会前では東大生樺美智子さんが死亡するという事態に至った。六月一九日には新安保・新行政協定が自然成立したが、アイゼンハワー米大 統領の訪日延期、岸信介首相の退陣という異常事態を迎えた。反安保闘争に参加した学生達の空虚な敗北感に西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」が切なく 響いていた。

岸内閣に代わって登場した池田勇人内閣は「低姿勢」で登場し、「所得倍増計画」を打ち出していった。米国でも、一一月にJ・F・ケネディが 新大統領に当選、日米関係も新しい局面に入っていった。一九五一年のサンフランシスコ講話条約で国際社会に復帰した日本は、日米安保条約によって米国との 二国間同盟に踏み込み、西側陣営の一翼を占める形で冷戦の時代を生きるという路線を歩んだ。サンフランシスコの太平洋を見渡すリンカーンヒルに「咸臨丸入 港一〇〇年記念碑」が立っている。咸臨丸が縁で姉妹都市となった大阪市が建立したものである。華やかな除幕式も行われたが、その時は、日米安保を巡る政治 的熱狂の中でも、咸臨丸一〇〇年を想う気持ちが太平洋を挟む日米双方に存在していたとも言えよう。

調べてみると、一九六〇年の日本の輸入の三九%は米国からの輸入、日本の輸出の三〇%は米国への輸出であった。つまり、日本の貿易の三分の 一以上が対米国で成り立っていた。外交・安全保障の関係のみならず経済においても、日米関係の密度が重く存在していた時代であった。一九七一年のニクソン ショックまで、日本円の対ドルレートは一ドル三六〇円に固定されており、多くの日本人はそれが当たり前だと思っていた。

一九六〇年安保改定とは、日本側にとって「日米間の事前協議制の導入」など対米従属性を和らげる方向への条約改定という建前を確保したもの の、実体は、米国側にとって「平時・有事にわたる在日米軍基地の長期・安定的確保」という戦略体制の確立であった。それでも多くの日本人は「東側の脅威に 対して冷戦の時代に生きるためには」という思いで日米安保体制を容認し、六四年の東京オリンピック、七〇年の大阪万国博覧会を経るうちに、「豊かさへの願 望」に傾斜した。

最後の「政治の季節」ともいうべき「七〇年安保闘争」「全共闘運動」の時代はあったが、とても国民的関心を引き付けた運動とはいいがたく、 時代は一段と「経済の季節」に彩られていった。一方で、日米安保体制下の重圧が「基地」という形でのしかかる沖縄という不条理を封印しながら、ともかく物 質的繁栄を求めて我々は歩み続けたのだ。円ドルレートも、気がつけば今や九〇円水準、この五〇年で円の価値は四倍になった。 咸臨丸一五〇年の今

今、我々は「六〇年安保」から五〇年という時点に立つ。改めてサンフランシスコに立ち、日米関係の位相の変化に驚かされた。かつて西海岸を 訪れ、サンフランシスコ、ロスアンゼルスの「ジャパンタウン」「ジャパンビレッジ」を記憶している人ならばその衰退に衝撃を受けるであろう。日本人の存在 感が西海岸から急速に消えているのである。

この一〇年で米国への渡航者は年間二〇〇万人近く減少し、とくにハワイを除く米本土への渡航者は半減した。貿易の関係でも、二〇〇九年の日 本の輸出における対米輸出の比重は一六%、輸入における米国からの輸入は一一%と、一九六〇年時点と比べて約三分の一の比重にまで落ち込んだ。西海岸にお ける日系企業の支店は撤退・閉鎖を続けている。経済の関係、つまり下部構造において日米関係は大きく変化しているのである。

米国の経済人のみならず米国民の中国への関心は急速に高まっており、私が動き回っての実感では、西海岸における中国・韓国・日本の存在感の 比重は「五:三:二」といって誇張ではないであろう。その一つの象徴が、「咸臨丸一五〇周年」を話題にする人が日米双方において皆無だという事実である。

その一方で、外交・安全保障の関係だけが「過剰依存・過剰期待」の関係に埋没したまま、極端な固定観念に凍り付いている。五〇年前、一九六 〇年代の世界認識を引きずったまま、日米安保を既得権益とする人たちに押され、惰性の中で日米関係を「これまでどおりでいいのだ」という状況に自らを置く 日本人に未来はあるであろうか。

歴史的な「政権交代」を経てもなお、「普天間問題」の経緯のごとく、基地と日米同盟の在り方について米国と正面から向き合うのではなく、二 一世紀のアジアの安全保障を配慮した「抑止力」の中身を真剣に吟味することなく、むしろ沖縄の期待を押さえ込むことで進路をとろうとする鳩山内閣とシナリ オを主導した外務省、防衛省の責任は重い。深い歴史観の中で、今を生きる日本人が立ち向かうべき課題が理解できていないのであろう。

咸臨丸の時代を生きた日本人は誰一人として、外国の軍隊を頼りに自国の安全を図るという事態を考えてもいなかった、いわんや敗戦後六五年が経過し、周辺状況がまるで変わっても「自立自尊」を志向しない脳力の虚弱さは悲劇的である。

咸臨丸の時代、そしてそれから一〇〇年後の「六〇年安保」の時代と比べ、日本人が失っていることは自分の身辺的利害を超えて、国や社会の在り方のために立ち向かう気迫である。日本の存在感の低下の本質はここにあるといえる。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年6月号

問いかけとしての戦後日本(その11) 敗戦後のアジア復帰—バンドン会議の意味  寺島実郎

「大東亜共栄圏」が虚構に満ちたものであれ、「アジアの解放」を掲げた戦争に敗れた日本が到達したのは奇怪な形での「アジアの不在」であった。日本 人は、敗戦をあくまでも「アメリカに敗れた」とだけ総括し、決してアジアに敗れたとは受け止めなかった。米国の物量と科学にねじ伏せられたと認識し、アジ アに対しては潜在的優越感を保持するという屈折した心理の中で戦後を生きたといえよう。 温泉にでも浸かっていたほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

入江昭も「観念的には日本人のアジア主義思想は敗北を自覚しなかったのではないか」と述べる(『新・日本の外交』)。 温泉にでも浸かっていたほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

「それは日本人が太平洋戦争の意義にこだわり続けたからであろう。これを日本一国の利益や版図拡大のための侵略戦争だと見ることには抵抗が ある。アジアのための戦いだというフィクションを持つことができれば、かりに戦いには敗れても大義名分が立つ。―――日本指導者はそう考えて『戦闘には敗 れたが戦争には勝った』という自己説得を試みながら、連合国に和平を乞うことになる」という入江の分析は的確であろう。 温泉にでも浸かっていたほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

戦後、欧米の植民地だったインドや東南アジアの国々が独立を果たしたことが、「日本のおかげでアジアの独立が達成された」という虚偽意識を 生み、アジアへの敗北感や責任意識を希薄なものにした。そのことが、戦後日本のアジアとの位置関係を今日に至るまで歪んだものにしていることに気付かざる をえない。 温泉にでも浸かっていたほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

そもそも近代史における日本のアジアに向けた姿勢は「ご都合主義」的に揺れ動いてきた。一八八五年(明治一八年)、福沢諭吉は「脱亜論」を 書き「隣国の開明を待って共にアジアを興す猶予あるべからず」として、西欧との連携を重視する路線への視界を説いた。奇しくも同じ年、樽井藤吉は「大東合 邦論」を書き、アジア主義的議論の基点となった。この二つの論調が微妙に絡み合いながら、糾える縄のごとく日本近代史に絡みついてきたといえる。欧米列強 の植民地化の脅威にさらされたアジアの国としての「親亜」の共鳴を潜在させながら、「富国強兵」路線に自信を深め、日清・日露戦争での戦勝意識を高めるに つれ、自らが新手の植民地帝国として欧米列強模倣の「侵亜」に転じていく過程こそ日本近代史の悲劇であった。基本的には欧米志向、欧米重視の「脱亜」の道 を歩み、欧米との関係に問題を生じると「アジア回帰」を図るという構図を繰り返してきたともいえ、アジアとの関りこそ、日本の国際関係の「鬼門」「トラウ マ」なのである。

バンドン会議の意味

一九五五年四月一八日、インドネシアの首都ジャカルタから一二〇km離れた避暑地バンドンに、インドのネルー首相、中国の周恩来首相、エジプトのナセル首 相、そしてホスト役としてのインドネシアのスカルノ大統領という戦後世界の新興国を率いた歴史的指導者をはじめ、二九カ国のアジア・アフリカ諸国の指導者 が一堂に会した。このバンドン会議(アジア・アフリカ会議)は、戦後という時代を方向付けた重大な会議であった。世界史的にいえば、一九四九年の共産中国 の成立以来、初めて中華人民共和国が国際会議に登場した会議であった。今日ではあまり違和感はないが、米国をはじめ多くの国がまだ台湾の蒋介石政権を中国 の正統政権としていた時代に、台湾が呼ばれない会議ということ自体が新たな局面を象徴していた。事実、周恩来が乗るはずだった飛行機が香港で爆薬を仕掛け られ、ボルネオに墜落するという事件が起き、周恩来は命がけの参加となった。

バンドン会議の主役は、インドであり中国であった。伏線となったのは前年の中印首脳会談であった。一九四九年の中華人民共和国発足以来、 「アジアの植民地解放のための武力闘争」を支援してきた中国が対話路線に転換し、一九五四年、周恩来とネルーの間で「平和五原則」(領土主権の尊重、相互 不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存)を確認したことが転機であった。これを受けて、一九五四年四月末、コロンボで開かれた「コロンボ会議」に参 加した5カ国(インド、インドネシア、パキスタン、ビルマ、セイロン)が「アジア・アフリカ各国間の協力・相互利益、友好の推進」を狙いとする「アジア・ アフリカ会議」の必要性を確認したのである。

バンドン会議は「戦後日本のアジア復帰の舞台づくり」を意図するものではなく、その当時のアジアを巡る国際情勢を投影する政治力学の集結点 だった。このことは宮城大蔵の『バンドン会議と日本のアジア復帰』(草思社、二〇〇一年)に正確に描き出されている。インドのネルーもインドネシアのスカ ルノも実はバンドンへの日本招請には熱心ではなく、むしろパキスタンが日本の参加を促したというのが事実だという。

インドは敗戦直後の日本には温かい目線を送っていたともいえる。一九五一年のサンフランシスコ講和会議にインドは署名しなかった。中立主義 の原則に立ち、「日本に駐留する米軍が引き上げるならば署名する」という条件を出し、米国を驚愕させた。だがその翌年、日本との単独講和に応じてくれた。 これが日本のアジア復帰には重い意味をもったのだが、一方でインドは、米国との同盟に傾斜していく日本への失望を抱いていった。「アジアに冷戦構造を持ち 込ませたくない」というのが中立主義を主導するネルーのメッセージであった。

インドネシアは戦後賠償問題が決着せず、日本招請に積極的ではなかった。スカルノは、日本軍に協力してオランダからの独立戦争を戦うという 立場をとった人間で、戦後「日本軍国主義への協力者」として苦境に立たされたこともあり、日本のアジア復帰には複雑な姿勢をとっていた。また当時のパキス タンは、一九五四年五月に米国との間に相互防衛条約を結び、西側に肩入れする路線をとっており、同じ陣営に立つ日本の参加を優位性確保のための戦略と考え ていた。

複雑な事情・思惑が交錯しながらも、結局のところ日本もバンドン会議に招請されることになった。アジアは日本を忘れなかったのである。戦後復興に邁進しつつあった日本にとって、アジアに地歩を踏み固める第一歩であった。

日本の対応——今日も抱える課題として

招請を受けた日本は、鳩山一郎政権下にあった。サンフランシスコ講和会議によって国際社会への復帰を果したが、それは同時に結ばれた日米安保条約が 象徴するごとく、日米同盟を基軸とする外交路線、いわゆる吉田外交の枠組みの中にあった。一九五五年一月一九日付の朝日新聞は「日本などに招請状、アジ ア・アフリカ会議―――米の了解のうえで、出席決定に政府の態度」という見出しを掲げているが、日本は参加の是非について米国にお伺いを立てたのである。

鳩山外交の本音には、「日米同盟重視」を基軸とする吉田外交と一線を画し、ソ連・中国との国交回復をはじめ「対米自主外交」「アジア関係重 視」という志向が埋め込まれていた。日本の戦後外交の基本構図が既に浮上していた。そして、曲折を経て「対米協調を軸にしたアジア復帰」という了解でのバ ンドンへの参加という形での収斂が図られるのである。

米国は、当初「中立主義と共産中国の影響力拡大」を恐れて日本の参加にも反対の意向であったが、ダレス国務長官の「インド・中国主導となり かねない議論を中和するには親米国の参加が望ましい」との判断で、日本の参加を了解した。それでも、バンドンへの参加に日本の当惑が存在していたことは、 日本代表が、首相でも外相でもなく経済審議庁(後の経済企画庁)長官であった高碕達之助だったことに現れている。

高碕達之助は一八八五年生まれ、水産講習所(現・東京海洋大学)を卒業。メキシコでの水産会社などでの勤務の後、製缶詰工業を研究して東洋 製罐を設立、その後満州に渡り、満州重工業開発の総裁となった。敗戦後日本に引き揚げ、吉田茂に請われ「電源開発」の初代総裁になった。一九五四年に辞任 後鳩山内閣に参画したのである。実績のある経済人であり、「経済からのアジア復帰」を象徴する人物の投入であった。

会議を巡る日本の新聞報道を調べなおしてみると、日本のメディアもその評価に困惑していたことが読み取れる。朝日新聞も会議開催までは、 「日本の立場は微妙―――経済協力に重点、政治的課題は回避」(四月一五日)、「要するに、今回の会議が一方的な見解に引きずられることなく、各国が相手 の立場を理解し尊重する会議となることを希望」(四月一八日社説)と慎重な目線を送っていたが、会議終了後の四月二五日には「会議の意義―――一.一四億 の声を結集、植民地主義への強い反感を示す」というレポートを掲載、「周恩来首相の態度が協調的であったこと」に驚き、「徹底的に敗れ去った日本がどんな 顔をして出てくるか」という意味で日本が注視されていたという印象が語られ、「戦争を避け、平和を求めるアジア・アフリカ一四億の民衆の声が結集された」 とする高揚感あふれる報道がなされている。また、ル・モンド紙の特派員としてロベール・ギランが張り付いており、五月八日付の朝日に「バンドンの日本人 ―――はずかしそうな客」を寄稿している。ギランは、日本がこの会議に現れた目的について、「第一に、新しいアジアの現実を観察すること・・・・・第二 に、貿易すること、商売をやること」と看破している。そして、ネルーの「中立主義」、ナセルの「民族主義」、周恩来の「共産主義」というイデオロギーに対 して、「イデオロギーを持たない日本」は「恥ずかしそうに足音を忍ばせるしかなかった」と述べる。バンドン会議での日本の存在感の無さについて、フランク フルト・アルゲマイネ紙も、「米国によって隔離され、保護された島に咲いたスミレの花」と表現していた。

それでも、バンドン会議は日本にとって「日中国交回復への基点」となった。戦後初の日中政府間の折衝として「周恩来・高碕達之助秘密会談」 が行われたのである。米国・台湾に配慮する外務省は日中の接触を警戒していた。しかし、周恩来は日本との関係改善も意図し、日本語の通訳として日本で生ま れ育った廖承志を通訳として同行していた。四月二二日、周恩来の宿舎で約一時間半の会談は行われた。主に通商の拡大や政府代表機関の相互配置などが話し合 われたという。これが後に日中間の準政府間協定に基づく「LT貿易」へと繋がった。LTとは廖(リアオ)と高崎の頭文字である。正式の日中国交回復にはそ れから一七年を要したが、戦後の日中関係のスタートはバンドンで切られたのである。

思えば、一九五五年、戦後日本がバンドンに登場した頃、アジアは正に「政治の季節」としての熱気を帯びていた。東西冷戦は深まり、「共産主 義・社会主義の脅威」は重く存在していた。また、ネルーの主導するインドの中立主義、ナセルのエジプトのアラブ民族主義も輝きを放っていた。そして今、冷 戦後二〇年が経過したアジアは「経済の季節」としての熱気を放っている。二〇〇九年の日本の貿易総額の五〇%はアジアとの貿易になった。米国との貿易比重 は一三%にまで落ちた。十年後には、アジアとの貿易比重は六割を超すであろう。

ASEANは二〇一五年の「ASEAN共同体」発足に向けて合意を形成し、本年一月にはインド・中国とのFTAを発効させた。日本が「東ア ジア共同体」を持ち出すまでもなく、アジアは先行し動いている。日本においても、米国との同盟外交を基軸としながらも、アジアのダイナミズムと真剣に向き 合い、安定と平和のための新たな構想を実体化させる覚悟が問われていることは間違いない。バンドンから五五年、あの共同宣言が目指した「秩序」は次第に現 実のものとなりつつある。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年5月号

アジアのダイナミズムと内向する日本 寺島実郎

旧正月シーズンを台湾・香港と動いてきた。いかに多くの中華系の人々が、「旧正月」という文化を共有し、里帰りや休暇のために「移動」しているのか を目撃し、圧倒される思いだった。成田空港でも、中国本土のみならず台湾、香港、シンガポールから、驚くほどの数の中華系の来訪者で溢れていた。

二〇〇八年の中国からの海外渡航者は四五八四万人であったが、二〇〇九年には四七六六万人と新型インフルエンザと同時不況の影響で先進諸国 の海外渡航者が軒並み減少する中でも前年比四%増となった。約半分は香港・マカオへの渡航者だといわれているが、それにしても同年の日本の海外出国者が一 五四五万人だったことと比べても、極端な数の中国人が世界を動き回る時代になったのである。

中国の海外渡航者は十年以内に一億人に迫るとの推計もある。日本は「観光立国」を目指し、観光庁さえ設立して観光客誘致に力を入れ始めてい る。「中国人海外渡航者の一割を日本へ」というのが日本の狙いだが、一割でも約一〇〇〇万人の中国人が日本を訪れることを意味する。昨年二〇〇九年の中国 からの訪日者は一〇一万人であったから、一〇倍になるということである。途方もない時代が迫っている。

台湾での講演に際し、ジャーナリストから質問を受けた。「日本人に一〇〇〇万人を超える中国人を迎え入れる覚悟はあるのか」という質問であった。ホテルなどの設備・施設だけでなく、社会総体の受け入れシステム、文化や社会的軋轢の問題にまで視界に入れねばならない。

日本人出国者——壮年の男が海外に出ない国

二〇〇九年の日本人出国者は前述のごとく一五四五万人で、前年の一五九九万人から五四万人(三・四%)減少した。ピークだった二〇〇〇年の一七八二 万人からは二三七万人(一三・三%)も減ったことになり、「内向する日本」を象徴する数字といえる。「国際化」「グローバル化」と言葉は行き交うが、実際 に日本に漂う空気は「国際化疲れ」「グローバル化疲れ」とでもいうべき状況である。ストレスのある異文化環境で動くよりも、国内の温泉にでも浸かっていた ほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

日本人出国者を分析してみて、興味深い事実に気付く。十五歳から三四歳までを「若者」として、この年齢層の海外出国者は、出国者総計の三 〇%を占める。ただし、その三〇%のうち男性は一二%で、女性は一八%、圧倒的に女性が海外に出ているのである。また、六〇歳以上を「老人」とすると、こ の年齢層の出国者は出国者総数の二〇%を占める。つまり、この国から海外に出る人は老人と若者、とりわけ若い女性の比重が大きいということである。

三五歳から五九歳までの壮年期の男性が海外出国者に占める比重は二七%で、この層が前年比一六%も極端に減少していることからみて、ビジネ スで海外に出る機会はあるものの、忙しすぎるのか経済的に余裕が無いのか、自分の目的意識と関心で海外に出る機会は少ないという状況が垣間見える。

たとえ「物見遊山」の気軽な観光であれ、自分の足と眼で世界を体験することは意味がある。その点で、定年退職後の世代と若い女性が積極的に 世界に動き、働き盛りの世代の男性が、仕事か近隣諸国への遊興以外には海外に出ないという現実は重い。日本経済が一段とアジアとの相関において成立する方 向に向かっている中で、日本が置かれた状況を認識する上で、この世代の世界認識の狭さが問題なのである。

日本人の渡航先の変化も考えさせられる。二〇〇六年、米国を訪れた人よりも中国を訪れた人が上回ったが、この傾向は一段と顕著になり、二〇 〇八年には中国への渡航者は三四五万人、米国への渡航者は三二五万人となった。しかも、米国への渡航者のうち六四%にあたる二二二万人はハワイ・グアムな どへの訪問者であり、米本土への渡航者は一二三万人にすぎないのである。二〇〇九年の日本人出国者は前記のごとく一五四五万人であったが、渡航先の内訳は 部分的にしか発表されていない。中国への渡航者は三三二万人だが、香港(一二〇万人)、台湾(一〇〇万人)、シンガポール(四九万人)を加えた大中華圏へ の渡航者は六〇一万人、韓国への渡航者は三〇五万人で、大中華圏と韓国への渡航者の総計が九〇六万人と米国への渡航者の三倍を超える時代になったのであ る。日本人がアジアに体験を広げ、視界を開くことは、これからの日本人の世界観にジワリと影響を与えていくであろう。

訪日外国人——アジアからの来訪者のダイナミズム

二〇〇七年、戦後初めて、中国からの来訪者(九四万人)が米国からの来訪者(八二万人)を上回った。中国からの来日には、次第に緩和されてきたが依 然として「ビザ規制」があるにもかかわらず、来訪者数は増大基調を辿っており、二〇〇九年には、全体の訪日外客数が一八・七%減という中で、前年比微増の 一〇一万人となった。

二〇〇九年の訪日外国人六七九万人の中で、中国本土からの一〇一万人に台湾からの一〇二万人、香港からの四五万人、シンガポールからの一五 万人を加えて、大中華圏からの来訪者総計が二六三万人と三九%を占める。これに韓国からの一五九万人を加えると、訪日外国人の六二%にあたる。韓国からの 来訪者は、通貨のウォン安を背景に、前年比三三%減となったが、韓国経済のV字型回復を背景に一一月からは急回復している。銀座を歩いても、地方の温泉に 行っても、やたらに中国人と韓国人が増えたという印象を抱くのも当然なのである。ちなみに、米国からの来訪者は七〇万人と前年比一〇%減となった。急速な ドルの減価の中で、米国人にとって日本訪問の壁は一段と高くなっているのである。

「観光立国」といっても、実体は大中華圏と韓国からの来訪者を主とする観光ということになる。温泉やスキー、秋葉原・銀座での買い物も何度となく訪れてく れるリピーターとしていくには魅力に欠ける。県、地方ごとの観光誘致には熱心だが、広域ブロックで連携して外国人観光客を受け入れる体制は十分ではない。 訪問する側の目線に立った「観光立国」になっていないのである。定番の観光地であてがわれた食事を食べる団体旅行ではなく、長期滞在して日本人の生活に溶 け込み、文化を味わっていく観光へと進化させなければならない。日本人の観光への考え方を変えざるをえない局面が迫っている。

相互補完性の中の日本

今、日本はアジアのダイナミズムに突き上げられ、かつ支えられつつある。この微妙な力学を冷静に認識すべきである。人の移動は好奇心を誘発し、発見 を通じた向上心をもたらす。近隣アジアの人々の表情を直視するとき、その熱気にたじろぐとともに、日本人が忘れかけていたものを想起させられる。

このところ、日本での議論には「中国・韓国の攻勢に追い上げられ、劣勢に立つ日本」という認識が広がりつつある。「ついに、GDPで日本が 中国に抜かれる日」「リーマンショックからV字型回復を遂げ、世界市場で躍進する韓国企業」などという報道が続き、当惑と危機感が飛び交う。しかし、冷静 にいえばアジアのネットワーク型発展の中で、日本も大きなメリットを受け、近隣諸国との相互関係の中で我々自身の生業が成立しているともいえるのである。

例えば、昨年の日本の貿易収支を見てみよう。全体で二・八兆円輸出超過となったが、韓国への輸出超過は二・四兆円、台湾には一・七兆円、香 港には二・九兆円となっており、とくに、韓国・台湾は日本製の部品(中間財)を輸入し、それを最終製品に組み入れて外貨を稼ぐ経済構造になっている。 日本こそアジアの「ネットワーク型発展」の受益者でもあり、それを促している推進基点でもあるのだ。昨年の日本の米国への輸出超過は三・二兆円と前年比で 半減、大中華圏(中国、香港、台湾、シンガポール)と韓国を合計した輸出超過の七・一兆円が日本の外貨獲得の支柱である。相互補完性を認識し、この構造の 中での日本産業の次なる展開を構想することが肝要なのである。屈折した被害者意識に埋没せず、日本は一歩前に出て、日本の技術優位性、ファイナンス力を生 かし、官民協力した戦略スキームを構築し、環境・インフラ・交通システムなどのプロジェクトを「システム輸出」として推進する総合エンジニアリングがこれ からの課題である。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年3月号

水上達三と貿易立国日本—問いかけとしての戦後日本(その9)

高坂正堯が「海洋国家日本の構想」を書いたのが東京オリンピックの年一九六四年であった。戦後の日本が「大東亜共栄圏構想」の挫折を踏まえ、国家と してのフロンティアを七つの海に求め、「東洋でも西洋でもない立場に生きること」「通商を通じて国を豊かにしていくこと」を暗黙の国民目標として「戦後復 興・成長路線」を走り始めたことを象徴する論文であった。そして、通商の現場で戦後日本の復興・成長の現場を担った中心人物の一人が水上達三であった。戦 後、GHQに解散させられた三井物産を再生させた水上達三という人物と、私は一九七三年に出会った。「石油危機」の年、一九七三年に三井物産の新入社員と して調査部に配属された私は、既に社長を退き相談役として「日本貿易会会長」の仕事に情熱を燃やしていた水上に、正に末席の新人として資料作成の下働きを 始め、その「お礼」ということで、何度か円卓の中の一人として中華料理をご馳走になったこともあった。日本の輸出が三六九億ドルになったのが正に一九七三 年であったが「輸出が一日一億ドルになったよ」と感慨深く水上が語っていたのを思い出す。 「国際収支の天井」という言葉がつきまとい、「売るものがない から買いたいものも買えない」、つまり輸出産業が育っていないから「輸入超過」という状態を日本経済が脱したのが一九六五年であり、安定的な「輸出超過」 を持続し始めたのは、第二次石油危機を経た一九八一年からであった。戦後直後の貿易の前線を担い、「外貨獲得」に立ち向かった「商社マン」たちは、まずは 米国市場においてクリスマスツリーのランプや三条燕の洋食器の見本をバッグに詰め、靴を履きつぶすような戦いを続けたのである。

水上達三という人生

水上達三は一九〇三年(明治三六年)、山梨県巨摩郡に生まれ、甲府中学を卒業した。故郷山梨が水上の人生に大きな意味をもったことは間違いない。彼 は「私の履歴書」の中で「甲府中学には優秀な先生が多く、私は様々に影響を受けた。甲府は江戸幕府の直轄地であったから、学問にも熱心な風土が自然に出来 ていたものと思う。甲府中学の前身は、一七九六年(寛政八年)に幕府が設立した『甲府学問所』のちの『徴典館』という塾で、ここから多くの学者が輩出して いる。一九〇六年(明治三九年)には大島正健という校長が赴任し、さらに校風を高めている。この人は札幌農学校の第一回卒業生で、“ボーイズ・ビー・アン ビシャス”のクラーク博士の直接の教えを受けており、開明的思想を甲府中学に注ぎ込んだものとみえる。石橋湛山は中学の先輩で、大島校長に強く打たれたよ うだ」と述べている。

正に「人間山脈」という言葉を想起させられるが、人間は人間によって育つ。それが連綿と繋がり不思議な影響の連鎖が生まれ、クラーク博士が 蒔いた種が甲府で大島正健によって花開き、石橋湛山、水上達三などに受け継がれていく。石橋湛山は『湛山回想』(岩波文庫)において「(私の)意識の底 に、常に宗教家的、教育者的志望の潜んでいたことは明らかであった。そこに私は、大島校長を通じ、クラーク博士のことを知り、これだと、強く感じたのであ る。つまり私もクラーク博士になりたいと思ったのである。私は今でも書斎にはクラーク博士の写真を掲げている」と書く。その石橋湛山を郷里の母校の先輩と して敬愛し、水上は石橋を囲む『東洋経済』の時局座談会に欠かさず参加していたという。湛山の亡き後、その自由主義、民主主義、平和主義(国際協調主義) の思想を普及することを目的に「石橋湛山記念財団」が設立されたが、水上は財団の理事長を引き受け、十五年以上もその活動を支え続けた。

一九二八年(昭和三年)、水上達三は東京商科大学を卒業後、三井物産に入社した。その翌年には高崎派出員として群馬県高崎市に赴任、以来六 年間も高崎での生活を続けた。入社早々、国内の小店に六年間も勤務させられる状況にも水上は腐らなかった。むしろ積極的に受け止め、「派出員だからこそ、 本店にいたら若手では読めないような書類が読めた」、「何でも任されて、いやでも全体の業務を覚えた」と述懐している。

置かれた状況を積極的に受け止め、吸収し、学び取ろうとする精神は、水上の生涯にわたり貫かれている。終戦を三井物産の北京支店長代理とし て北京で迎えた四一歳の水上は、接収された三井物産の残務整理に当たった後、抑留されていた日本人引揚者一三五〇人の団長として一九四六年に帰国する。こ の敗戦後の大混乱期の北京においてさえ、水上は苦心して短波放送の受信機を手に入れて、サンフランシスコ、メルボルン、デリーなどから入る情報を入手し て、敗戦後の日本がどうなっていくのか、正確な情報を得ようと手を尽している。情報へのこだわり、集中力は驚嘆すべきものであった。

帰国後、三井物産に復帰して間もなく、一九四七年七月、「財閥解体」を意図する占領軍総司令部(GHQ)の指令によって「解散」させられ た。GHQの指令は、「かつてどの敗戦国の一民間企業が受けたこともない過酷なもの」であった。何しろ「旧三井物産で部長以上だった者が二人以上で新会社 を組織すること禁止」「旧三井物産の従業員が百人以上で新会社を組織すること禁止」「商号使用禁止」「資本金二〇万円以上の新会社設立禁止」というもの で、完膚なきまでに三井物産という組織を壊滅させる意図が込められていた。

「三井物産は無に帰したのだ」「明日からどう食うかの事態になったのだ」と、この時の思いを水上は書き残している。水上は旧三井物産の仲間 三七人を集め、資本金一九・五万円の新会社「第一物産」を設立した。四三歳の水上は「辛い時代でも夢は大きく持ちたい。今後の日本も、大切なのはやはり貿 易だ。貿易会社なら広い範囲のものを扱うべきだ」と判断したという。二百以上もの弱小企業として点在していた旧三井物産系の商社群の中から、水上の第一物 産が力をつけ、合併再編の中核企業になっていく。

何故、第一物産が一九五九年の「三井物産大合同」の中核になったのか。つまるところ経営者の志と意思だったといえる。解散直後から「十年以 内に三井物産を復活する。第一物産がその母体になろう」と水上は言っていたという。投機的な「思惑買い」をせず、「日本の進むべき前途を考え、国際情勢を 出来るだけ細かく分析しながら進んだことが、力をつけた理由であろう」と彼自身は述べている(「私の履歴書」)。会社の規模は小さくとも、取り扱い品目の 多様性だけでなく、輸出・輸入・外国間貿易・国内商内など商内形態の総合性、さらには金融機能など、企業機能の総合性にこだわり続け、「総合力」を志向し 続けた。第一物産が思いがけぬ利益を挙げた時、水上がまず踏み切ったのは「調査情報部」と「技術部」の創設であった。商社にとって、情報と技術が成功の鍵 であることを見抜いていたのである。

水上の貿易立国論の進化

私の思い出の中の水上達三は、「恐ろしく情報感度の高い人物」という印象である。右手にマクロの貿易統計、左手にミクロの三井物産の実績を持ち、そ れを付き合わせながら、次に如何なる戦略・戦術を打つべきかを考え抜いて、的確な指示を与えていた。経営者の持つべき問題意識と行動力の凄みを思い知らさ れたものである。好奇心が強く、常に新しい事象に関心を抱き、若手の話に興味を抱いていた。

一九八八年(昭和六三年)、水上達三は『貿易立国論―水上達三論集』(有斐閣)を出版した。水上が体験的に蓄積した思想や世界観を集約した 作品である。注目すべきは、「貿易によって日本の戦後復興に貢献しよう」という若い時代の問題意識が次第に進化し、「一国民、一民族中心の貿易立国論か ら、世界経済全体との関連の中で貿易立国論を位置づける」方向に向かっていることである。日本の戦後というのは、水上のような視界をもった経営者とそれを 支えた貿易の前線に立った先人たちの情熱が創り出したという面もある。

私が三井物産に入社した一九七三年に「一日一億ドル」を超した日本の輸出は、二〇〇八年には七八四一億ドルと実に二〇倍以上に増大した。日 本の産業力の高まりに感慨を覚えざるをえない。「売るものがない」といっていた国が隔世の感がある。にもかかわらず、この国を覆う無力感は何であろうか。 「ハヤブサの達」といわれた水上達三の眼光と「貿易には真理と哲学がある」といっていた言葉を思い出す。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年2月号 特別篇

常識に還る意思と構想—日米同盟の再構築に向けて   寺島実郎

中国の作家魯迅は、二〇世紀初頭の中国について、植民地状況に慣れきった中国人の顔が「奴顔」になっていると嘆いた。「奴顔」とは虐げられることに 慣れて強いものに媚びて生きようとする人間の表情のことである。自分の置かれた状況を自分の頭で考える気力を失い、運命を自分で決めることをしない虚ろな 表情、それが奴顔である。

普天間問題を巡る二〇〇九年秋からの報道に関し、実感したのはメディアを含む日本のインテリの表情に根強く存在する「奴顔」であった。日米の軍事同盟を変更のできない与件として固定化し、それに変更を加える議論に極端な拒否反応を示す人たちの知的怠惰には驚くしかない。

常識に還るということ、日本人に求められるのは国際社会での常識に還って「独立国に外国の軍隊が長期間にわたり駐留し続けることは不自然な ことだ」という認識を取り戻すことである。詭弁や利害のための主張を超えて、この問題に向き合う強い意思を持たぬ国は、自立した国とはいえない。直視すべ き事実をもう一度明記しておく。

(1)戦後六五年目を迎え、冷戦の終焉から二〇年が経過しようとしている日本に、約四万人の米軍兵力(他に軍属、家族が約五万人)と約一〇一〇平方km(東京二三区の一・六倍)の米軍基地が存在していること

(2)米国が世界に展開している「大規模海外基地」上位五つのうち四つが日本にあること(横須賀、嘉手納、三沢、横田)

(3) 「全土基地方式」が採用され、日米政府代表による日米合同委員会がどこを基地として提供するかを決めることができる(地位協定二条)ため、国会承認なしで 全国どこにでも基地が提供でき、東京首都圏に横田、横須賀、座間、厚木など世界に例がないほどの米軍基地が存在すること

(4)米軍駐留経費の七割を受け入れ国たる日本側が負担するという、世界に例のない状態が続いていること

(5)在日米軍の地位協定上のステータスは、占領軍の基地時代の「行政協定」を引きずり、日本側の主権が希薄であるのみならず、地位協定にも規定のない日本側コスト負担が拡大してきたこと

二〇〇九年一二月初旬の訪米での再発見

一二月の第一週、ニューヨーク、ワシントンと訪問してきた。一〇年以上もの米国勤務を終えて帰国した一九九七年以来、年四回は続けてきた定点観測で ある。今回は、オバマ政権がスタートして九カ月、「グリーン・ニューディール」といわれる環境エネルギー分野での日米産業協力、さらには私が総務省のタス クフォースの座長を務める「次世代ICT(情報通信)」分野での専門家との意見交換を狙いとするもので、日米安保に関する議論を主眼とするものでははな かった。

にもかかわらず、鳩山首相が小生の長年の友人で、時に意見交換の機会もあるというだけで、「切迫する普天間問題」に関する「首相の 密使」であり、普天間問題を巡る根回しでもするために訪れたかのごとく、日経新聞、読売新聞で繰り返し報道された。外交で避けるべきは「二元外交」であ り、正式な外交ラインによる交渉が動いている局面において、異なる次元での交渉など事態を混乱させるだけで、私はそのような動きに参与するほど愚か者では ない。今回はむしろ微妙なタイミングでもあることを配慮して、国務省、国防省、大統領府などの日米関係の責任ラインに会うことは避け、ワシントンにおける 国際問題に関わるシンクタンク、世界銀行、米州開発銀行、エネルギー・環境問題に関する専門家、ジャーナリストなどとの面談に絞り、深い議論を積み上げて きた。

この間まで、「インド洋への給油活動こそ日米同盟の証であり、これがなくなれば日米同盟は破綻する」と言っていた人たちは、今度は 「普天間問題での日米合意をそのまま実行しなければ、日米同盟は亀裂する」と主張し始めた。また、在ワシントンの日本のメディアにも「良好な日米関係破綻 の危機迫る」との発信しかできない特派員が少なくない。

これらの人たちが描く「良好な日米関係」とは何か。

あえていえば、 「ブッシュ・小泉時代の日米関係」、米国の期待を素早く受け入れて「ショウ・ザ・フラッグ」に呼応してインド洋、そしてイラクに自衛隊を派遣するような関 係を望ましいものと考えているようである。つまり、今までの日米間の安全保障の関係を「不変のSTATUSQUO(現状)」とし、一切の変更は望ましくな いと思考する人たちの過剰反応が、私の訪米についての報道でもあった。

しかし、我々は「イラクの失敗」を目撃した。米国は五三〇〇人を超す 兵士をアフガニスタンとイラクで死なせ、一兆ドルを超す戦費を費やした。主導したブッシュ大統領自身が「イラク戦争は間違った情報に基づく戦争だった」と 総括して辞め、その戦争で死亡したイラク人は少なくとも一〇万人と推計されている。米国自身が、その反省に立って「イラク戦争に反対したオバマ」を大統領 にしてパラダイムの転換を図ろうとしているのである。日本人の中には、そんな戦争に加担して道を間違えたという省察は不思議なほど見られない。だが、この ことへの誠実な総括なしには、これからの日米同盟の在り方を構想することはできない。何故なら、九・一一後の「米軍再編」に至るプロセスをしっかりと再認 識することが、次なる日米同盟の在り方の基盤だからである。

それにしても、日米安保にまつわりつく人たちの腐臭はすさまじい。私はワシント ンの中で通常「知日派・親日派」といわれ、「日米安保で飯を食べている人たち」から距離をとる必要を痛感する。これらの人たちは、日本からの来訪者を笑顔 で迎え、しばしば日本でのシンポジウムにも参加して「日米同盟は永遠の基軸」というエールを交換していく。常に基地を受け入れる日本側の「責任」に言及 し、より大きな「国際貢献」という名の対米協力を求める。もちろん、これらの人に呼応する日本側の「知米派・親米派」という一群の人たちがいて、この相互 依存が、長い間の日米関係を規定してきた。そのもたれあいの行き着いた悲劇が「守屋防衛次官の逮捕」という事件であったことは記憶に新しい。

ここ何年かの訪米で、私は広い世界認識を持った人物を訪ね、より多面的な視界からの日米関係の在り方を話題にし、意見を聞くことを心がけている。それは、利害や思い込みを超えて、広い視座から現在の日米同盟がどう見えるのかについて、客観的な意見が聞きたいからであある。

そ して、驚くべきことに、ワシントンにおける最高レベルの知識人や国際問題の専門家でさえ、日米関係に関与していない人たちの多くは日米同盟の現実(米軍基 地の現状や地位協定の内容)を知らない。むしろ、こんな現実が続いていることに、「米国の国益は別にして」と付け加えながらも、怪訝な表情と率直な疑問が 返ってくるのである。

もうひとつ、一〇月の北京大学での講演を機に中国を訪れた時の、屈折した体験に言及しておきたい。中国の幾人かの外交 官、国際問題の専門家と日米安保に関する議論をしていて、率直な疑念として提起されたのが所謂「ビンのふた」論であった。つまり、日本が自立志向を高め、 日本から米軍が撤退すれば「日本軍国主義の復活を閉じ込めるビンのふた」がなくなり、近隣諸国は不安になるという論理である。実は、日米安保が現状のまま 固定していて欲しいと願うのは、日米双方に存在する「日米安保で飯を食う人々」だけでなく、中国こそ在日米軍の存在に期待しているという皮肉な構図に気付 かされるのである。

日米安保の屈折した様相に苦笑せざるをえないが、日本人として心に期すべきは、日本の平和と安全は日本人自身の意思で確保すべきものであり、平和主義に徹して近隣の脅威にならない自制も我々の責任だということである。

日米安保の本質と冷戦後の変質

言うまでもなく「日米安保体制」とは、東西冷戦を背景に構築されたものであった。そのことはこの体制構築の日本側からの推進者として一九五一年のサ ンフランシスコに向かった吉田茂自身が明快に語っている。その著『回想十年』(東京白川書院、一九八三年)の一九章「日米共同防衛体制の由来」において、 日米安保条約が米国側から押し付けられたものでも日本側から頼んだものでもなく、ダレス国務長官との間において「日本防衛、自由世界の防衛という点で、い わば客観情勢の認識、見透しを同じくし、講和に伴う占領軍の撤退後における日本防衛の空白を埋めるのには、あれ以上の良策がないという結論に達した」と説 明した後、吉田は次のように書く。「安全保障条約は、条約自身が明らかに想定しているとおり、飽くまで暫定的な措置である。すなわち日本の自衛力が十分強 化されたとか、国際情勢が著しく緩和されたとかによって、この条約の必要が消滅すれば、いつでも終了させ得るのである。」

日米安保条約とは 冷戦を背景に、暫定的なものとしてスタートした。その後一九八〇年代末まで、東側との冷戦期の安全保障の仕組みとして「日米安保」が有効に機能したことは 評価すべきである。しかし、吉田の後進たちは四〇年間の惰性のなかで、政治家も外交官も、あまりにも冷戦期の枠組みに縛られ、世界情勢の変化を機動的に捉 えてその枠組みを超える柔らかい政策を思考する姿勢を見失い、今日に至った。

吉田茂はサンフランシスコ講和会議と日米安保条約の調印に臨み、周りにいた若い外交官に対し、「自分は西側陣営の一翼を占める形で、戦後復興と安全を図るのが妥当と判断して調印に向かうが、君たちは日本外交の選択肢を柔らかく研究するように」と話したという。

冷 戦の時代を経て、一九八九年にベルリンの壁が崩れ、世界は冷戦後の時代へと入って行った。冷戦を前提とする「日米安保体制」も、世界情勢変化を背景として 根本的に見直されるべきであった。ところが、日本側の事情は違っていた。東西冷戦の代理戦争的状況でもあった自民党対社会党の「五五体制」が存在意義を失 い、一九九〇年代の政治状況は流動化し始めた。一九九三年に宮沢内閣を最後として自民党単独政権は終わりを告げ、細川政権から森政権まで短命政権の隆替が 続く。自民党と社会党の連立という村山政権の誕生さえ経験した。腰の入った外交基盤の転換などできなかった。

冷戦後の一〇年間に、同じ敗戦 国のドイツが一九九三年に「在独米軍基地の見直しによる縮小(在独米軍を二六万人から四万人に削減)、地位協定改定」に踏み込んだごとく、日本も日米安保 体制を見直すべきであった。ところが、「アジアでは冷戦は終わっていない」という認識で、日米安保を自動延長する流れが継続され、せいぜい九六年の橋本・ クリントン共同宣言(日米安保の再定義)を経た九七年の「ガイドラインの見直し」がなされた程度であった。

しかも、「ガイドラインの見直 し」は実は大きな危険を招きかねない日米合意に踏み込んだ。日米安保が対象とする「有事」(周辺事態)を、従来の極東地域に限定する「極東条項」を取り払 い、「平和と安全を脅かす事態の性格」によって決める方向に変更したのだ。つまり、世界のどこで起こった事態であれ、日本の平和と安全を脅かすと判断すれ ば、米軍と共同して動く可能性を開いてしまったのだ。

こうした判断の背景には、九〇年代の世界状況に対する認識があったといえよう。冷戦後 の「米国の一極支配」とか「唯一の超大国となった米国」といった議論が主潮となり、深い思慮もなく米国の世界戦略との一体化が加速されてしまったのであ る。そうした状態で二一世紀を迎え、九・一一の衝撃を受けた米ブッシュ政権が、逆上してアフガニスタン、イラクへと軍事進攻するのに対し、「日本は米国に ついていくしかない」という思考停止の選択を余儀なくされていった。

日米安保条約が締結されて約六〇年、その変質の中で不可解なのは日本側 のコスト負担の増大である。元々、地位協定において日本側経費負担はなかった。地位協定二四条では、米軍駐留に伴うすべての維持費は、日本ではなく米軍が 負担することになっていた。日本は基地の土地は提供するが、維持費は米国側が負担することになっていたのである。一九九二年まで、フィリピンに存在してい たクラーク空軍基地、スービック海軍基地のごとく、米国がフィリピン政府に「使用料」(米側の言葉では「援助金」)を支払っていたケースさえあった。

と ころが、日本側負担は次第に拡大し、一九七八年からは金丸信防衛庁長官(当時)が、日本人基地労働者の福利厚生費の一部を「思いやり予算」の名目で負担し たことを始まりとして、日本側負担増が常態化してきた。基地周辺対策費や用地賃借料などを含め、今世紀に入っても年平均六〇〇〇億円前後の米軍基地経費の 日本側負担(含む思いやり予算)が続いており、冷戦後の二〇年間で、累計一〇兆円を超す米軍基地関係費用を日本国民は「安全のコスト」として税金で負担し てきたのである。

世界にも他に例がないほどの、受け入れ国が米軍基地の経費の七割を負担しているという事実が、逆に現状変更を困難にする要 素になっていることに気付く。「米軍を配備するうえで、最も安上がりの場所」という認識が米軍関係者にまで浸透し、日米双方に「日米安保で飯を食う利害関 係者」を増幅させてしまったからである。過日の民主党新政権による「予算仕分け」作業において、沖縄米軍基地で働く九〇〇〇人の日本人従業員の給与が県内 の同等業務の労働者の給与より二~三割程度割高であることが指摘され、「削減」が議論されたことに対して、基地労働者の代表が怒りのコメントを語っていた が、基地問題の複雑さを印象付けられた。

ともあれ、冷戦後の一〇年は、日米安保を構造的に見直すことなく「空白の一〇年」となった。そして、二一世紀を迎えて直面したのが九・一一であり、それを受けた「米軍再編」の動きによって、日米同盟はさらなる変質を始めた。

米軍再編とは何だったのか

○九年に亡くなった軍事評論家の江畑謙介は、正確な知識と情報に基づく軍事評論家として敬服すべき存在であった。その晩年の著書『米軍再編』(二〇 〇五年、新版二〇〇七年、ビジネス社)は、米軍再編の真実を冷静に分析した作品であった。この中で「米軍は必要な時に日本を、太平洋を越えた兵站補給、部 隊展開の前進拠点にしようとしている」と米軍再編の本質を見抜いていた江畑は「同床異夢の米軍再編には危険が潜む」と指摘、基地の縮小・移転、地位協定の 改正、思いやり予算の削減などについて戦略的提言をしていた。我々は江畑謙介の問題意識と提言を重く受け止めなければならない。

米軍関係者 が「トランスフォーメーション」という米軍再編は、ブッシュ政権の国防長官だったラムズフェルトが主導した、九・一一後の米国の「イラク戦争」「テロとの 戦い」に即応した戦略であった。狙いは「①先制攻撃さえ含むテロとの戦いの効率化、②同盟国軍隊との共同作戦の強化」にあり、本来の日米安保の目的を逸脱 したものであった。

アーミテージ元国務副長官は、〇九年一二月に都内で行われた日米関係に関するシンポジウムにおいてさえ、「皆さんが今 夜、安心して眠れるのは米国が日本を守っているからだ」と訴えていた。悪意はないのだろうが、残念ながら日米安保の実体が「日本を守る」「極東の安全を守 る」という原点から大きく乖離し、中東から中央アジアまで「イスラム原理主義」を意識した、テロとの戦いなる「アメリカの戦争」に対する共同作戦の基盤へ と変質していることを正確に伝えていない。「イスラム原理主義」に立つテロリストとの戦いは、微妙にイスラム全体の憎しみを増幅し、文明の衝突さえ誘発し かねないリスクがある。日本の立場をいえば、イスラムが日本の安全保障を脅かす構図に自らを置くことは愚かである。

一九八〇年代から、私は 中東問題に巻き込まれてきたが、日本人が自覚すべきは、多くの中東諸国の人たちが「日本は中東のいかなる国にも武器輸出も軍事介入もしたことのない唯一の 先進国」という事実に敬意と好感情を抱いているということである。また、米国とは異なり、「イスラエル・パレスチナ問題」に対して「イスラエル支持」を表 明せざるをえない国内事情があるわけでもない。日本の立ち位置を自覚し、世の中には日米共同で当たるべきこととそうでないことが存在することを強く認識し なければならない。

改めて日本を取り巻く「脅威」とは何か

二一世紀初頭の一〇年間を経ようとしている今、世界が大きな構造転換を進めつつある中で、日本の安全を脅かす危機とは何であろうか。冷静に再考すべきである。

ロ シアの脅威はどうか。北方四島、漁業を巡る利害の対立はないとはいえないが、ソ連時代のような軍事攻撃の可能性は現実的ではない。むしろ、二〇〇八年に起 きた「グルジア侵攻」などの問題が米露対決を招き、「新冷戦の時代」のような事態になって、同盟国として「米国の戦争」に巻き込まれる可能性のほうが高 い。

では、北朝鮮の脅威はどうか。確かに、国力にそぐわぬミサイル、核開発を進める北朝鮮は脅威である。ただし、冷戦の時代の北朝鮮の脅威 と現在の脅威は異なる。冷戦の時代、北朝鮮が「南進」することは後ろ盾のソ連・中国と呼応しての軍事行動であり、韓国や日本にとっては「社会主義への体制 転換の脅威」であった。しかし、現在の北朝鮮の脅威は「ならずものとしての脅威」(撹乱要因)であり、世界に共鳴者を拡大できるメッセージもなく、「冷戦 孤児」として孤立を深める先軍国家が放つ断末魔の叫びのようなものである。

ただし、北朝鮮が自暴自棄的な「南進」をする危機は皆無とはいえ ず、沖縄海兵隊の抑止力などは重く認識すべきであろう。しかし何よりも日本としては、北朝鮮のミサイル・核を「使えない兵器」にする外交戦略が重要であ り、ロシア、中国、韓国、米国を引き込んだ「北東アジア非核化構想」などを主導し続ける姿勢が必要となろう。

では中国の軍事的脅威はどう か。中国の国防費は二一年連続で増加を続け、二〇〇九年度には六・九兆円(前年度比一四・九%増)と日本の防衛予算(このところ五兆円水準)を大きく上 回っている。人経費水準の低い中国の事情を配慮すると、正面装備は驚異的な充実を図っているといわざるをえない。そこで「日米同盟を強化して中国の脅威と 向き合おう」という論理に引き込まれがちになるが、事態は単純ではない。米中関係の変化である。二〇〇六年から始まった「米中戦略経済対話」は、オバマ政 権になって二〇〇九年四月に政治・安保を含む閣僚級会議に格上げされることになった。また、「米中ビジネス・カウンシル」には五〇〇社近くの米国企業が参 加し、昨今の日米財界人会議の低調とは対照的に一段と密度の高い交流を深めている。

そこで、一つの仮説として、もし中国が尖閣列島を武力占 領した場合、日米安保が発動されて米国が行動を起こすかを考えてみたい。日本人の期待からすれば、尖閣は沖縄返還の瞬間まで米国が施政権を持っていた地域 であり、「どちらの領有か分からない」などというものではない。だが、米外交官が近年においても「日中間の領土問題に巻き込まれたくない」と発言している 如く、米国の本音は微妙である。おそらく、その時点での米政府が米国民世論を配慮し、行動を起こすのが妥当と判断すれば、尖閣防衛に動くかもしれないとい うのがバランスのとれた認識であろう。

こうして思索を巡らせると、日米共同して向き合わねばならない脅威(有事)というものも、大きく変質 し、必ずしも鮮明ではないことが分かってくる。日本側からの過剰期待や過剰依存は成立しないのである。むしろ、一番説得的なのが「戦略的あいまいさ」とで もいおうか、日米軍事同盟による米軍の存在自体が、漠然たる「レバレージ」(危機対応力)を象徴しているという考え方で、「日本が孤立した存在」ではない ことを担保する仕組みとして機能しているという捉え方であろう。

日米同盟の進化とは何か

さて、こうした認識を基盤として、我々はいかなる二一世紀の日米同盟を目指すべきなのであろうか。日米双方で政権交代が行われ、これまでの利害や固定観念を超えて我々は柔らかい構想を探求すべきであろう。

ラ イシャワー東アジア研究センター所長のケント・カルダーは『米軍再編の政治学―駐留米軍と海外基地のゆくえ』(日経新聞社、二〇〇八年)において「過去五 〇年間、基地受け入れ国で政権交代がなされた後に、撤退する確率は、アメリカの基地の場合でも六七%」という興味深い事実に触れている。東アジアの現状を 冷静に捉えるならば、「戦略的あいまいさ」であっても、日本での米軍の存在は一定の枠においては継続されるべきものであろう。ただ、これまでの惰性ではな く、熟慮の上、相互信頼に値する日米同盟の再構築に立ち向かうべきである。その方向に向けて論点とされるべきことを下記したい。

(1)日米 の戦略対話の仕組みを構築し、「未来志向の日米関係」に関して経済と安全保障の二本立てで閣僚級討議を深め、日米同盟を再設計する。すなわち、経済産業に おける日米連携の深化のための日米産業協力や日米FTA(自由貿易協定)などを具体化する戦略対話と、安全保障体制の進化のための在日米軍基地の在り方 や、日米防衛協力についての戦略対話を実現する。

(2)安全保障に関しては、長期的に目指すべき日米軍事同盟の在り方について日本側の考え 方を明確にする。例えば、東アジアに軍事的空白を作らないことを配慮しつつ、米軍基地・施設を使用目的ごとに検討し、目的を終えたものから削減し、まずは 一〇年以内に半減を目指す。(注 地位協定二条3には「この協定のため必要でなくなったときは、いつでも日本側に返還しなければならない」となっている)

(3) 地位協定については、米軍基地を順次「日本政府が管理する枠組みなかで、米軍を自衛隊基地に駐留させる形での共同管理方式(地位協定二条4-b)」へと移 行する。(注 石破元防衛庁長官もかつて同様の問題意識で「将来、原則としてすべてのアメリカ軍を自衛隊が管理・運営する基地に駐留させること」、つまり 日本が主権を持つ形での共同使用を提案していたという)

(4)将来に向けての新たな日米安保の形として、「アジアに軍事的空白を作らない」ために、米軍のプレゼンスを維持する仕組みとして、ハワイ・グアムに「緊急派遣軍」的戦力を一定期間保持して、日本・韓国が応分のコスト負担をする方式など柔軟なシナリオを模索する

(5) 普天間問題は、長期的な日米安保体制の見直しの中で検討されるべき事項であるが、基地使用継続に伴う周辺住民への危険を配慮し、米側と取り決めた「二〇一 四年までの移転完了」を可能とする現実的選択肢を速やかに決定する。この場合、米側の戦略計画にも配慮し、「沖縄・グアムを合わせた戦力の維持」が合意形 成のポイントとなるであろう。

思えば、本稿の冒頭で提起した「常識に還る」という視点は、米国が英国からの独立を目指した際、米国民の「合 言葉」として共有されたトマス・ペインの「コモンセンス」(一七七五年)に通じるものである。ペインは正にコモンセンス(常識)として、イギリスへの従属 や依存が「イギリスの正義」に基づく不必要な戦争に米国を巻き込むことの危険を訴え、米国の自立自尊を呼びかけた。時代背景は違うが、日本人が心に抱くべ き問題意識とも共鳴するものである。

我々は静かに「現代における条約改正」に向き合うべき局面に近づきつつある。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年8月号

日米同盟は『進化』させねばならない—普天間迷走の総括と今後   寺島実郎

鳩山政権は八ヶ月余の迷走の挙句、崩壊した。「宇宙人」といわれてきた人らしく、地球人的しがらみや苦悩を超越した愉快な表情で、実体権力者たるを誇示する小沢一郎幹事長を道連れに、テーブルをひっくり返すようにパラダイム転回を図り、天空の彼方に去った感がある。

だが、歴史は冷厳である。普天間問題は未解決のまま残り、政権交代を経た日本外交に方向付けさえできず、舞台は次の幕へと移ることになっ た。私は、長年にわたる鳩山由紀夫という人物との個人的親交もあり、政権発足の直後までは、日本が目指すべき国際関係の基軸に関して、意見を交わす機会も あった。だが、官邸と外交・防衛実務官僚との綱引き、そして内向するメディア状況の中で、外交についての筋道の通った議論が失われていく過程を遠くから観 察するにつれ、「この国の病の深さ」に深い失望と怒りを禁じえない心境になっていった。

ここは怒りを抑え、改めて鳩山政権を冷静に総括し、新たなる前進への礎とする作業を試みたい。私は、本年二月号の本誌に「常識に還る意思と 構想―――日米同盟の再構築に向けて」を寄稿し、普天間問題を含む日米同盟総体の見直しに向けた試論を提起した。本稿はその続編であり、その後の半年を観 察しながら、問題の本質をより構造的に探究した結果の補論である。

世界史の怒涛のような潮流に、冷戦型の「同盟外交」という枠組みそのものが限界にきており、とりわけ戦後六五年の惰性と既得権で固定化され た「日米同盟」という仕組みも明らかに軋み始めており、我々が取り組まねばならない同盟再生というテーマはくっきりと見え始めている。新しい時代へ、物語 は始まったばかりである。

鳩山外交は何故失敗したのか—迷走の構造

鳩山外交が失敗した理由は明白である。普天間問題を沖縄の負担軽減という次元の問題に押し込め、そこを踏み越えられなかったことである。ある意味で は、鳩山由紀夫という人は善意に満ちた人物であり、沖縄に在日米軍基地の七割以上が集中し、沖縄県民に過剰な負担を強いていることに強い問題意識を抱き、 普天間基地の移転先についても「何とか県外へ」と本気でこだわっていた。だが、仮に徳之島など県外に基地が移転されたとしても、それは決して問題の解決で もなんでもなく、基地問題の拡散にすぎないことは、沖縄の人さえも十分に認識している。沖縄の人もギリギリのところで理解できる方向付けは、たとえ前政権 が日米間で合意していた「辺野古移転」を過渡的妥協として受け入れたとしても、日本および沖縄における米軍基地問題を、民主党政権は如何なる方向に持って いこうとしているのかの長期方針が示され、その中で普天間問題が位置づけられることであった。にもかかわらず、問題を国内の代替地を巡るもめごとにし、ジ グゾーパズルの一片を握り締めた愚かな「持ち時間付のゲーム」にしてしまったのである。

普天間移転という問題は、一九九五年の米兵による少女暴行事件、二〇〇四年の大型ヘリコプター墜落事件によって浮上した問題であり、本質は 「基地の安全」の問題であった。したがって事件を起こした当事者である米国側が移転先を含め、責任をもってテーブルにつかねばならないはずの問題である。 それにもかかわらず、「気に入った代替地があれば移ってもいい」として、日本国内のもめごとの決着を腕組みして待ち構え、時間の経過の中で暗黙の圧力をか けうる問題にしてしまったのだ。

向き合うべきは米国であった。もちろん、普天間移設の代替案を巡っての日米協議はなされたが、日米安保の将来を検討する中での協議ではな く、現状の基本枠を是とする硬直した選択肢の中での議論から一歩も出ないのだから、パラダイムの転換などありうるはずは無い。ミクロの話に埋没すれば、現 場に近い実務者の技術論が重くなり「リアリティーがあるかないか」に押し負ける。首相官邸の沖縄負担軽減論も、米国の意向に最大の配慮を見せる外務・防衛 の実務ラインの羽交い絞めにあっていったのである。結局、首相官邸と外務省・防衛省が一枚岩になって米国と向き合い問題の本質に迫るということは五月末の 「日米合意」に至るまでできなかった。「現行の日米安保、基地の現状に変更を加えるべきではない」「米国との関係を損ねるようなことをしてはならない」と いうのが、外交防衛を支える実務官僚の不動の本音だからである。

政権交代によって「官僚主導から政治主導への転換」が語られている。だが、政治主導が機能していない省が二つある。外務省と防衛省である。 政務三役が虚弱というのではない。この二つの省を支える実務官僚には、厚い岩盤のように埋め込まれた「動かしがたい意思」が存在する。それがアメリカの意 向への配慮である。戦後、これらの省はアメリカとの関係によって存立してきた。この二つの省の中核を支える官僚群のキャリアは「アメリカでの研修・実務体 験と意思疎通」の中で形成されてきた。「アメリカへの配慮」と「アメリカの了解」が彼らにとって最も自然な現実的選択なのである。

バランス感覚と豊かな人間性を持った優秀な官僚が多いのだが、彼らと真剣に議論をしてみて、直感的に思い起こすのは、清国末期の、亡国に導 いた官僚が放つ空気である。アヘン戦争から六〇年が経過した一九〇〇年、義和団事件前後の清国の官僚にとっては、大英帝国は動かし難い前提であった。つま り、英国を初めとする列強の圧力を与件として、状況を打開するよりも列強の存在を当然の現実として受け止め「なんとか穏便に事態が推移すればよい」という 心理に陥った専門家が清朝を支えていた。教養と学知はあるが硬直した時代認識に埋没した官僚群は、事件の囚人となって日々を繰り回すことだけに憔悴し、惰 性のままに国の没落をもたらしていった。現下の日本も、客観的情勢判断から政策が決められるのではなく、「対米関係重視」という政策判断が先行して情勢判 断がされるという状況にあり、新しい事態を見通す柔軟で強靭な外交力など期待すべくもないのである。

外交政策の意思決定機構の硬直化と拘束という現実を思い知ったことこそ、今回の迷走劇の教訓であった。だが、鳩山前首相を含め、この国の何 代かの首相に国家の最高指導者としての構想力、目指すべき国に関する経綸が欠けていたことも否定しがたい現実であり、ロンドンエコノミストが「指導者なき 日本(LEADERLESS JAPAN)」という特集(本年六月三日号)を組むのも頷けるのである。

鳩山首相は「私の言葉が国民に届かなかった」と辞任会見で語った。ようやく最後の会見の段階で本音らしきものに言及したが、普天間問題の背 後にある日米同盟の今後に関して、何をどうしようとしているのかについて一度でも国民に語ったことはなかった。外交にはその政策判断の背後に世界情勢に対 する認識、歴史の中での現在という時代への認識が求められる。吉田茂の外交においても、一九五五年のバンドン会議前後の鳩山一郎政権の外交にも、一九六〇 年安保改定期の岸信介政権の外交にも、一定の世界認識と時代認識があったといえる。明確な時代認識と使命感に立つ指導力無き政権は、瞬く間に「今までのま まがいいのだ」という日米双方のエネルギーに囲まれ、身動き取れなくなってしまったのである。

それにしても我々は次元の低い政治ゲームを見せ付けられたものである。あたかも幕末の「攘夷決行」を巡る迷走にも似たドタバタであった。や れもしない攘夷決行を倒幕派が問い詰め、攘夷決行日を約束させ、幕藩体制の権威を失わせていく過程である。今日から見れば、世界観に欠ける滑稽な迷走なの だが、国内だけに眼の向いた「内輪のもめごと」に興奮して屍の山を築く、愚かな熱狂であった。今回の普天間を巡る迷走も自虐と加虐が交錯した日本国内のも めごとであった。「最低でも県外移設」と約束したのだからやってみせると首相がいう。「いつまでに」と問い詰められ、「五月まで」と答える。「自分でいっ たことなのだからやって見せろ」とメディアが迫る。この過程で問題の本質を問い詰める視界は消え、虚ろな三文芝居と化す。昔、「腹切り芸」という話があっ て、「やってみせる」と啖呵を切った男に、「やれなかったなら腹を切れ」と追い詰め、回りで囃し立てて腹切りに追い込む馬鹿馬鹿しい話だが、正に自虐と加 虐が交錯した次元での顛末となった。そして、滑稽な迷走劇を遠目でみている米国、そして世界は苦笑を禁じえないでいるのである。

立ち込める無力感は何であろうか。民主党の議員の中にも、「アメリカのトラの尾を踏んではならない」「日米同盟の在り方、米軍基地に手をつけたら火傷する」という空気が漂っている。だが、この無力感を乗り超えていかねば、日本の戦後は終わらない。

迷走の中で確認できたこと—米国の本音と直視すべき現実

深く洞察するならば、普天間問題で迷走の八ヶ月において改めて確認できたこともあり、そのことは今後の展開において重要な糧となるであろう。

●確認事項1 米国をも呪縛する日米安保の構造

日本の政権が変わり、ひょっとしたら普天間問題が米軍基地総体の見直しにつながりかねないという危機感を背景に、米軍の本音が明らかになってきた。 「日米安保は米国だけがリスクをとって日本を守る義務を負った片務条約であり、日本からの引き上げもありうる」と胸を張っていた米国が、「東アジアの安定 のためには在日米軍基地は不可欠の存在」という懸命のアピールを始めた。日本列島に恒久的に米軍基地を確保することが米国の利益でもあることを隠さなく なったのである。それまでは、「何故、米国の青年の血を流してまで日本を守らねばならないのか」という議論が囁かれ、「いつ引き揚げるかもしれない米軍」 という暗黙の圧力が「集団的自衛権に踏み込んでも日米同盟を深化させないと対等な日米同盟にはならない」という日本側の生真面目な空気さえ醸成してきてい た。

「本気で、米軍は日本に駐留し続けたいのだ」という再確認は重い。理由は明快である。駐留経費の七割を受入国側が負担し、ほぼ占領軍にも等 しい地位協定上のステータスを確保できる基地など、日本以外に無いからである。「米国の世界戦略上の必要性」とか「同盟責任の遂行」とか、もっともな理由 はあるが、日米安保の構造が「経費負担」という短期的な経済利害に関る部分で異常なほど日本側に依存しているが故に、その呪縛から米国自身が逃れられなく なっているのである。一九七八年度に六二億円で始まった「思いやり予算」は、ピークの九五年度には二七一四億円にまで肥大化し、国際法上の常識では外国の 軍隊の駐留を受け入れている国が負担しなくていい米軍の光熱水料から娯楽費まで日本側が負担する事態が続いている。二〇一〇年度には一八八九億円にまで削 減されているが、基本構造は変わっていない。

一つだけ不可解な具体例を挙げる。東京首都圏の座間と多摩に米軍は専用のゴルフ場を保有する。自衛隊でさえ専用のゴルフ場などない。こんな コストも「思いやり予算」として日本側が負担しているのである。冷戦が終わって約二〇年が経過するが、この間「日米同盟」を理由に日本側が支出した経費 は、「思いやり予算」を含む米軍基地の経費負担、湾岸戦争の戦費分担、米軍再編に伴うコスト負担、自衛隊のインド洋・イラク派遣のコストなど、概算で累計 一五兆円にもなるであろう。こんな同盟関係が米国を逆縛りしているのである。

政権交代を機に、利権の構造の将来に危機感を抱いたワシントンにおける日米関係を専門とする人たち、「日米安保で飯を食っている人たち」が 一斉に蠢き出し、日本側の利害関係者とともに「日米の良好な関係を崩してはならない」と叫び始めた。現状変更そのものが利益の喪失だからである。持ち出し てきた現状維持のための論理のキーワードが「抑止力」であった。

実は、普天間迷走の八ヶ月間で米国の防衛安全保障戦略は大きく変化している。オバマ政権の防衛安保政策の輪郭が明確になってきたということ である。三月、オバマ大統領は核兵器の削減について、「国家安全保障戦略における核兵器の役割が縮小している」との認識を示し、「核の均衡による安全保 障」という考えを「時代遅れの冷戦思考」と発言した。さらに、四月には「相手が核不拡散条約(NPT)を遵守する非核保有国ならば核兵器を使用しない。た だし、核開発国(イラン、北朝鮮)は対象外」と発言、五月にニューヨークで開かれたNPT再検討会議の開催と行動計画の最終文書採択を主導し、「核なき世 界」の具体的実現に向けての意思と構想を明らかにし始めている。

また、本年二月にペンタゴンから発表された「四年毎の国防見直し」(QDR),五月に四年ぶりに公表された「国家安全保障戦略」を読んでみ ても、米国の安全保障戦略が大きな曲がり角にきていることは明らかで、それはR・ゲーツ国防長官自身が寄稿したフォーリン・アフェアーズ五・六月号の論文 “HELPING OTHERS DEFEND THEMSELVES”にも鮮明に表れている。読み取れるのは、米国は海外に大規模軍事展開する余裕を失いつつあり、同盟国 や問題を抱えている国が自らの国を自力で防衛し安全を確保することを背後から支援する政策をとらざるをえないという政策意思である。六月に発表された「軍 事費を二〇一二会計年度から五年間で一兆ドル削減する」という方針も、イラク、アフガンでの戦争で肥大化した軍事費をなんとか削減しなければ米国の財政が 成り立たないところにきていることを示すものである。

冷戦の終焉後、クリントン政権下で軍予算の削減が続き、二〇〇〇年度に二九四五億ドルにまで圧縮された軍事費が、「9 ・11」を経て二〇一〇年度には七二八〇億ドルにまで急増してきた。これを年額二〇〇〇億ドル程度は圧縮しようというもので、オバマ政権の政策思想が「冷 戦型核抑止論からの脱皮」と「縮軍」にあることは確かである。

しかし、この安全保障政策の転換を日本との関係で考察するならば、話が屈折していることに気づかねばならない。つまり、日本だけは例外で、 決して日本からの軍事基地の引き上げや縮小を意味せず、むしろ「同盟のコスト負担」という名目で、日本側への負担増加を求める傾向が高まることが予想され る。米軍基地のコストの七割を受け入れ国側が負担しているという日本の現実は、米本土に基地を置くよりもコストがかからない軍事力の維持を意味し、できる だけ日本に基地を置き続けることが「縮軍」につながらない現実的選択だからである。米国の世界戦略全体の転換の中で、日本が如何なる賢明な戦略意思を見せ るのか重大な局面である。

●確認事項2 メディアにおける思考停止の構造

普天間迷走の八ヵ月、我々は物事を根本から考え、課題解決に踏み込もうとしない日本の現実を確認した。まず、確認できたことは「沖縄以外に米軍基地 の受け入れ先なし」という現実である。五月末、全国知事会に対して鳩山首相が普天間の代替施設の受け入れを要請したものの、結局のところどの都道府県も手 を挙げなかった。「誰も受け入れたくない迷惑施設」という本音が明らかになった瞬間だった。だが、その一方で「米軍基地は日本とアジアの安全のための公共 財」という建前がまかり通り、「北朝鮮や中国の脅威という現実を考えれば、米軍基地の存続はやむをえない」という議論に引き寄せられる日本人が多いという のも事実である。つまり、「沖縄ならば米軍基地が存在し続けても構わない」という歪んだ判断で日本という国が存在していることを確認せざるをえない。

ここでは国民の判断の座標たるべきメディアの問題に触れておきたい。普天間を巡る日本の迷走は、メディア論調の迷走でもあった。戦後日本の 国際関係を巡る論争において、例えばサンフランシスコ講和会議、バンドン会議、六〇年安保改定など、新聞の論調を再読してみたが、現在のメディア論説の知 的劣化は歴然としており、問題の本質に迫るジャーナリズムの役割を放棄しているとしか思えない。

例えば、日本の多くの経済産業人がその世界認識の座標としている日本経済新聞の普天間・日米安保を巡る論調は、冷戦型視界から一歩も抜け出 そうとしない典型である。イラク戦争を支持し、自衛隊のイラク派遣に賛同したこの新聞は、「イラクの失敗」を冷静に総括することもなく、「駐留米軍はアジ アの安定のための公共財」であり、「日米同盟が最もコストのかからない安全保障」であるという主張を繰り返している。経済産業面で、日本経済がアジアとの 相互依存の中で生きていかざるをえない潮流のなかにあるという現実を報じ続けながら、政治面で近隣アジアの脅威に対して「日米同盟で構えなければ不安だ」 という論理にこだわる亀裂は滑稽でさえある。つまり、冷戦期の日米関係を維持・固定化することが正しい選択だと思い続けている思考がここにあるといえよ う。

定番の固定観念に埋没した論調とは別に、今回の普天間問題を巡るメディア論調の迷走に拍車をかけたのが朝日新聞である。その象徴が五月五日 付の主筆船橋洋一氏の「拝啓鳩山由紀夫首相」と題する論稿であった。この論稿はある意味ではバランスがとれていて、全方位に配慮して書かれており、さすが に朝日を代表する論者であり、長い実績を有する船橋氏ならではの論稿なのだが、全方位に配慮して書き進めるうちに玉虫色の論説となり、かくあるべしという 主張が混乱しているのである。

「在日米軍基地は、日本を守るだけではなく、極東における平和と安全のためのものでもあるのです。その役割、つまりは抑止力が弱まることを 近隣諸国は、そして米国も、心配しているのです」と「磐石の日米同盟」が「中国を開かれた国際主義的な世界秩序に組み込むために不可欠」なことを船橋氏は 主張する。そして、米高官が「海兵隊が沖縄から出て行ったら、尖閣諸島はどうなると思う。次の日から尖閣諸島に中国の旗が立つだろう」と語ったことを紹介 し、さすがに「尖閣列島を守るのは、まずは日本の自衛隊と海上保安庁が果すべき役割」としたうえで、「『尖閣諸島カード』をちらつかせなければ日本の“平 和ぼけ”を覚ますことはできない、米国がいら立ちを高めている」と述べている。尖閣諸島を米軍が本気で日本の側に立って守るか否かは「グレーゾーン」の問 題であり「戦略的あいまいさ」の象徴的課題であることは、船橋氏の知見において十分に承知しているはずである。我々が今なすべき議論は、「抑止力」の内実 を真剣に吟味し、現状を固定化する思考から脱して、冷戦後の世界秩序にふさわしい地域安定化の構想を描き、実現に立ち向かうことである。

船橋氏の論稿は「現状を追認する勇気」を首相に促すもので、現状を変革する方向に日本の政治を後押しするものではない。「日本の対外構 想」(一九九三年、岩波新書)において、冷戦後の日本外交ビジョンとして「能動的にグローバル・シビリアン・パワーたること」を提唱していた船橋氏をして 現状のままでよいとする思考に導く力学は何なのか。この点こそ我々は凝視しなければならない。

●確認事項3 米中関係の深化—世界の構造変化

五月二四-二五日、北京で開催された米中戦略・経済対話は「対立を回避し関係強化を図る米中」という現実を確認させるものだった。オバマ政権は前 ブッシュ政権がはじめた主要閣僚を連ねた米中戦略対話の仕組みを「安全保障分野」まで拡充した。いうまでもなく、米中間には深刻な対立をもたらしかねない 課題が山積している。人民元切り上げ問題、チベット・人権問題、台湾への武器供与問題、イラン・北朝鮮の核開発問題など、とりわけ直近の韓国哨戒艦事件で の北朝鮮制裁問題への対応も注目された。

これまでの北朝鮮ミサイル発射、核実験においても、いかに米国が中国の主張に配慮し、決定的対立を回避しようとするかを確認させられてきた が、今回も北朝鮮という国際秩序攪乱国をあたかも「保護国」として囲い込みながら存在感を見せ付ける中国のしたたかさに押し切られるように、国連制裁の動 きも実効のない微温的なものに落ち着いていった。「多極化の中での実体的G2化」という表現があるが、冷戦後世界秩序が「米国の一極支配から多極化」に 向っているといわれる中で、中国の台頭を背景に実体的には「米国と中国の二極間の利害調整」が世界の合意形成において重要になってきたことを若干ジャーナ リスティックに強調した表現だが、G2という表現がでてくるほど米国の中国への配慮は極端である。

二〇〇九年の貿易(米国側統計)において、米中間の貿易額(輸出入合計)は三六五九億ドルと日米間の貿易額一四六九億ドルの二・五倍となっ た。米国にとって、既に中国は日本の二・五倍の貿易相手なのである。また驚きの数字でもあるが、昨年、米国から日本への来訪者は七〇万人であったが、中国 を訪問した米国人は一七一万人であった。モノの動き、ヒトの動きをみても、日米中の経済的相関の下部構造は急速に変化しているのである。

「米国の抑止力を利して中国を制御する」という考えは否定されるべきものではないが、「日米同盟で中国の脅威と向き合おう」というのであれ ばその認識はずれているというしかない。米中間のほうがはるかに密度の濃い意思疎通を図っているからである。そして、日本人の「頭越しでの米中接近への怯 え」を手玉にとるように、「オバマは鳩山には一〇分間しか時間をとらなかったが中国には・・・・」という心理操作によって、アメリカは思い通りにならぬ日 本に「孤立の恐怖」を与えうるのである。そして、依然としてその手法が有効なほど、日本人はナィーブなのである。日本こそ、臆することなく閣僚級の日米戦 略対話を提起し、日米同盟の新たなる在り方を正面から議論すべきであろう。

日米安保改定から五〇年という歴史認識―忘れてはならない歴史の方向感覚

今年は日本初の遣米使節「万延元年の使節」とともに咸臨丸が太平洋を渡って一五〇年という記念すべき年である。このことは本誌の七月号で書いた。そ して咸臨丸から一〇〇年という年が奇しくも一九六〇年、日米安保改定を巡る熱い政治の季節であったことにも言及した。「咸臨丸の時代を生きた幕末・明治の 日本人は誰一人として、外国の軍隊を頼りに自国の安全を図るという事態を考えてもいなかった」と私は書いた。「敗戦」がいかに重かったとはいえ、六五年も が経過した今、日本人はどこまで自堕落になってしまったのであろうか。

改めて戦後日本の外交思想という視座から考えるならば、我々は今、「吉田外交」という枠組みからいかにして前に出るのかを模索し続けている といえよう。サンフランシスコ講和会議での「単独講和」によって西側陣営の一翼を占める形での国際社会への復帰を急いだ日本は、日米同盟を基軸として冷戦 下の世界で「軽武装経済国家」として生きる路線を歩みだした。第一の転機が一九五四年に成立した鳩山一郎政権下の選択であった。吉田外交からの脱却を目指 した鳩山一郎政権は、重光葵外相や石橋湛山に支えられて、及び腰ながらも一九五五年のバンドン会議への参加を契機とするアジア復帰、周恩来・高崎辰之助会 談による日中貿易の再開、日ソ国交回復と外交の視界を広げていった。「対米自主外交」というには限界があり、あくまでも「日米同盟を基軸とするアジア復 帰」ではあったが、新たな展開でもあった。

そして迎えた「六〇年安保改定」、全国で五八〇万人が安保反対デモに参加したという六月一五日には東大の女子学生樺美智子さんが国会前で死 亡するという惨事までが発生した。「大学から国会へ」、異様な熱気が日本を包み込み、若者の多くが丸山真男の『日本の思想』(一九六一年、岩波新書)に展 開された、「である論理とする論理」を心に刻み、市民運動の証として「行動する論理」に突き動かされていた。岸信介をはじめとする日本の当時指導者も、安 保反対運動の側にあった人間も、少なくとも米国との同盟関係の適正化に強い関心を抱いていたともいえる。

誤解してはならない吉田外交の本質は何か。彼は米国との協調を重視したが、決して米国への過剰依存や従属を是とするものではなかった。「独 立心なくして国家なし」、それこそが吉田茂の真意であり、求め続けたものであった。そのことは吉田の回顧録や吉田の周りにいた人たちの証言が明らかにして いる。六〇年安保の改定までは、駐留米軍基地に関する「事前協議制」の導入など対等の軍事同盟に進化させる意思を後進の指導者たちは少なくとも受け継いで いた。だが、一九六七年に吉田が死去し、吉田の姿が遠ざかるにつれ、吉田外交を曲解したエピゴーネンとしての「吉田主義者」が跋扈し始めた。「米国との関 係を見直そう」という意思は、七〇年安保の段階で国民意識からも消失していた。

確かに、七〇年安保は「全共闘運動」という形で、さらに過激な新左翼によって盛り上がったかに見える。しかし「大学解体」という闘争は、大 学自体が闘争の場として燃焼しただけで、決して国民運動として国会には向かわなかった。日本の国際関係を再構築する試みもなされなくなっていった。七〇年 安保と大阪万博が同じ年であったことは象徴的であった。政治は静かに後退していった。背景には「所得倍増」「高度成長」という時代潮流があり、国民も「経 済の季節」に酔いしれ、政治には燃焼しなくなっていった。六〇年安保の頃の一人当たりGDPは約500ドルであったが、一九六六年に一〇〇〇ドルを超え、 一九八一年に一万ドルを超した。正に「黄金の七〇年代」であり、ピンクレディーが阿久悠の歌で踊っていた。

それでも、外交に関して言えば、永井陽之助のような政治学者が、考える座標を提示していた。『平和の代償』(中央公論社、一九六七年)に収 録された「日本外交における拘束と選択」が中央公論に掲載されたのは一九六六年三月号だった。この論稿で永井は「日本は、敗戦後、選択によってではなく、 運命によって、米ソ対立の二極構造のなかに、編みこまれた」という認識に立ち、「多角的オプションの外交戦略」を展開するために、日本外交の中期構想を 「中国との国交回復と正常な外交樹立」とした。冷戦下という拘束の中で、「敵対者の攻撃を抑止し、行動選択の自由を確保する」ために、日本は「こうかつ さ」と「弱者の恐喝」というべきしたたかさを探究すべきことを示唆していた。

一九七〇年代に入り、ニクソンショック、米中接近という新たな局面を迎え、永井の洞察が光ったのが「同盟外交の陥穽」(中央公論、一九七二 年一月号)であった。それから四〇年経っても「米中の頭越し接近」に脅え続ける日本外交の構造に変わりがないことに苦笑を禁じえないが、冷戦という拘束の 中で真剣に日本の選択の自由を拡大しようと、「安全(福祉価値)」と「独立(名誉価値)」の二律背反に苦しみながら構想力を練磨した永井の知的しなやかさ には敬服せざるをえない。

驚いたことに、管直人新首相の所信表明演説でも、永井陽之助という名前が学生時代に国際関係論において影響を受けた人物として言及された。 「私は若い頃、イデオロギーではなく、現実主義をベースに国際政治を論じ、『平和の代償』という名著を著された永井陽之助先生を中心に勉強会を重ねまし た」というもので、現実主義に立った外交・安全保障政策を展開する意思を語る理論的正当性を語るものであった。だが、もし現実に直面している状況を不変の 与件として受け入れ、何も変えようとしないことを「現実主義」とするならば、それは明らかに永井陽之助への誤った理解である。政治的現実主義の重みを見 失ってはならない。

それにしても、「冷戦」という拘束から解放されて二〇年、永井陽之助が志向していた「国際状況の多元化」が現実のものとなり、まさに「多角 的オプションの外交戦略」が可能な時代が到来しているのに、日本外交は柔らかい選択肢を志向することなく、冷戦型視界の金縛りにあっていることに気付くの である。知的緊張に満ちた国際政治学者の不在とメディアの低調はあきれるばかりである。

本当になすべきこと—日米同盟の段階的「進化」を求めて

日米同盟は安易な「深化」ではなく、深い洞察にたって「進化」させねばならない。我々は今、そのことを思慮深く構想すべきである。改めて、八ヶ月の普天間迷走の教訓を踏まえ、日本が心に期すべき同盟の進化とは次のような骨格での段階的アプローチであると考える。

第一段階:プラットフォームとしての「日米戦略対話」の実現

普天間の移設を巡る実務者レベルでの協議ではなく、外務・防衛だけではない経済閣僚を含む閣僚レベルでの日米戦略対話の仕組みを実現し、経済と防衛 の二本立てでの包括的同盟関係の未来像を構築すべきである。実は、日米同盟は軍事片肺同盟であり、経済についてはFTA(自由貿易協定)一つ実現していな い。EPA(包括的経済協力協定)など将来のアジア太平洋地域連携の先行モデルとなるような経済産業における日米連携の深化を図り、同時に防衛安保につい ては、新しいアジア情勢を踏まえて「過剰依存構造」を解消する方向での見直しを図る。

第二段階:在日米軍基地の「抑止力」の吟味と基地の「共同使用」化への移行

日米戦略対話での課題として、一九九三年にドイツがすべての「在独米軍基地」の使用目的と現実的機能をテーブルに乗せ、米軍基地の段階的縮小と地位 協定改定を実現したごとく、すべての米軍基地・施設を「抑止力」の視点から吟味し、「地位協定二条三」にあるごとく、目的を終えたと合意できる基地・施設 の返還を実現する。その際、「例えあいまいであっても米軍の抑止力がなければ極東情勢の中で不安である」と感じる日本国民が多いのであれば、まずは可能な 限り米軍基地を「米国側が占有権を持った基地」から「日本側が管理権を持ち、抑止力のために米軍が駐留している共同使用基地」(地位協定二条四-b)に移 行させることを進める。世に「シンガポール方式」」といわれ、米軍がフィリピンからの基地撤退を余儀なくされた時、東南アジアに軍事的空白を作らないため に、管理権はシンガポールが確保するが米軍が共同使用という形で駐留する形をとった。

明らかに現在の地位協定には、占領軍時代の基地のス テータスを延長した性格が残っており、日本側が主権を有する形への変更が必要である。実は五月末に発表された普天間問題についての「日米共同声明」におい て、「米軍と自衛隊の間の施設の共同使用を拡大する機会を検討する意図を有する」という項目が記されたが、これは今後の見直し論議において重要な一歩とい える。米軍の抑止力に期待する人でも、主権回復の重要性は理解できるはずである。

第三段階:「基地無き日米同盟」と適正な自主防衛構想の確立

次のステージとして、東アジアの安定(例えば、朝鮮半島の統一)を見極めながら、駐留米軍のハワイ、グアムの線までの撤退というシナリオの実現を図 る。但し、「極東有事」に対応するために、「緊急派遣軍」のような兵力を抑止力として維持するために日本側が一定の機関、一定のコスト分担をするというの も、選択肢としてありうる。「基地無き安保」への進化である。

その方向に向けて、当然のことながら「日本の防衛は日本自身が責任を持つ」という所謂「自主防衛」への具体的構想が求められる。軍事大国へ の誘惑を絶ち、近隣諸国にとって軍事的脅威とならないという専守防衛に徹したシナリオでなければならない。その前提として、東アジアの平和構築の基盤とな る「北東アジアの非核化条約」などを主体的に働きかける粘り強い外交戦略が必要となるであろう。

心すべきは、冷戦期を前提とする同盟外交の枠組みをそのまま温存すれば日本が安全と安定を確保できるという時代は確実に終わりつつあるとい うことである。古今東西、同盟外交は敵対する敵陣営が明確なときに機能するものであり、敵概念が錯綜とした「全員参加型秩序の時代」においては柔らかく設 計されねばならないからである。

海外を動いていると「中国の台頭」との対照において日本の存在感の低下について質問される機会が増えてきた。様々な理由はあるが、日本人と して注視すべきことは、中国の強勢外交の背景に横たわる歴史意識における自信である。アヘン戦争以来一七〇年、中国は列強の植民地主義の生贄とされて蔑ま れた時代もあったが、辛亥革命、中華人民共和国成立を経て、一九九七年の香港返還に至る過程で、一歩ずつ民族の自立自尊を回復してきた。戦後日本に失われ てきたものは、正に自立自尊の意思である。我々がなすべきことは、今のままの米軍基地を前提として「良好な日米関係」なる言葉の交換に自己満足するのでは なく、基地を削減しつつ東アジアの安定と真に信頼できる日米同盟に進化させることなのである。

連載「INSIGHT」THE WORLD COMPASS 2008年10月号

資源大国日本へのパラダイム転換—海洋開発の重要性   寺島実郎

「日本は国土の狭い資源小国だ」というのが、大方の日本に関する認識である。確かに、日本の国土面積37.8万平方キロメートルは世界61番目にす ぎない。しかし、排他的経済水域の面積では447万平方キロメートルと第6位の海洋国家である。固定観念を脱し、海洋の可能性に眼を向けるならば、日本は 資源大国になり得る可能性を秘めているといえよう。

最近の海洋調査の成果によれば、日本の海底には、希少金属からエネルギー資源まで驚くほど多くの資源が眠っていることが確認されつつある。世界潮流 として資源ナショナリズムが高まる中で、自国の資源にしっかりと眼を向け、技術力を注入して探査・採鉱していくことは、21世紀の日本の創生にとって極め て重要なのである。

特に、日本近海には海底火山活動領域が多数存在し、銅、鉛、亜鉛、金、銀などの金属資源の宝庫といわれる「熱水鉱床」が次々に発見され、海外企業に よる海底鉱区の申請もされつつある。また、コバルト、マンガンなどが豊富に含まれている鉱物資源、さらにはメタンハイドレードなどエネルギー資源の埋蔵も 確認されている。

日本も「海洋基本法」を2007年4月に成立させ「総合海洋政策本部」を内閣府に設置したが、従来の政策の寄せ集めではない新たな総合的海洋戦略の 構築とタイムリーな実行が問われている。経済セクターも強い問題意識を持って、結束・連携してコンソーシアム型のプロジェクトを具体化させるべき局面にあ る。戦略研究所もJAPIC(日本プロジェクト産業協議会)の共同研究に参画しており、海洋開発の可能性に挑戦していきたい。