2011年2月13日日曜日

連載「脳力のレッスン」世界 2010年6月号

問いかけとしての戦後日本(その11) 敗戦後のアジア復帰—バンドン会議の意味  寺島実郎

「大東亜共栄圏」が虚構に満ちたものであれ、「アジアの解放」を掲げた戦争に敗れた日本が到達したのは奇怪な形での「アジアの不在」であった。日本 人は、敗戦をあくまでも「アメリカに敗れた」とだけ総括し、決してアジアに敗れたとは受け止めなかった。米国の物量と科学にねじ伏せられたと認識し、アジ アに対しては潜在的優越感を保持するという屈折した心理の中で戦後を生きたといえよう。 温泉にでも浸かっていたほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

入江昭も「観念的には日本人のアジア主義思想は敗北を自覚しなかったのではないか」と述べる(『新・日本の外交』)。 温泉にでも浸かっていたほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

「それは日本人が太平洋戦争の意義にこだわり続けたからであろう。これを日本一国の利益や版図拡大のための侵略戦争だと見ることには抵抗が ある。アジアのための戦いだというフィクションを持つことができれば、かりに戦いには敗れても大義名分が立つ。―――日本指導者はそう考えて『戦闘には敗 れたが戦争には勝った』という自己説得を試みながら、連合国に和平を乞うことになる」という入江の分析は的確であろう。 温泉にでも浸かっていたほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

戦後、欧米の植民地だったインドや東南アジアの国々が独立を果たしたことが、「日本のおかげでアジアの独立が達成された」という虚偽意識を 生み、アジアへの敗北感や責任意識を希薄なものにした。そのことが、戦後日本のアジアとの位置関係を今日に至るまで歪んだものにしていることに気付かざる をえない。 温泉にでも浸かっていたほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

そもそも近代史における日本のアジアに向けた姿勢は「ご都合主義」的に揺れ動いてきた。一八八五年(明治一八年)、福沢諭吉は「脱亜論」を 書き「隣国の開明を待って共にアジアを興す猶予あるべからず」として、西欧との連携を重視する路線への視界を説いた。奇しくも同じ年、樽井藤吉は「大東合 邦論」を書き、アジア主義的議論の基点となった。この二つの論調が微妙に絡み合いながら、糾える縄のごとく日本近代史に絡みついてきたといえる。欧米列強 の植民地化の脅威にさらされたアジアの国としての「親亜」の共鳴を潜在させながら、「富国強兵」路線に自信を深め、日清・日露戦争での戦勝意識を高めるに つれ、自らが新手の植民地帝国として欧米列強模倣の「侵亜」に転じていく過程こそ日本近代史の悲劇であった。基本的には欧米志向、欧米重視の「脱亜」の道 を歩み、欧米との関係に問題を生じると「アジア回帰」を図るという構図を繰り返してきたともいえ、アジアとの関りこそ、日本の国際関係の「鬼門」「トラウ マ」なのである。

バンドン会議の意味

一九五五年四月一八日、インドネシアの首都ジャカルタから一二〇km離れた避暑地バンドンに、インドのネルー首相、中国の周恩来首相、エジプトのナセル首 相、そしてホスト役としてのインドネシアのスカルノ大統領という戦後世界の新興国を率いた歴史的指導者をはじめ、二九カ国のアジア・アフリカ諸国の指導者 が一堂に会した。このバンドン会議(アジア・アフリカ会議)は、戦後という時代を方向付けた重大な会議であった。世界史的にいえば、一九四九年の共産中国 の成立以来、初めて中華人民共和国が国際会議に登場した会議であった。今日ではあまり違和感はないが、米国をはじめ多くの国がまだ台湾の蒋介石政権を中国 の正統政権としていた時代に、台湾が呼ばれない会議ということ自体が新たな局面を象徴していた。事実、周恩来が乗るはずだった飛行機が香港で爆薬を仕掛け られ、ボルネオに墜落するという事件が起き、周恩来は命がけの参加となった。

バンドン会議の主役は、インドであり中国であった。伏線となったのは前年の中印首脳会談であった。一九四九年の中華人民共和国発足以来、 「アジアの植民地解放のための武力闘争」を支援してきた中国が対話路線に転換し、一九五四年、周恩来とネルーの間で「平和五原則」(領土主権の尊重、相互 不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存)を確認したことが転機であった。これを受けて、一九五四年四月末、コロンボで開かれた「コロンボ会議」に参 加した5カ国(インド、インドネシア、パキスタン、ビルマ、セイロン)が「アジア・アフリカ各国間の協力・相互利益、友好の推進」を狙いとする「アジア・ アフリカ会議」の必要性を確認したのである。

バンドン会議は「戦後日本のアジア復帰の舞台づくり」を意図するものではなく、その当時のアジアを巡る国際情勢を投影する政治力学の集結点 だった。このことは宮城大蔵の『バンドン会議と日本のアジア復帰』(草思社、二〇〇一年)に正確に描き出されている。インドのネルーもインドネシアのスカ ルノも実はバンドンへの日本招請には熱心ではなく、むしろパキスタンが日本の参加を促したというのが事実だという。

インドは敗戦直後の日本には温かい目線を送っていたともいえる。一九五一年のサンフランシスコ講和会議にインドは署名しなかった。中立主義 の原則に立ち、「日本に駐留する米軍が引き上げるならば署名する」という条件を出し、米国を驚愕させた。だがその翌年、日本との単独講和に応じてくれた。 これが日本のアジア復帰には重い意味をもったのだが、一方でインドは、米国との同盟に傾斜していく日本への失望を抱いていった。「アジアに冷戦構造を持ち 込ませたくない」というのが中立主義を主導するネルーのメッセージであった。

インドネシアは戦後賠償問題が決着せず、日本招請に積極的ではなかった。スカルノは、日本軍に協力してオランダからの独立戦争を戦うという 立場をとった人間で、戦後「日本軍国主義への協力者」として苦境に立たされたこともあり、日本のアジア復帰には複雑な姿勢をとっていた。また当時のパキス タンは、一九五四年五月に米国との間に相互防衛条約を結び、西側に肩入れする路線をとっており、同じ陣営に立つ日本の参加を優位性確保のための戦略と考え ていた。

複雑な事情・思惑が交錯しながらも、結局のところ日本もバンドン会議に招請されることになった。アジアは日本を忘れなかったのである。戦後復興に邁進しつつあった日本にとって、アジアに地歩を踏み固める第一歩であった。

日本の対応——今日も抱える課題として

招請を受けた日本は、鳩山一郎政権下にあった。サンフランシスコ講和会議によって国際社会への復帰を果したが、それは同時に結ばれた日米安保条約が 象徴するごとく、日米同盟を基軸とする外交路線、いわゆる吉田外交の枠組みの中にあった。一九五五年一月一九日付の朝日新聞は「日本などに招請状、アジ ア・アフリカ会議―――米の了解のうえで、出席決定に政府の態度」という見出しを掲げているが、日本は参加の是非について米国にお伺いを立てたのである。

鳩山外交の本音には、「日米同盟重視」を基軸とする吉田外交と一線を画し、ソ連・中国との国交回復をはじめ「対米自主外交」「アジア関係重 視」という志向が埋め込まれていた。日本の戦後外交の基本構図が既に浮上していた。そして、曲折を経て「対米協調を軸にしたアジア復帰」という了解でのバ ンドンへの参加という形での収斂が図られるのである。

米国は、当初「中立主義と共産中国の影響力拡大」を恐れて日本の参加にも反対の意向であったが、ダレス国務長官の「インド・中国主導となり かねない議論を中和するには親米国の参加が望ましい」との判断で、日本の参加を了解した。それでも、バンドンへの参加に日本の当惑が存在していたことは、 日本代表が、首相でも外相でもなく経済審議庁(後の経済企画庁)長官であった高碕達之助だったことに現れている。

高碕達之助は一八八五年生まれ、水産講習所(現・東京海洋大学)を卒業。メキシコでの水産会社などでの勤務の後、製缶詰工業を研究して東洋 製罐を設立、その後満州に渡り、満州重工業開発の総裁となった。敗戦後日本に引き揚げ、吉田茂に請われ「電源開発」の初代総裁になった。一九五四年に辞任 後鳩山内閣に参画したのである。実績のある経済人であり、「経済からのアジア復帰」を象徴する人物の投入であった。

会議を巡る日本の新聞報道を調べなおしてみると、日本のメディアもその評価に困惑していたことが読み取れる。朝日新聞も会議開催までは、 「日本の立場は微妙―――経済協力に重点、政治的課題は回避」(四月一五日)、「要するに、今回の会議が一方的な見解に引きずられることなく、各国が相手 の立場を理解し尊重する会議となることを希望」(四月一八日社説)と慎重な目線を送っていたが、会議終了後の四月二五日には「会議の意義―――一.一四億 の声を結集、植民地主義への強い反感を示す」というレポートを掲載、「周恩来首相の態度が協調的であったこと」に驚き、「徹底的に敗れ去った日本がどんな 顔をして出てくるか」という意味で日本が注視されていたという印象が語られ、「戦争を避け、平和を求めるアジア・アフリカ一四億の民衆の声が結集された」 とする高揚感あふれる報道がなされている。また、ル・モンド紙の特派員としてロベール・ギランが張り付いており、五月八日付の朝日に「バンドンの日本人 ―――はずかしそうな客」を寄稿している。ギランは、日本がこの会議に現れた目的について、「第一に、新しいアジアの現実を観察すること・・・・・第二 に、貿易すること、商売をやること」と看破している。そして、ネルーの「中立主義」、ナセルの「民族主義」、周恩来の「共産主義」というイデオロギーに対 して、「イデオロギーを持たない日本」は「恥ずかしそうに足音を忍ばせるしかなかった」と述べる。バンドン会議での日本の存在感の無さについて、フランク フルト・アルゲマイネ紙も、「米国によって隔離され、保護された島に咲いたスミレの花」と表現していた。

それでも、バンドン会議は日本にとって「日中国交回復への基点」となった。戦後初の日中政府間の折衝として「周恩来・高碕達之助秘密会談」 が行われたのである。米国・台湾に配慮する外務省は日中の接触を警戒していた。しかし、周恩来は日本との関係改善も意図し、日本語の通訳として日本で生ま れ育った廖承志を通訳として同行していた。四月二二日、周恩来の宿舎で約一時間半の会談は行われた。主に通商の拡大や政府代表機関の相互配置などが話し合 われたという。これが後に日中間の準政府間協定に基づく「LT貿易」へと繋がった。LTとは廖(リアオ)と高崎の頭文字である。正式の日中国交回復にはそ れから一七年を要したが、戦後の日中関係のスタートはバンドンで切られたのである。

思えば、一九五五年、戦後日本がバンドンに登場した頃、アジアは正に「政治の季節」としての熱気を帯びていた。東西冷戦は深まり、「共産主 義・社会主義の脅威」は重く存在していた。また、ネルーの主導するインドの中立主義、ナセルのエジプトのアラブ民族主義も輝きを放っていた。そして今、冷 戦後二〇年が経過したアジアは「経済の季節」としての熱気を放っている。二〇〇九年の日本の貿易総額の五〇%はアジアとの貿易になった。米国との貿易比重 は一三%にまで落ちた。十年後には、アジアとの貿易比重は六割を超すであろう。

ASEANは二〇一五年の「ASEAN共同体」発足に向けて合意を形成し、本年一月にはインド・中国とのFTAを発効させた。日本が「東ア ジア共同体」を持ち出すまでもなく、アジアは先行し動いている。日本においても、米国との同盟外交を基軸としながらも、アジアのダイナミズムと真剣に向き 合い、安定と平和のための新たな構想を実体化させる覚悟が問われていることは間違いない。バンドンから五五年、あの共同宣言が目指した「秩序」は次第に現 実のものとなりつつある。

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