2011年2月13日日曜日

連載「脳力のレッスン」世界 2010年12月号

日蘭関係の原点、リーフデ号の漂着とは何か—一七世紀オランダからの視界(その2)  寺島実郎

一六〇〇年(慶長五年)四月、豊後(現在の大分県)の臼杵湾の海岸に一隻のオランダの商船リーフデ号が漂着した。一六〇〇年といえば、その年の九月が「関が原の戦い」であり、日本史の転換点ともいうべき年に不思議なオランダからの来訪であった。

オランダ東インド会社(一六〇二年設立)は、まだ存在しなかったが、ロッテルダムの企業家ファン・デル・ハーヘンが主たる出資者となり、ア ジア貿易開拓を狙って五隻の商船団が編成された。オランダを出航したのが一五九八年六月、実に二十二ヵ月の航海を経た漂着であった。リーフデ号には出航時 に約一一〇人が乗り込んでいたが、漂着時の生存者はわずかに二四名で、漂着後も数日で六名が死んだという。生き延びた者の中に英国人のウィリアム・アダム ス(後の三浦安針)とオランダ人のヤン・ヨーステンがいた。このヤン・ヨーステンこそ、江戸で彼が居住した場所にその名前に由来する「ヤエス(八重 洲)」(東京駅の八重洲口)という地名を残している。

この航海はあまりにも悲劇に満ちた冒険であった。大西洋を南下して南米大陸の南端マゼラン海峡を回り、チリーを経て、なんと太平洋を横断し て日本に辿り着いたのである。船団を形成した五隻の船の名前がこの航海への思いの熱さを象徴しており、その悲劇的結末を考えると何やら皮肉でもある。 「ホーペ(希望)」「リーデフ(愛)」「ヘーロフ(信仰)」「トローウ(誠実)」「プライデ・ボートスハップ(歓しき使)」というのが五隻の船名だが、次 々と災禍が船団に襲い掛かった。

荒れ狂う大西洋の嵐、熱帯性の気候で衰弱する乗組員に襲い掛かる厄病、不足する食糧で憔悴した船団がマゼラン海峡に辿り着いたのは一〇ヵ月 後の一五九九年四月であった。冬場のマゼラン海峡の寒風と飢餓で多くの乗組員を失い、ヘーロフ号は航行を断念し、本国に帰った。五隻のうちヘーロフ号だけ が再び故国を見た唯一の船となった。

マゼラン海峡を越えたものの、プライデ・ボートスハップ号は多くの乗組員を失い疲労困憊でチリーのバルパライソ港に入ったところをスペイン 艦隊により没収された。トローウ号はポルトガル船によって撃沈された。なんとか生き延びた旗艦ホープ号も、南緯三七度のセント・マリア島で食糧を調達しよ うとしたが、司令官や船長をはじめ多数の船員が島民の反発を受けて虐殺された。同じくリーフデ号もこの島での食糧調達を試みたが、上陸した船員はすべて殺 戮されてしまった。あまりにも過酷な体験を受けながらも二隻の船はチリー沖の太平洋上で邂逅、協議の結果日本を目指すことにした。だが、ホープ号は消息を 絶ち、リーフデ号だけが日本に辿り着いた。

オランダ船漂着の情報は、秀吉亡き後大阪城西の丸で実権を握りつつあった徳川家康に伝えられ、堺に回航されたリーフデ号の乗員を代表してア ダムスとヨーステンが大阪に呼び出された。通訳に当たったイエズス会の宣教師が敵対する新教徒の国オランダからの漂着者を「海賊」と決めつけ、死罪にすべ しと主張したにもかかわらず、家康はリーフデ号の乗員を助け、江戸に赴くことを命じる。リーフデ号は三浦半島の浦賀に回航されるが、修繕不能となるまで破 損が進み、浦賀で廃船となった。それからの乗組員の運命を含め、この小説も顔負けの壮大な史実を深く考えてみたい。

漂着ではなく意図された日本来訪

「リーフデ号の漂着」と言ってきたが、「漂着」という表現は適切ではないであろう。意図された日本来訪だったからである。そもそも何故リーフデ号は 船出したのか。そして何故、喜望峰を回る「東回りルート」のアジア航海ではなく、マゼラン海峡から太平洋を渡る「西回りルート」を採ったのか。

「大航海時代」はスペイン・ポルトガルが先行した。一五世紀のはじめから、ポルトガルはエンリケ航海王子(一三九四~一四六〇)の指揮の 下、西アフリカ航路の探検と大西洋諸島の発見と植民地化を進めた。一四四一年からは奴隷貿易が始まり、砂糖生産の担い手として拡大の一途を辿った。これに 続く、コロンブスの米大陸発見(一四九二)、バスコ・ダ・ガマのインド航路発見(一四九八)、マゼランの世界周航(一五二二)といった大航海時代を彩る一 五世紀末から一六世紀にかけての世界史的挑戦の背後には海洋帝国化するスペインとポルトガルが存在した。

一四九三年五月、ローマ教皇によって大西洋上の経線を境界として東はポルトガル、西はスペインと領有権を定める詔勅が出された。この決定は 翌年には境界線を西経四六度三〇分まで西に移動するトルデシリャス条約によって修正されたが、それにしても世界を二分するという勝手な決定がローマ教皇の 権威によってなされるという驚くべき時代であった。一六世紀に入り、ポルトガル・スペインの攻勢は加速する。ポルトガルがアジア経略の基点インドのゴアに 艦隊を派遣して制圧したのが一五一〇年だった。その後、マラッカ、ジャワ、中国、日本へと東進を続け、アジアに旗を立てていった。それと並走したのがイエ ズス会の十字架であった。

当時のオランダは北欧とイベリア半島を結ぶ仲介貿易で力をつけ始めた新興国であった。「鰊がオランダを造り、オランダが世界貿易を造った」 という言葉があるが、北海で捕った鰊を塩漬けや酢漬けにしてスペイン・ポルトガルに売り、その代金でアジアからスペイン・ポルトガルが持ち帰っていた胡椒 などの香辛料を仕入れて北欧に売るという仲介貿易で財をなしていったのである。新興国オランダにとってスペイン・ポルトガルの既得権益に食い込むことは容 易ではなかった。「スペイン・ポルトガルに邪魔されずにアジアに至る新航路はないのか」それがマゼラン海峡を越えて太平洋に出る試みであった。

それにしてもリーフデ号は何故日本を目指したのか。船に積み込んだ毛織物・羅紗の市場としての日本に期待したことと、日本の銀を入手し、そ の銀でアジアの香辛料を手に入れて帰ることを意図したといえる。東インドやモルッカ諸島などの熱帯では暑すぎて毛織物や羅紗は好まれず、日本ならば戦国武 将の陣羽織・合羽・胴服などへの需要が期待されると判断したようだ。また、リーフデ号が保有していた地図「南洋針路図」(東京国立博物館蔵)に石見銀山の 所在地が明記されており、銀の入手を意図していたと思われる。つまり、かなり正確な日本についての情報を入手していたということである。これには伏線が あった。ポルトガル船で来日した経験のあるヤン・リンスホーテンが一五九三年に出版した『ポルトガル人の東洋航海記』などを参考にしていたようだ。

この頃のオランダのアジアへの熱気を象徴する試みがなされている。一五九三年から数回にわたり中国・日本・アジアに向う航路として「北方航 路」の開拓に挑戦したというのである。驚くべきことだが、オランダから北上してバレンツ海から北極海を西に進み、ユーラシア大陸の北方海域をベーリング海 峡に至りアジアに向うというものであった。一五九五年にはノルウェイの北端から一〇〇〇キロ以上も北極圏に近づいた北緯八二度まで進んだものの、真夏にも かかわらず雪と氷に阻まれて航行を断念している。この航海にもウイリアム・アダムスが参加していたという。

リーフデ号が豊後の臼杵海岸に辿り着いた時、既に豊後に隆盛を誇ったキリシタン大名大友宗麟は一五八七年(天正一五年)に死去し、後を継い だ嫡男大友義統は、一五九三年(文禄二年)に朝鮮出兵における不始末を理由に豊後の国を没収され、豊後の大友家支配は終わっていた。「オランダ船漂着」の 情報はただちに長崎奉行寺沢広高に報告され、奇しくも当時のイエズス会の布教活動の中心であった臼杵にいたポルトガル人のパードレ(宣教師)が通訳として 駆り出されたのである。

この間の事情を理解するためには、イエズス会の日本での布教活動の歴史を知らねばならない。イエズス会がローマ教皇によって修道会として承 認されたのが一五四〇年、その翌年には東洋での布教に使命感を抱いたスペイン人フランシスコ・ザビエルがインドを目指しリスボンを出発した。彼は一五四九 年にマラッカから鹿児島に上陸、これが日本への「キリスト教伝来」とされる。その後山口、京都と布教活動を続け、一五五一年に豊後府内(現代の大分)から インドのゴアに帰った。半世紀後、正にその豊後にリーフデ号が来たのである。

家康の深慮遠謀がもたらしたもの

徳川家康は何故アダムスやヨーステンの命を救い、登用したのであろうか。前述のごとく通訳を務めたイエズス会宣教師の死罪具申にもかかわらず、家康 は二人の話に耳を傾けた。そして、彼らが布教目的ではなく専ら交易を求めていることや、ポルトガル・スペインと新興のオランダ・英国の対立など複雑な欧州 の政治力学を見抜いた。家康はリーフデ号を浦賀に回航することと二人に江戸に来ることを命じ、没収したリーフデ号の積荷の代金として五万レアールを支払っ たという。積荷の中には青銅の大砲が一九門と小銃五百門と砲弾・火薬などがあったが、これらは家康によって関が原の戦いにも使われたという。浦賀は、小田 原の北条氏が養成していた水軍(向井水軍)を引き継ぐ形で徳川の水軍の根拠地となっていた。家康は浦賀を関東の貿易港として育てる考えを抱き始めていた。 後に「ペリー来航」の舞台となる浦賀であるが、実は二五〇年前の歴史のDNAのようなものが埋め込まれていたとも言える。

アダムスとヨーステンの二人は徳川家康の外交や航海術の顧問のような役割を果すことになり、家康は一六〇一年(慶長六年)に朱印船制度の確 立を決意、一六三五年(寛永一二年)に幕府による海外渡航禁止までに三五六隻もの朱印船がアジアの海に向ったという。日本の「大航海時代」とでもいうべき 時代が三〇年以上も存在したのだ。アダムスとヨーステンも朱印状を得て、安南(ベトナム)やシャム(タイ)に向った。アダムスは平戸で(一六二〇年)、 ヨーステンは安南からの帰途に南シナ海の島で(一六二三年)に生涯を閉じたという。家康には重用されたものの秀忠の時代になって(一六一六年家康死去)活 躍の場を失っていった。ただ、「鎖国」といわれた時代に、何故オランダだけが通商関係を維持できたのかを考える時、リーフデ号の存在に気付くのである。

先日、大分訪問を機に臼杵に足を伸ばした。東京大学の岡田章雄教授の著作『三浦按針』(一九四四年、創元社)の影響もあり、リーフデ号の漂 着地は臼杵湾の黒島というのが通説とされている。この黒島に小さな船で渡り、三浦按針上陸記念碑の場所に立ち、小さな島を散策して太平洋を見渡した。遠浅 の美しい海であった。黒島よりかなり南の地点を漂着地とする異説があることも知ったが、四一〇年前に豊後海岸にオランダ船が漂着して府内に回航されたこと は事実である。それは単なる一隻の商船の漂着という出来事を超えて、日本近代史にまで繋がる「宿縁」を思わせる。そしてこの大分の海が、私自身がオランダ で何度か眺めたことのあるあの大西洋の海と繋がっているという陳腐なまでの事実に心が高揚した。

リーフデ号の船尾を飾ったエラスムス像だけは現存し、国宝として国立博物館にある。栃木県足利群吾妻村(現佐野市)の曹洞宗龍江院という寺 に「朝鮮伝来の貨狄さま」とされた謎の木像が大正時代の末期まで安置されてきた。一九二四年にバチカンの世界宗教博覧会に「聖人像」として出展されたこと で関心を呼び、一六世紀オランダの人文学者エラスムスの像であり、リーフデ号の船尾像であったことが検証されたのだ。この像が体験した四〇〇年という時間 に胸が熱くなる。

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