2011年2月13日日曜日

連載「脳力のレッスン」世界 2010年7月号

咸臨丸一五〇周年に想う—日米関係の位相の変化

万延元年(一八六〇年)、江戸幕府の遣米使節団が太平洋を渡った。日本政府の初めての正式な訪米使節であった。その一八五八年に井伊直弼が結んだ 「日米修好通商条約」の批准書交換が目的で、正使新見豊前守正興、監察小栗上野介をはじめとする一行七七人であった。この使節一行は、米国のフリゲート艦 ポウハタン号(二四一五トン)に送り届けられて太平洋を渡ったのだが、一行を「護衛・随行する」目的で派遣されたのが威臨丸であった。勝海舟、福沢諭吉、 ジョン万次郎といった日本近代史を彩る人物を乗せた六二五トンのこの小船が太平洋を「日本人だけで」往復し、「アメリカを見てきた」ことは、やはり大きな 意味を持つものであった。二〇一〇年四月、私は威臨丸から一五〇年目のサンフランシスコに立ち、日米関係の位相の変化に思いを巡らせてきた。

咸臨丸とは何だったのか

一八五四年、幕府はスクリュー式のコルベット軍艦二隻をオランダに発注した。ペリー浦賀来航の翌年であった。当初は帆船を発注したのだが、三本マス トを残しながら蒸気エンジンでも動くスクリュー式で、帆走・汽走併用型に変更された。完成した船が「ヤッパン号(日本号)」と名づけられ、ロッテルダムを 出航したのが一八五七年三月、オランダ領だったインドネシアのバタビア(現ジャカルタ)を経て長崎に回航されてきた。幕府にとっては、一八五五年にオラン ダ国王から贈られた「観光丸」に次ぐ、二隻目の洋式軍艦であった。

咸臨丸の船体の大きさは、長さ三六・六m、幅八・六mというから、こんな小さな船に武士一九人、水夫六五人、大工鍛冶二人の日本人八六人 と、事情あって乗船することになったロイテナント・ブルーク大尉他米海軍の軍人一〇人の合計九六人もの人間が乗って太平洋を渡ったのだから驚くほかない。 事情とは日本近海に測量目的で来ていた米海軍の船が座礁・沈没し、生き延びた米海軍軍人が帰国の機会を待っていたということで、建前では日本側の配慮で同 乗させたことになっているが、実際は遠洋航海の実績もない日本の乗員にとっては有難い助っ人であった。「日本人だけで太平洋を渡った」という通説も、記録 を調べてみると虚構であり、瀬戸内の塩飽諸島の水夫達を調達して乗船させていたものの、福沢の『福翁自伝』に「牢屋に大地震の如し」と表現されているよう な北太平洋の荒れ狂う波風に苦しめられ、日本人水夫が全くお手上げだった中で、一〇人の米海軍の軍人が活躍して苦難を乗り切ったというのが実態だった。た だし、帰途の復路については、日本人だけの操舵で太平洋を渡ったことは間違いない。

咸臨丸が浦賀を出航したのは一八六〇年二月一〇日(新暦)で、サンフランシスコ着は三月一八日であった。修理を終えて咸臨丸がサンフランシ スコを離れたのは五月八日、滞在期間は約五〇日間であった。その間、一一日遅れて三月二九日に到着した正使一行が四月七日にワシントンに向かうためパナマ に立つのを見送った。咸臨丸に関し、「勝海舟や福沢諭吉もワシントンに行った」と思われがちだが、彼らはサンフランシスコにだけ行ったのである。福沢は七 年後の一八六七年(慶応三年)再び訪米し、ニューヨーク・ワシントンを訪れたが、万延元年の遣米使節においては、サンフランシスコだけを見て帰ってきた。 それでもこの時の勝三七歳、福沢二七歳、若い目線で目撃したサンフランシスコの意味は重かった。

サンフランシスコは一七七六年にフランシスコ派のメキシコ人伝道師によって建設された町であったが、一八四八年に近郊で砂金が発見されてか ら「ゴールドラッシュ」が起き、人口五〇〇人の町が、咸臨丸が訪れた一八六〇年には五・六万人の街へと変身していた。この新興の都市を日本の若きサムライ たちは、カルチャーショックを受けながらも恐るべき好奇心で見て回った。市庁舎、電信施設、造船所、砂糖工場、メッキ工場などに目を見張り、ホテルに絨毯 が敷き詰められていることや女尊男卑の風俗に驚嘆している。

福沢諭吉が米国の建国の父ともいえる「ワシントンの子孫はどうしているのか」と聞き、「知らない」といわれ、「源頼朝、徳川家康のような存 在のはずの子孫が・・・・・」といぶかる姿が 『福翁自伝』に描かれているが、「民主主義の国アメリカ」の衝撃は大きかったであろう。勝海舟も『氷川清 話』でこの時の体験に触れ、「おれがアメリカに行って帰朝した時、御老中から『異国にわたりて、何か眼を付けたことがあろう』と再三聞かれ、『アメリカで は、政府でも民間でも、人の上に立つものは、みなその地位相応に怜悧でございます』と答え、『無礼者』と叱られた」という話を語っている。

余談だが、咸臨丸の最後は悲劇に満ちたものであった。維新後、明治新政府の所有となった咸臨丸は北海道開拓使の運搬船として活動していた。 太平洋往復の頃から故障がちだった蒸気エンジンは除去され、帆船として運航されていた。最後の航海は、仙台の松島湾寒風沢から北海道開拓に向かう三九八人 の白石藩士を乗せ小樽に向かうものだった。明治四年十一月四日、函館から小樽に向けて出航した直後、咸臨丸は激しい暴風雨に襲われて木古内町の更木岬近く の暗礁に乗り上げて破損、沈没した。この時生き残った入植者が開拓したのが現在の札幌市白石区である。オランダで建造され、太平洋を渡った咸臨丸は函館近 くの海でその一四年の短い生涯を終えたのである。この間の事情は、合田一道氏の労作「咸臨丸 栄光と悲劇の五〇〇〇日」(道新選書、二〇〇〇年)に詳述さ れている。

東京お台場の「船の科学館」に五〇分の一に縮尺された咸臨丸の復元模型が展示されている。オランダに残されていた図面を基にオランダで製作 された。西国大名を警戒して五〇〇石船以上の大型船の建造を禁止した江戸時代の「和船」の展示の中に置かれた咸臨丸を見つめ、複雑な感慨を覚えた。

咸臨丸一〇〇年の年としての一九六〇年

今から五〇年前、咸臨丸のサンフランシスコ渡航から一〇〇年という節目の年が一九六〇年、「六〇年安保」の年であった。戦後日本の最も熱い政治の季 節であったといえる。日米安保条約の改定を巡り、「反安保」闘争が盛り上がり、この年六月一五日の「安保改定阻止第二次実力行使」には全国で五八〇万人が デモ行進に参加し、国会前では東大生樺美智子さんが死亡するという事態に至った。六月一九日には新安保・新行政協定が自然成立したが、アイゼンハワー米大 統領の訪日延期、岸信介首相の退陣という異常事態を迎えた。反安保闘争に参加した学生達の空虚な敗北感に西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」が切なく 響いていた。

岸内閣に代わって登場した池田勇人内閣は「低姿勢」で登場し、「所得倍増計画」を打ち出していった。米国でも、一一月にJ・F・ケネディが 新大統領に当選、日米関係も新しい局面に入っていった。一九五一年のサンフランシスコ講話条約で国際社会に復帰した日本は、日米安保条約によって米国との 二国間同盟に踏み込み、西側陣営の一翼を占める形で冷戦の時代を生きるという路線を歩んだ。サンフランシスコの太平洋を見渡すリンカーンヒルに「咸臨丸入 港一〇〇年記念碑」が立っている。咸臨丸が縁で姉妹都市となった大阪市が建立したものである。華やかな除幕式も行われたが、その時は、日米安保を巡る政治 的熱狂の中でも、咸臨丸一〇〇年を想う気持ちが太平洋を挟む日米双方に存在していたとも言えよう。

調べてみると、一九六〇年の日本の輸入の三九%は米国からの輸入、日本の輸出の三〇%は米国への輸出であった。つまり、日本の貿易の三分の 一以上が対米国で成り立っていた。外交・安全保障の関係のみならず経済においても、日米関係の密度が重く存在していた時代であった。一九七一年のニクソン ショックまで、日本円の対ドルレートは一ドル三六〇円に固定されており、多くの日本人はそれが当たり前だと思っていた。

一九六〇年安保改定とは、日本側にとって「日米間の事前協議制の導入」など対米従属性を和らげる方向への条約改定という建前を確保したもの の、実体は、米国側にとって「平時・有事にわたる在日米軍基地の長期・安定的確保」という戦略体制の確立であった。それでも多くの日本人は「東側の脅威に 対して冷戦の時代に生きるためには」という思いで日米安保体制を容認し、六四年の東京オリンピック、七〇年の大阪万国博覧会を経るうちに、「豊かさへの願 望」に傾斜した。

最後の「政治の季節」ともいうべき「七〇年安保闘争」「全共闘運動」の時代はあったが、とても国民的関心を引き付けた運動とはいいがたく、 時代は一段と「経済の季節」に彩られていった。一方で、日米安保体制下の重圧が「基地」という形でのしかかる沖縄という不条理を封印しながら、ともかく物 質的繁栄を求めて我々は歩み続けたのだ。円ドルレートも、気がつけば今や九〇円水準、この五〇年で円の価値は四倍になった。 咸臨丸一五〇年の今

今、我々は「六〇年安保」から五〇年という時点に立つ。改めてサンフランシスコに立ち、日米関係の位相の変化に驚かされた。かつて西海岸を 訪れ、サンフランシスコ、ロスアンゼルスの「ジャパンタウン」「ジャパンビレッジ」を記憶している人ならばその衰退に衝撃を受けるであろう。日本人の存在 感が西海岸から急速に消えているのである。

この一〇年で米国への渡航者は年間二〇〇万人近く減少し、とくにハワイを除く米本土への渡航者は半減した。貿易の関係でも、二〇〇九年の日 本の輸出における対米輸出の比重は一六%、輸入における米国からの輸入は一一%と、一九六〇年時点と比べて約三分の一の比重にまで落ち込んだ。西海岸にお ける日系企業の支店は撤退・閉鎖を続けている。経済の関係、つまり下部構造において日米関係は大きく変化しているのである。

米国の経済人のみならず米国民の中国への関心は急速に高まっており、私が動き回っての実感では、西海岸における中国・韓国・日本の存在感の 比重は「五:三:二」といって誇張ではないであろう。その一つの象徴が、「咸臨丸一五〇周年」を話題にする人が日米双方において皆無だという事実である。

その一方で、外交・安全保障の関係だけが「過剰依存・過剰期待」の関係に埋没したまま、極端な固定観念に凍り付いている。五〇年前、一九六 〇年代の世界認識を引きずったまま、日米安保を既得権益とする人たちに押され、惰性の中で日米関係を「これまでどおりでいいのだ」という状況に自らを置く 日本人に未来はあるであろうか。

歴史的な「政権交代」を経てもなお、「普天間問題」の経緯のごとく、基地と日米同盟の在り方について米国と正面から向き合うのではなく、二 一世紀のアジアの安全保障を配慮した「抑止力」の中身を真剣に吟味することなく、むしろ沖縄の期待を押さえ込むことで進路をとろうとする鳩山内閣とシナリ オを主導した外務省、防衛省の責任は重い。深い歴史観の中で、今を生きる日本人が立ち向かうべき課題が理解できていないのであろう。

咸臨丸の時代を生きた日本人は誰一人として、外国の軍隊を頼りに自国の安全を図るという事態を考えてもいなかった、いわんや敗戦後六五年が経過し、周辺状況がまるで変わっても「自立自尊」を志向しない脳力の虚弱さは悲劇的である。

咸臨丸の時代、そしてそれから一〇〇年後の「六〇年安保」の時代と比べ、日本人が失っていることは自分の身辺的利害を超えて、国や社会の在り方のために立ち向かう気迫である。日本の存在感の低下の本質はここにあるといえる。

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