2011年2月13日日曜日

連載「INSIGHT」THE WORLD COMPASS 2008年10月号

資源大国日本へのパラダイム転換—海洋開発の重要性   寺島実郎

「日本は国土の狭い資源小国だ」というのが、大方の日本に関する認識である。確かに、日本の国土面積37.8万平方キロメートルは世界61番目にす ぎない。しかし、排他的経済水域の面積では447万平方キロメートルと第6位の海洋国家である。固定観念を脱し、海洋の可能性に眼を向けるならば、日本は 資源大国になり得る可能性を秘めているといえよう。

最近の海洋調査の成果によれば、日本の海底には、希少金属からエネルギー資源まで驚くほど多くの資源が眠っていることが確認されつつある。世界潮流 として資源ナショナリズムが高まる中で、自国の資源にしっかりと眼を向け、技術力を注入して探査・採鉱していくことは、21世紀の日本の創生にとって極め て重要なのである。

特に、日本近海には海底火山活動領域が多数存在し、銅、鉛、亜鉛、金、銀などの金属資源の宝庫といわれる「熱水鉱床」が次々に発見され、海外企業に よる海底鉱区の申請もされつつある。また、コバルト、マンガンなどが豊富に含まれている鉱物資源、さらにはメタンハイドレードなどエネルギー資源の埋蔵も 確認されている。

日本も「海洋基本法」を2007年4月に成立させ「総合海洋政策本部」を内閣府に設置したが、従来の政策の寄せ集めではない新たな総合的海洋戦略の 構築とタイムリーな実行が問われている。経済セクターも強い問題意識を持って、結束・連携してコンソーシアム型のプロジェクトを具体化させるべき局面にあ る。戦略研究所もJAPIC(日本プロジェクト産業協議会)の共同研究に参画しており、海洋開発の可能性に挑戦していきたい。

連載「脳力のレッスン」世界 2011年1月号

オバマ政権の苦闘—二〇一〇米中間選挙の意味

熱狂的な歓呼の中でスタートしたオバマ政権も一年八ヵ月が経過し、中間選挙という洗礼を迎えた。結果はオバマ大統領にとってあまりにも厳しいものと なった。上院では与党の民主党が議席は減らしたものの五三議席を確保して定数一〇〇の過半数を維持したが、下院では定数四三五の過半数(二三八議席)割れ の一九二議席となった(一一月二五日現在、未定一議席)。オバマ政権は共和党優位の下院と向き合いながら後半戦に入った。

中間選挙を挟む一週間、米国の東海岸を訪れた。一九九七年に、一〇年間の米国勤務を終えて帰国して以来、定点観測のごとく年に三~四回は米 国を訪れてきた。あの二年前の大統領選挙におけるオバマ当選の熱気、そして就任式のワシントンに溢れていたオバマへの米国再生の期待を思い起こしながら、 複雑な思いで多くの知人と面談してきた。オバマ政権への過剰な期待の反動としての失望というべき空気が満ちていた。

公約実現に挑戦したが故の反発

発足以来のオバマ政権は国民の評価に値しない無能力な政権だったのであろうか。決してそんなことではない。オバマ自身が「公約の七割は実現しつつあ る」と発言しているが、政治家としての虚勢ではなく、客観的に見ても、オバマは自らの公約に挑戦し、時代を動かそうとしてきたといってもよい。同じ政権交 代でも、日本の政権交代後の民主党の無残なまでの「公約からの後退」とは比較にならないほど「米国を変える」という試みに真剣だったといえる。

まず、金融改革である。オバマ政権はリーマンショックを背景として成立した政権であり、金融危機に立ち向かうことを余儀なくされた。サブプ ライム問題、リーマンショックをもたらした「強欲な金融資本主義の歪みを正す」ことを使命としたともいえるのである。一九三〇年代以来ともいえる金融改革 規制法の骨格は、「金融安定化監督評議会、通貨監督庁(OCC)を設置するなど金融機関への政府監督権限の拡大」「リスクの大きなデリバティブ(金融派生 型商品)取引の透明化と制限」「証券化商品に対する投資家保護のための銀行規制」などで、より厳しい規制を主張する人達からは「ザル法」「妥協の産物」と いわれながらも、行き過ぎたマネーゲームに縛りをかけるものであった。

この種の話はメディアによって誇張されることが多いが、「議員一人に一〇〇万ドルの金と四人のロビストを投入した」といわれるほど、本気に なってウォール街は金融改革規制法を潰しにかかった。それでもオバマは屈することなく法案成立に持ち込んだのである。だが、あざとい金融商品の創造と膨大 な成果報酬を得ることが常態となっているウォール街では、「水清ければ魚棲まず」という面があり、オバマへの拒否反応は強く深い。かつてはオバマに一定の 評価を与えていたウォール街の民主党支持者でさえ、自分の懐に手を入れてきたオバマへの、憎悪にも近い感情をむき出しにするのには驚かされた。

次に、医療保険制度改革である。「一五〇〇万人もの人が健康保険にさえ入れない」とされてきた米国で国民皆保険の制度導入は不可能といわれ た。日本人の感覚からすれば「大きな前進」と思える改革にオバマは踏み込んだのである。このことが、競争主義・市場主義を信奉し、貧困や格差も「自己責 任」とする傾向を根強く潜在させる米国民の反発を顕在化させた。「何故、貧しいやつの医療費を我々が負担せねばならないのだ」という拒絶反応である。

この拒絶反応を象徴するのが「茶会党(ティーパーティー)」という草の根運動の盛り上がりといえる。独立戦争の引き金ともなった一七七三年 の「ボストン茶会事件」が運動の名前の由来である。宗主国だったイギリスが米国に輸入される茶に関税を課したことに反発し、独立急進派がボストン港内に停 泊中の船から茶箱を投げ入れた事件とされるが、調べてみると、「愛国的行動」というよりも、英国東インド会社が茶販売を独占しようとする動きにオランダの 密輸茶商人と茶卸商人が急進派をけしかけた事件だったことが分る。ともあれ、現代の茶会党の主張の基底にあるのは、「徴税拒否」のみならず「連邦政府の存 在」さえ否定する極端なまでの「小さな政府」志向なのである。

茶会運動の象徴的存在であるサラ・ペイリン(前アラスカ州知事)やデラウエア州の共和党上院議員候補(落選)となったクリスティン・オドネ ル候補の発言における「屈託のない無知」や「単純化された進歩主義への攻撃」には驚かされるが、「米国ではよく見かける悪意の無いおばさん」という存在で もある。建国以前のアメリカ以来、この国に内在する本能のような性格が見て取れるのである。

また、オバマが経済再生の柱として主導した「グリーンニューディール(化石燃料に過度に依存したエネルギー体系の再生可能エネルギーへの転 換)」も、まだ成果が現れていないこともあるが、財政支出による産業政策そのものが「税負担の増大への拒否」を誘発する構図になっているといえる。

「雇用を増やさぬ景気回復」への苛立ち

米国のマクロ経済指標は決して悪くない。前年九月のリーマンショックを受けて二〇〇九年にマイナス二・四%に落ち込んだ実質GDP成長率は本年の IMF見通しとしてはプラス三・三%へと回復している。株価もダウ工業株三〇種で一・二万ドル台とリーマンショック前の水準に戻った。ナスダックも二六〇 〇ポイント水準となり、二〇〇八年の一五七七ポイントを大きく上回っている。企業収益も「順調」と言って良いほど回復基調にある。二〇一〇年上半期の米国 企業の税引後の企業収益は一・一九兆ドル(年ベース)とピークだった二〇〇六年の一・一四兆ドルを上回るレベルとなっている。

では何が問題であり、米国民は苛立っているのか。「雇用」である。「ジョッブレスリカバリー」、つまり景気回復が雇用の増加に結びつかない ことへの怒りなのである。米国の失業率(九月)は九・六%と二〇〇七年の四・六%に比べ倍以上の高さに張り付いたまま下がらない。もっと踏み込むならば、 エコノミストの中には「CHEAP・JOBを除けば、失業率の実体は二〇%を超える」という人もいる。最低賃金ぎりぎりの付加価値の低い仕事はあるが、働 くことの充足感を得られるような仕事は少ないという意味である。

どうして雇用が回復しないのか。「米国経済の空洞化」というべきか、マクロの経済指標が好転し、企業収益が改善されても、米国内に新規の雇 用を生み出さない構造が横たわっているのである。米系の多国籍企業は、新興国をはじめ海外に生産立地や投資を展開することによって利益をあげている。

米国製造業の海外生産比率をみると、全企業ベース(○八年)で二六%、海外進出企業ベースでは四〇%となり、本社は米国にあっても海外で生 産している比重は確実に高まっている。ちなみに、日本の製造業の海外生産比率は、全企業ベース(○八年)で一七%、海外進出企業ベースで三〇%であり、次 第に米国の状況は他人事ではなくなってきている。企業活動のグローバル化によって、企業の利益と国内雇用の乖離が生じているのである。

オバマ政権は「輸出の促進」による雇用の創出に力を入れているが、いかなる産業分野において輸出拡大と雇用創出が期待できるといえるのであ ろうか。例えば、米国の輸出を支える基幹産業といえば農業であるが、農産品輸出が増大しても、大規模農業の米国において多くの新規雇用が生まれるというも のではない。また、ボーイングの航空機やIT関連の先端分野にしても労働集約型ではなく、グリーンニューディールでの太陽・風力・バイオマスにしても競争 力を持った海外からの輸入を増加させるだけで国内雇用創出力は限定的である。結局、流通の小売やサービス分野での雇用に依存せざるを得ないわけであるが、 「借金してでも消費する」とされた消費者心理が凍りつき、消費が動かなくなり始めている。一〇年一〇月現在、小売業の販売額も消費者信用残高もリーマン ショック以前の水準には戻っていない。

もちろん、今回の中間選挙の結果をもたらしたものは「経済」だけではない。イラク戦争に反対したオバマを大統領にしてまでパラダイムの転換 を図った外交政策においても、「主力部隊を撤退させても安定には程遠いイラク情勢」「泥沼化するアフガニスタン」「イスラム原理主義とイランの台頭」「制 御不能のイスラエルとパレスチナ問題の複雑化」と中東における米国の制御能力の低下は否定しがたい。また、オバマが勇気と誠意をもって「核なき世界」を リードしようとしてNPTに踏み込んでも、米国民は「米国の威信は揺らぎつつある」という苛立ちを拭えないのである。ただ、今回の中間選挙に限れば、米国 民の判断の最大の論点が「経済」にあったことは間違いない。

米国という国の経済構造の再考

改めて米国という国の経済構造を直視するならば、経常収支の赤字、つまり産業活動の海外との帳尻において膨大な赤字を抱えながら、資本収支の黒字、 すなわちウォール街を窓口に世界の資金を吸収する金融活動の黒字によって、なんとか経済を成り立たせてきたことが分かる。別表の資料を見てもらいたい。〇 七年まで経常収支の赤字を補って余りある資本収支の黒字にささえられて流入過剰の状態だったが、二〇〇八年を境に流入過少となった。つまり、このことが進 行中の「ドル安」の基本要因であり、これまで産業の実力以上の過剰消費と過剰軍事力を可能にしてきた米国の経済構造が崩れ落ちているのだ。世界中の過剰流 動性(資金)を米国にひきつける要素が失われたからである。一つは「相対的な金利の高さ」である。FFレートは〇七年の五・〇二%から、リーマンショック 後の超低金利政策によって一〇年九月現在〇・一九%という水準にあり、米国の金利の優位性はなくなった。二つは、「サブプライムローン」という金融派生型 商品の破綻によって、NY金融市場への信頼性が揺らぎ、かつてほど資金が米国に還流しなくなったということである。

中間選挙に先立つ一〇月二二日に韓国で行われたG20財務相・中央銀行総裁会議でガイトナー財務長官は「二〇一五年までに経常収支の赤字も しくは黒字をGDP比で四%以内に抑える」という数値目標設定を韓国と共同提案した。経常黒字大国のドイツと中国の反対で合意形成はできなかったが、米国 が経常収支の世界的再均衡(REBALANCE)を主張したことは注目される。米国としては、財政赤字を抑えて貯蓄率を高めることに努力することで極端な 自国の経常赤字を回避することを担保に、中国の人民元の切り上げを誘導しようという意図を示したといえる。

オバマ政権の後半戦は、共和党主導の議会の逆風の中を進まざるをえないであろう。ただ彼が背負わねばならない本質的課題は、米国の資本主義 の骨の髄まで沁みこんだ「マネーゲームに傾斜した経済の構造的歪み」の是正である。重い構造問題を抱えながら、性急な国民世論に向き合わねばならぬオバマ の苦悩は深い。


参考:米国の経常収支と資本収支

連載「脳力のレッスン」世界 2010年12月号

日蘭関係の原点、リーフデ号の漂着とは何か—一七世紀オランダからの視界(その2)  寺島実郎

一六〇〇年(慶長五年)四月、豊後(現在の大分県)の臼杵湾の海岸に一隻のオランダの商船リーフデ号が漂着した。一六〇〇年といえば、その年の九月が「関が原の戦い」であり、日本史の転換点ともいうべき年に不思議なオランダからの来訪であった。

オランダ東インド会社(一六〇二年設立)は、まだ存在しなかったが、ロッテルダムの企業家ファン・デル・ハーヘンが主たる出資者となり、ア ジア貿易開拓を狙って五隻の商船団が編成された。オランダを出航したのが一五九八年六月、実に二十二ヵ月の航海を経た漂着であった。リーフデ号には出航時 に約一一〇人が乗り込んでいたが、漂着時の生存者はわずかに二四名で、漂着後も数日で六名が死んだという。生き延びた者の中に英国人のウィリアム・アダム ス(後の三浦安針)とオランダ人のヤン・ヨーステンがいた。このヤン・ヨーステンこそ、江戸で彼が居住した場所にその名前に由来する「ヤエス(八重 洲)」(東京駅の八重洲口)という地名を残している。

この航海はあまりにも悲劇に満ちた冒険であった。大西洋を南下して南米大陸の南端マゼラン海峡を回り、チリーを経て、なんと太平洋を横断し て日本に辿り着いたのである。船団を形成した五隻の船の名前がこの航海への思いの熱さを象徴しており、その悲劇的結末を考えると何やら皮肉でもある。 「ホーペ(希望)」「リーデフ(愛)」「ヘーロフ(信仰)」「トローウ(誠実)」「プライデ・ボートスハップ(歓しき使)」というのが五隻の船名だが、次 々と災禍が船団に襲い掛かった。

荒れ狂う大西洋の嵐、熱帯性の気候で衰弱する乗組員に襲い掛かる厄病、不足する食糧で憔悴した船団がマゼラン海峡に辿り着いたのは一〇ヵ月 後の一五九九年四月であった。冬場のマゼラン海峡の寒風と飢餓で多くの乗組員を失い、ヘーロフ号は航行を断念し、本国に帰った。五隻のうちヘーロフ号だけ が再び故国を見た唯一の船となった。

マゼラン海峡を越えたものの、プライデ・ボートスハップ号は多くの乗組員を失い疲労困憊でチリーのバルパライソ港に入ったところをスペイン 艦隊により没収された。トローウ号はポルトガル船によって撃沈された。なんとか生き延びた旗艦ホープ号も、南緯三七度のセント・マリア島で食糧を調達しよ うとしたが、司令官や船長をはじめ多数の船員が島民の反発を受けて虐殺された。同じくリーフデ号もこの島での食糧調達を試みたが、上陸した船員はすべて殺 戮されてしまった。あまりにも過酷な体験を受けながらも二隻の船はチリー沖の太平洋上で邂逅、協議の結果日本を目指すことにした。だが、ホープ号は消息を 絶ち、リーフデ号だけが日本に辿り着いた。

オランダ船漂着の情報は、秀吉亡き後大阪城西の丸で実権を握りつつあった徳川家康に伝えられ、堺に回航されたリーフデ号の乗員を代表してア ダムスとヨーステンが大阪に呼び出された。通訳に当たったイエズス会の宣教師が敵対する新教徒の国オランダからの漂着者を「海賊」と決めつけ、死罪にすべ しと主張したにもかかわらず、家康はリーフデ号の乗員を助け、江戸に赴くことを命じる。リーフデ号は三浦半島の浦賀に回航されるが、修繕不能となるまで破 損が進み、浦賀で廃船となった。それからの乗組員の運命を含め、この小説も顔負けの壮大な史実を深く考えてみたい。

漂着ではなく意図された日本来訪

「リーフデ号の漂着」と言ってきたが、「漂着」という表現は適切ではないであろう。意図された日本来訪だったからである。そもそも何故リーフデ号は 船出したのか。そして何故、喜望峰を回る「東回りルート」のアジア航海ではなく、マゼラン海峡から太平洋を渡る「西回りルート」を採ったのか。

「大航海時代」はスペイン・ポルトガルが先行した。一五世紀のはじめから、ポルトガルはエンリケ航海王子(一三九四~一四六〇)の指揮の 下、西アフリカ航路の探検と大西洋諸島の発見と植民地化を進めた。一四四一年からは奴隷貿易が始まり、砂糖生産の担い手として拡大の一途を辿った。これに 続く、コロンブスの米大陸発見(一四九二)、バスコ・ダ・ガマのインド航路発見(一四九八)、マゼランの世界周航(一五二二)といった大航海時代を彩る一 五世紀末から一六世紀にかけての世界史的挑戦の背後には海洋帝国化するスペインとポルトガルが存在した。

一四九三年五月、ローマ教皇によって大西洋上の経線を境界として東はポルトガル、西はスペインと領有権を定める詔勅が出された。この決定は 翌年には境界線を西経四六度三〇分まで西に移動するトルデシリャス条約によって修正されたが、それにしても世界を二分するという勝手な決定がローマ教皇の 権威によってなされるという驚くべき時代であった。一六世紀に入り、ポルトガル・スペインの攻勢は加速する。ポルトガルがアジア経略の基点インドのゴアに 艦隊を派遣して制圧したのが一五一〇年だった。その後、マラッカ、ジャワ、中国、日本へと東進を続け、アジアに旗を立てていった。それと並走したのがイエ ズス会の十字架であった。

当時のオランダは北欧とイベリア半島を結ぶ仲介貿易で力をつけ始めた新興国であった。「鰊がオランダを造り、オランダが世界貿易を造った」 という言葉があるが、北海で捕った鰊を塩漬けや酢漬けにしてスペイン・ポルトガルに売り、その代金でアジアからスペイン・ポルトガルが持ち帰っていた胡椒 などの香辛料を仕入れて北欧に売るという仲介貿易で財をなしていったのである。新興国オランダにとってスペイン・ポルトガルの既得権益に食い込むことは容 易ではなかった。「スペイン・ポルトガルに邪魔されずにアジアに至る新航路はないのか」それがマゼラン海峡を越えて太平洋に出る試みであった。

それにしてもリーフデ号は何故日本を目指したのか。船に積み込んだ毛織物・羅紗の市場としての日本に期待したことと、日本の銀を入手し、そ の銀でアジアの香辛料を手に入れて帰ることを意図したといえる。東インドやモルッカ諸島などの熱帯では暑すぎて毛織物や羅紗は好まれず、日本ならば戦国武 将の陣羽織・合羽・胴服などへの需要が期待されると判断したようだ。また、リーフデ号が保有していた地図「南洋針路図」(東京国立博物館蔵)に石見銀山の 所在地が明記されており、銀の入手を意図していたと思われる。つまり、かなり正確な日本についての情報を入手していたということである。これには伏線が あった。ポルトガル船で来日した経験のあるヤン・リンスホーテンが一五九三年に出版した『ポルトガル人の東洋航海記』などを参考にしていたようだ。

この頃のオランダのアジアへの熱気を象徴する試みがなされている。一五九三年から数回にわたり中国・日本・アジアに向う航路として「北方航 路」の開拓に挑戦したというのである。驚くべきことだが、オランダから北上してバレンツ海から北極海を西に進み、ユーラシア大陸の北方海域をベーリング海 峡に至りアジアに向うというものであった。一五九五年にはノルウェイの北端から一〇〇〇キロ以上も北極圏に近づいた北緯八二度まで進んだものの、真夏にも かかわらず雪と氷に阻まれて航行を断念している。この航海にもウイリアム・アダムスが参加していたという。

リーフデ号が豊後の臼杵海岸に辿り着いた時、既に豊後に隆盛を誇ったキリシタン大名大友宗麟は一五八七年(天正一五年)に死去し、後を継い だ嫡男大友義統は、一五九三年(文禄二年)に朝鮮出兵における不始末を理由に豊後の国を没収され、豊後の大友家支配は終わっていた。「オランダ船漂着」の 情報はただちに長崎奉行寺沢広高に報告され、奇しくも当時のイエズス会の布教活動の中心であった臼杵にいたポルトガル人のパードレ(宣教師)が通訳として 駆り出されたのである。

この間の事情を理解するためには、イエズス会の日本での布教活動の歴史を知らねばならない。イエズス会がローマ教皇によって修道会として承 認されたのが一五四〇年、その翌年には東洋での布教に使命感を抱いたスペイン人フランシスコ・ザビエルがインドを目指しリスボンを出発した。彼は一五四九 年にマラッカから鹿児島に上陸、これが日本への「キリスト教伝来」とされる。その後山口、京都と布教活動を続け、一五五一年に豊後府内(現代の大分)から インドのゴアに帰った。半世紀後、正にその豊後にリーフデ号が来たのである。

家康の深慮遠謀がもたらしたもの

徳川家康は何故アダムスやヨーステンの命を救い、登用したのであろうか。前述のごとく通訳を務めたイエズス会宣教師の死罪具申にもかかわらず、家康 は二人の話に耳を傾けた。そして、彼らが布教目的ではなく専ら交易を求めていることや、ポルトガル・スペインと新興のオランダ・英国の対立など複雑な欧州 の政治力学を見抜いた。家康はリーフデ号を浦賀に回航することと二人に江戸に来ることを命じ、没収したリーフデ号の積荷の代金として五万レアールを支払っ たという。積荷の中には青銅の大砲が一九門と小銃五百門と砲弾・火薬などがあったが、これらは家康によって関が原の戦いにも使われたという。浦賀は、小田 原の北条氏が養成していた水軍(向井水軍)を引き継ぐ形で徳川の水軍の根拠地となっていた。家康は浦賀を関東の貿易港として育てる考えを抱き始めていた。 後に「ペリー来航」の舞台となる浦賀であるが、実は二五〇年前の歴史のDNAのようなものが埋め込まれていたとも言える。

アダムスとヨーステンの二人は徳川家康の外交や航海術の顧問のような役割を果すことになり、家康は一六〇一年(慶長六年)に朱印船制度の確 立を決意、一六三五年(寛永一二年)に幕府による海外渡航禁止までに三五六隻もの朱印船がアジアの海に向ったという。日本の「大航海時代」とでもいうべき 時代が三〇年以上も存在したのだ。アダムスとヨーステンも朱印状を得て、安南(ベトナム)やシャム(タイ)に向った。アダムスは平戸で(一六二〇年)、 ヨーステンは安南からの帰途に南シナ海の島で(一六二三年)に生涯を閉じたという。家康には重用されたものの秀忠の時代になって(一六一六年家康死去)活 躍の場を失っていった。ただ、「鎖国」といわれた時代に、何故オランダだけが通商関係を維持できたのかを考える時、リーフデ号の存在に気付くのである。

先日、大分訪問を機に臼杵に足を伸ばした。東京大学の岡田章雄教授の著作『三浦按針』(一九四四年、創元社)の影響もあり、リーフデ号の漂 着地は臼杵湾の黒島というのが通説とされている。この黒島に小さな船で渡り、三浦按針上陸記念碑の場所に立ち、小さな島を散策して太平洋を見渡した。遠浅 の美しい海であった。黒島よりかなり南の地点を漂着地とする異説があることも知ったが、四一〇年前に豊後海岸にオランダ船が漂着して府内に回航されたこと は事実である。それは単なる一隻の商船の漂着という出来事を超えて、日本近代史にまで繋がる「宿縁」を思わせる。そしてこの大分の海が、私自身がオランダ で何度か眺めたことのあるあの大西洋の海と繋がっているという陳腐なまでの事実に心が高揚した。

リーフデ号の船尾を飾ったエラスムス像だけは現存し、国宝として国立博物館にある。栃木県足利群吾妻村(現佐野市)の曹洞宗龍江院という寺 に「朝鮮伝来の貨狄さま」とされた謎の木像が大正時代の末期まで安置されてきた。一九二四年にバチカンの世界宗教博覧会に「聖人像」として出展されたこと で関心を呼び、一六世紀オランダの人文学者エラスムスの像であり、リーフデ号の船尾像であったことが検証されたのだ。この像が体験した四〇〇年という時間 に胸が熱くなる。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年10月号

米軍主力部隊のイラク撤退—『覇権なき中東』の序幕   寺島実郎

二〇一〇年八月、ついに米国はイラク駐留の主力部隊の撤退を開始した。五万人の訓練部隊は当面残るが、それも二〇一二年には全面撤退となる。〇三年 三月のイラク戦争開始から七年、憔悴の中で米国はイラクからの撤退を余儀なくされたということである。開戦から本年七月末までの米軍兵士のイラクでの死者 は四四〇五人となった。アフガニスタンでの米軍兵士の死者一一〇五人と合わせて、9・11後の展開で、五五〇九人もの米国の若者が犠牲になったということ である。この数は9・11におけるワールド・トレードセンター、ペンタゴンを含む犠牲者総数とされる二九八二人を大きく上回り、アフガン、イラクを合わせ た米軍の戦費の総額も二兆ドルに迫るものとなり、最終的には三兆ドルになるとの見方もある。「米国の正義を力で実現する」として突っ込んだテロとの闘いの 代価はあまりにも大きく、米国の苦悩は深い。

「覇権なき中東」への展望

これだけの犠牲を払ったイラク戦争がもたらしたものは何であろうか。それは皮肉にも「イランの強大化とその制御への苦闘」という構図である。一九六 八年に大英帝国がスエズ運河の東から後退した後、代わって湾岸に覇権を確立した米国は、イランのパーレビ体制を「湾岸の警察官」として支えた。だが、七九 年のホメイニ革命によってイランへの影響力を失った米国は、「敵の敵は味方」の論理で隣国イラクのサダム・フセインを支援しイラン・イラク戦争を戦わせた ものの、サダム・フセインの増長を招き、イラクのクウェート侵攻後の湾岸戦争、そして9・11後のイラク戦争とサダムを自らの手で葬り去るという皮肉な戦 いを余儀なくされたのである。

ところが、イラク戦争はイラクをシーア派主導のイラクへと追いやり、気がつけばペルシャ湾の北側に巨大なシーア派のゾーンを形成することに なった。つまり、シーア派イスラムの中核ともいえるイランの潜在的影響力を最大化する展開に帰結したのである。イラクという国は、人口的にはシーア派が多 数派を占め、北部のクルド族問題を抱えたモザイク国家であり、英国が人為的に線引きしたことによって成立した国である。「イラクの民主化」などといってサ ダム専制体制を倒したものの、「シーア派主導の制御不能の分裂国家」を生み出したのである。

米国がイランの核保有に恐怖心を深めイラン制裁に執着する理由も、強大化するイランを制御しないと、いつ米国を襲うかもしれない「イスラム 原理主義の核」の脅威にさらされるからである。だが、米国がイランの核武装を排除しようとするほど、宿命的に絡みつく「イスラエルの核」に対する米国のス タンスの矛盾、二重基準問題が炙り出される。つまりイスラエルの核は容認し、イランの核は否定する論理の矛盾である。

実は、米国とイスラエルの間には「一九六九年のニクソン・メイヤ秘密了解」が存在する。「イスラエルは核保有宣言せず、イスラエルにNPT 加入要求せず」というものである。つまり、イスラエルの核保有を容認してきた米国がどこまで本気でイスラエルを制御できるかが、イラン制裁を巡る注目点 だったのである。オバマ政権は、六月の国連安保理のイラン制裁決議(決議1929)に先立つ五月、国連NPT会議を主導し、「核なき世界」への一歩として NPT会議最終文書の採択に踏み込んだ。内容は「①『中東の非核化』に向けた会議の二〇一二年開催、②IAEA機能強化(未確認の核関連施設を抜き打ちで 査察できる『追加議定書』重視)」などであり、イスラエルを含む「NPTの普遍化」に真剣であることを示したもので、二重基準を解消して「中東の非核化」 を実現する意思を見せたといえる。

だが、話は単純ではない。強硬派のネタニヤフ政権を抑えることは容易ではない。国際政治の力学は微妙で、ブッシュ政権時の米国の「力こそ正 義」のネオコン路線が、反作用としてイランに保守派のアハマディネジャド政権を生み、さらに「力の論理が力の論理を誘発」する形で、イスラエルにも強硬派 政権を生んだ。イランとイスラエルの二つの強硬派政権に「協調と対話」路線のオバマが向き合う構図はあまりに皮肉である。

加えて、オバマ政権になってからの昨年十二月に七万人の増派を決めたアフガニスタンについても、とても秩序回復などといえる局面ではなく、 タリバンをはじめとする敵対勢力は二〇一一年からと明言された米軍の撤退を静かに待っているという状態であり、「出口戦略」を模索する米国の姿勢が見透か された形になっている。間違いなく、中東における米国のプレゼンスは崩れはじめている。つまり、大英帝国のペルシャ湾岸撤退と同じような構造変化が進行し ようとしているのである。ただし、大英帝国に代わって米国が湾岸における覇権を確立した一九七〇年代以降の展開と現下の情勢は全く違う。米国に代わって中 東に覇権を確立する国が登場するとも思えないからである。

情勢は複雑である。確かに、このところの中国の中東への強勢外交が注目される。本年五月には、「中東・アラブ協力フォーラム」の第四回閣僚 級会議を天津で開催、アラブ連盟加盟二二カ国との関係を深め、六月には湾岸産油国との「中国・GCC戦略対話」を北京で開催した。また、六万トン級の空母 建造など外洋海軍の拡充に力を入れ、ソマリア沖の海賊対策へのミサイル巡洋艦派遣などをインド洋への恒常的海軍展開への契機とするかのごとき動きを見せて いる。イランとの関係も緊密で、昨年も日量四八万バレルもの原油を輸入している。ただし、中国も国連のイラン追加制裁に賛成し今年に入ってイラン原油の輸 入を大幅に縮小させ始めており、中東諸国に対しても「中国の野心への警戒心」に配慮するような路線も見せ始めている。中国の覇権などといえる情勢ではな い。

また、ロシアの動きも微妙である。石油や原子力の分野でイランとの関係を保持しているロシアなのだが、中国とともに国連安保理のイラン追加 制裁に賛成し、このところイランとの関係を表面的には冷却させている。六月にタシケントで行われた上海協力機構の首脳会議では「国連制裁下にある国の加盟 を認めない」とする加盟規約を採択し、オブザーバー参加してきたイランの正式加盟を拒否する姿勢を示した。イラン制裁に執念をみせる米国に配慮した形であ る。何故、ロシアがイラン制裁に賛成したのか。あえていえば、二〇〇八年夏のグルジア侵攻・リーマンショック後二年間の教訓とでもいうべきであろう。ロシ アに対する世界の不信がロシアからの資本引上げを招き、ロシア経済が大きく落ち込むという事態を経験し、グローバル化した経済に身を置く中での孤立の怖さ をロシアも再認識したというべきであろう。

米国も影響力を維持するあらゆる戦略を模索するであろう。「米イラン国交回復」でさえある時期が来ればありえないことではない。「覇権交 代」や「覇権抗争」という視点では捉えきれないほど、様々な国や主体が複雑に中東に絡み合う構造に移行していくのであろう。ロシア、中国に加えインドやブ ラジルまでも中東でのゲームに参入しつつある。もちろん、英国、仏、独は歴史的関係を背景に深く中東と関っている。ただ、我々は中東諸国が基本的に「大国 の介入」を望まなくなっていることに気付かねばならない。イラク戦争後のイラクが見せた対応が象徴的である。敗戦国でありながらイラクは驚くほど自尊心に 満ちた姿勢で占領国米国と向き合った。米軍の長期駐留を拒否し、イラク駐留の米軍基地の地位協定において「近隣国への軍事行動のための使用を拒否する」な どの主張を貫いたのである。大国の利害に翻弄されてきた中東は、湾岸産油国を含めて強い自立自尊への志向を強めつつある。

新しい中東情勢と日本

八月九日・一〇日とアブダビで開かれた中東現地協力会議に、基調講演者の一人として参加した。これは石油危機を受けて興銀の中山素平氏や日本貿易会 の水上達三氏等が中東産油国と日本との交流のためにスタートさせたもので、(財)中東協力センター(奥田碩会長)を窓口に今年で三五回目となる。今年は日 本から官民合わせて三〇〇名を超す参加者が集まった。私にとってはイラク戦争開始直後の〇四年以来五度目の参加であり、中東地政学の構造変化についての報 告を行った。

強調したのは「米国の後退と覇権構造の終焉」という時代潮流の中で、日本は新たな中東との位置関係の再設計を余儀なくされるという点であっ た。米国の軍事的プレゼンスを前提に中東に関ってきた日本にとって、それは新たなる試練である。一九七三年の石油危機に際しての「中曽根油乞い外交」以 来、日本の中東政策は「石油モノカルチャー」とでもいうべき性格を帯びてきた。現在でも、日本は石油の九割、天然ガスの三割を中東に依存しており、それは 一次エネルギー供給の五割を中東に依存しているということである。

この数字がこれからの一〇年で大きく変わることになるであろう。ロシア要素である。サハリンプロジェクトとシベリアパイプラインの本格稼動 によって、石油の中東依存は六割台へ、一次エネルギーにおける中東依存は、石油比重の低下も加わり三割以下にまで低下すると予想される。つまり、中東にお ける「脱・米国」とエネルギーにおける「脱・石油」という事態に直面していかざるをえないのである。

それは日本にとっての中東の重要性が低くなることを意味しない。石油モノカルチャー的視界から脱皮した新しい中東との関係が問われるという ことである。私は日本の役割がより強く求められる局面だと考える。中東外交に関して、日本は他の先進国とは違う立ち位置を確保できる歴史を積み上げてい る。中東のいかなる国に武器輸出をしたこともなければ、軍事介入したこともない唯一の先進国である。 その意味でも、イラク戦争に関して自衛隊を派遣したことは悔やまれるのだが、「治安活動はしない」という枠組みで国際法上は正規の軍隊である自衛隊を派遣 するという奇妙な派遣であり、中東諸国にも奇異な印象を与えるが軍事的野心を示す性格のものとは受け止められていないのが救いである。

また、欧米諸国が「ユダヤ人問題」において歴史的な国内事情を抱え、パレスチナ紛争に中立的ではいられないのに対して、日本は紛争当事者の どちらかに肩入れしなければならない必然性はない。また、イラン問題に関しても、ホメイニ革命以降も外交関係を維持してきており、断交を続けてきた米国と は違う立場で関ることが可能である。原子力の平和利用を巡る国際ルール作りをリードし、非核保有国としてイランの核保有を諌め、孤立を深めるイランと国際 社会のパイプ役として一味違う役割を果しうるのである。

こうした「非政治性」という文脈も含め、中東諸国の日本への期待は極めて大きい。何よりも日本の技術力への評価である。例えば化石燃料から 原子力、再生可能エネルギーまで、エネルギー関連技術である。あまり知られていないが、(財)国際石油交流センター(JCCP)が中東産油国の石油関連技 術の研修のために日本に招いた研修生は一・九万人にもなり、産油国側の評価も高い。また、産油国も石油資源枯渇後の戦略を注視し始めており、原子力や太陽 光・太陽熱などのプロジェクトに真剣になりつつある。さらに、産業開発や生活の高度化に伴う水需要の増大に伴い海水淡水化など水プロジェクトの重要性が高 まり、日本の水関連技術への期待は大きい。覇権を求めぬ「非政治性」と技術力における日本の個性を認識し、中東諸国の日本との高等教育や医療分野での人的 交流を求める声も大きく真剣である。「覇権なき中東」に向かう大局観の中で、日本を際立たせる好機である。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年9月号

代議制民主主義の鍛え直しへ—2010参議院選への視点   寺島実郎

劇的な「政権交代」をもたらした二〇〇九年夏から約一年、参議院選挙は「与党大敗」という結果に終わった。「ねじれ国会」を選択した国民世論、揺らぎの中で実は政治の底流における「代議制民主主義」そのものの機能不全が浮かび上がる。

代議制民主主義の練磨

いうまでもなく日本の政治は「代議制民主主義」をベースにした「議員内閣制」を採用している。国民が政策決定に参画する直接民主制ではなく、代議者 を通じた間接民主制による意思決定を行っているわけだ。政治学では、「ギリシャやローマのような声が届く範囲での意思決定ならば、タウンミーティングのよ うな形での直接民主主義は可能だが、大衆が政治に参画する近代民主制においては、国民と意思決定を?ぐ代議者の存在が必要」という認識が定着している。そ して、この仕組みがこの国の意思決定において最適とはいえなくとも妥当な合意形成をもたらすという幻想が成立してきた。

だが、代議制を通じて適切な意思決定ができるという確信は揺らぎつつある。二世議員やタレント議員の跋扈など代議者の質の劣化もあるが、国 民の潜在意識における代議制への失望を加速している要因は、実はIT革命(デジタル情報革命)の進行を通じた「直接民主主義は可能かもしれない」という予 感の広がりにある。もし「民主主義」という言葉を純粋に突き詰め「国民の声を正確に反映する政治をすること」に最大の価値を置くならば、情報ネットワーク 技術を駆使して、争点、政策ごとに国民投票のような形で国民の意思を確認することは可能になりつつある。「ネット投票」のごとく、本人認証を的確にして国 民一人一人の政治への直接参加を促すことは技術的に可能という時代を迎えている。少なくとも、送られてきた葉書(投票券)を近所の学校に持って行き、多く の場合面識もない代議者に投票をし、その代議者を通じて国政に参画するという迂遠な手続きを踏むよりも、はるかに民主的意思決定に近づけるかもしれない。

他方、もし「代議制民主主義」における代議者の役割を、単なる国民と意思決定を?ぐパイプ役ではなく、代議者の国民に向き合う見識や指導力 に期待するものとするならば、代議者に求められる要件はより高度なものにならざるをえない。つまり、代議制を残すのであれば、代議者の資質はより厳しく吟 味されねばならないのである。ではどうするべきか。そのための第一歩が「代議者の数の絞り込み」なのである。

現在、日本には衆議院四八〇人、参議院二四二人、合計七二二人の国会議員が存在する。米国の場合、下院四三五人、上院一〇〇人の合計五三五人である。人口が日本の二・五倍であるから、人口比では日本は米国の三・三五倍の国会議員を抱えていることになる。

国会議員の定数削減については、今回の参院選を前にした国会答弁で管直人首相も「衆議院で八〇人、参議院で四〇人、合計一二〇人の削減」を 明言し、自民党も定数削減をマニフェストに掲げている。これでも一七%程度の削減にすぎず、今後の半世紀で日本の人口が二割以上減少するとの予想を考える と、より徹底した定数削減がなされるべきだが、まずは一二〇人の国会議員削減を実現することが肝要である。これだけでも直接・間接の費用を合わせて三〇〇 億円の「代議制のコスト」が削減されるのだ。

実は、市町村合併の進展(平成の大合併)によって、地方の代議者の削減は驚くほど進んだ。市町村の数は一九九九年三月末の三二三二から二〇 一〇年三月末の一七六〇となり、市町村議会の議員数も五・九万人から三・四万人へと二・五万人も削減された。市町村合併には「行政サービスの低下」などの 問題も指摘されているが、少なくとも地方代議員の削減において前進した。次は国会議員の削減である。逆説的だが、政治の究極の目的は政治で飯を食う人を極 少化することである。その中から「職業としての政治」を志す人物が練磨され、真の民主主義の指導者たりうる存在が育つのである。

2010参議院選挙の意味

さて、今回の参院選を「自民党の勝利」というのは間違いであろう。比例区の自民党得票率は前回の三一・四%から二四・一%まで七%も下落し、得票総 数も一四〇七万票に留まった。対する民主党の得票総数は一八四五万票、得票率は前回の四〇・五%から三一・六%にまで下落したが、自民党よりは七・五%も 上回った。自民党の党勢の回復とは言い難いのだ。

それでも、自民党が改選議席を一三議席も上回った理由は一人区における健闘であった。一人区というのは、大都市部ではなく田舎の農村部とも いえる選挙区である。前回は民主党が農業政策などで攻勢をかけ、二三勝六敗と大勝したのだが、この一人区で今回は民主党の八勝二一敗となった。一人区では 第三勢力が候補を立てても勝てる見込みがないため、民主対自民の一騎打ちになるケースが多い。そうなると与党を支持しない票は全て候補者を立てている野党 (今回の場合は自民党)に集中し、票が割れるという事態は起きない。政権党となった民主党に失望した票がすべて自民党候補に向かい、一人区だけで自民党が 一五議席も前回を上回るという事態が生じたのである。

「民主党への失望」は、決して「消費税」を巡る管首相の発言への反発などという表層の次元のものではなく、政権交代から今日に至る民主党の 政策思想の基軸の揺らぎに対する失望であろう。外交安保から財政、経済産業政策に至るまで、マニフェストからの路線変更とぶれが続いている。政権が何を目 指すのかが見えなくなり、「民主党の自民党化」が続いている。政権党の定見の無さはこの国の未来に重苦しい閉塞感を与えており、国民は迷いを経て失望に向 かいつつある。

こうした状況を踏まえた第三極狙いの新党設立ラッシュの中で「みんなの党」だけが一定の支持を得て一〇議席を獲得した。比例区の得票率で一 三・五九%、七九四万票を獲得したが、比例区のトップ当選者の個人名での得票はわずかに八・七万票、しんがりでの当選者の得票は三・七万票であった。一議 席も獲得できなかった国民新党の比例区での総得票は一〇〇・〇万票で、第一位の得票者たる長谷川憲正が郵政関係の組織を基盤として獲得した票が四〇・七万 票だったのと好対照であった。つまり、みんなの党の獲得議席は、候補者個人が支持されたわけではなく、みんなの党という党への漠然たる期待が積みあがった ものだった。

この政党の本質は、その顔ともいうべき渡辺喜美代表の立ち位置をみても分るごとく「行政改革にこだわる保守政党」であり「小泉改革に連なる 新自由主義を政策基調とする保守政党」である。政策の全体像は見えないが、民主党には失望したが自民党に回帰しえない層が「止まり木」として一時的に身を 寄せたというべきであろう。その意味では、保守分裂の中から「保守バネ」の発動として過去にも一時的に支持層を繋ぎ止める装置として機能した河野洋平の 「新自由クラブ」(一九七六年)や細川護熙の「日本新党」(一九九三年)ブームの系譜に位置づけられるべき存在といえよう。

ただし、東西冷戦を背景に「保守対革新」が概ね「資本主義対社会主義」の対立概念の中で鮮明に対照できた時代とは異なり、イデオロギーの終 焉後の「自民党対民主党」は政治思想的な対立軸が消失し、複雑に混在している。つまり政党という政治の上部構造はいかにようにも変容し、合従連衡、再編を 繰り返す可能性を孕んでいるのである。この意味でも代議制は液状化している。

それにしても、その他の新党の結末は惨めだった。平沼赳夫、与謝野馨に石原慎太郎都知事までが参加した「たちあがれ日本」は一二三万票でわ ずか一議席、世論調査で一時は「総理にしたい人第一位」とされた桝添要一率いる「改革」も一一七万票で一議席に留まり、首長連合として山田宏(前杉並区 長)、中田宏(前横浜市長)らが参画した「創新党」は四九万票で議席獲得さえできなかった。国民やメディアの関心が一段と移ろい易いものになっている。新 党の側も必死に差別化を図ろうとし、リーダーの大衆的人気に寄りかかる戦いを進めるのだが、国民の側は熱しやすく冷めやすい。

創造的な政策の選択肢と政策思想の基軸さえ国民に明示できぬ政党と移ろい易い民衆の意識を考えたならば、この国の政治を政局だけに関心のある政治好きの人たちに委ねてはならないとの思いが高まる。それゆえに代議制民主主義の練磨という視点が重要なのだ。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年7月号

咸臨丸一五〇周年に想う—日米関係の位相の変化

万延元年(一八六〇年)、江戸幕府の遣米使節団が太平洋を渡った。日本政府の初めての正式な訪米使節であった。その一八五八年に井伊直弼が結んだ 「日米修好通商条約」の批准書交換が目的で、正使新見豊前守正興、監察小栗上野介をはじめとする一行七七人であった。この使節一行は、米国のフリゲート艦 ポウハタン号(二四一五トン)に送り届けられて太平洋を渡ったのだが、一行を「護衛・随行する」目的で派遣されたのが威臨丸であった。勝海舟、福沢諭吉、 ジョン万次郎といった日本近代史を彩る人物を乗せた六二五トンのこの小船が太平洋を「日本人だけで」往復し、「アメリカを見てきた」ことは、やはり大きな 意味を持つものであった。二〇一〇年四月、私は威臨丸から一五〇年目のサンフランシスコに立ち、日米関係の位相の変化に思いを巡らせてきた。

咸臨丸とは何だったのか

一八五四年、幕府はスクリュー式のコルベット軍艦二隻をオランダに発注した。ペリー浦賀来航の翌年であった。当初は帆船を発注したのだが、三本マス トを残しながら蒸気エンジンでも動くスクリュー式で、帆走・汽走併用型に変更された。完成した船が「ヤッパン号(日本号)」と名づけられ、ロッテルダムを 出航したのが一八五七年三月、オランダ領だったインドネシアのバタビア(現ジャカルタ)を経て長崎に回航されてきた。幕府にとっては、一八五五年にオラン ダ国王から贈られた「観光丸」に次ぐ、二隻目の洋式軍艦であった。

咸臨丸の船体の大きさは、長さ三六・六m、幅八・六mというから、こんな小さな船に武士一九人、水夫六五人、大工鍛冶二人の日本人八六人 と、事情あって乗船することになったロイテナント・ブルーク大尉他米海軍の軍人一〇人の合計九六人もの人間が乗って太平洋を渡ったのだから驚くほかない。 事情とは日本近海に測量目的で来ていた米海軍の船が座礁・沈没し、生き延びた米海軍軍人が帰国の機会を待っていたということで、建前では日本側の配慮で同 乗させたことになっているが、実際は遠洋航海の実績もない日本の乗員にとっては有難い助っ人であった。「日本人だけで太平洋を渡った」という通説も、記録 を調べてみると虚構であり、瀬戸内の塩飽諸島の水夫達を調達して乗船させていたものの、福沢の『福翁自伝』に「牢屋に大地震の如し」と表現されているよう な北太平洋の荒れ狂う波風に苦しめられ、日本人水夫が全くお手上げだった中で、一〇人の米海軍の軍人が活躍して苦難を乗り切ったというのが実態だった。た だし、帰途の復路については、日本人だけの操舵で太平洋を渡ったことは間違いない。

咸臨丸が浦賀を出航したのは一八六〇年二月一〇日(新暦)で、サンフランシスコ着は三月一八日であった。修理を終えて咸臨丸がサンフランシ スコを離れたのは五月八日、滞在期間は約五〇日間であった。その間、一一日遅れて三月二九日に到着した正使一行が四月七日にワシントンに向かうためパナマ に立つのを見送った。咸臨丸に関し、「勝海舟や福沢諭吉もワシントンに行った」と思われがちだが、彼らはサンフランシスコにだけ行ったのである。福沢は七 年後の一八六七年(慶応三年)再び訪米し、ニューヨーク・ワシントンを訪れたが、万延元年の遣米使節においては、サンフランシスコだけを見て帰ってきた。 それでもこの時の勝三七歳、福沢二七歳、若い目線で目撃したサンフランシスコの意味は重かった。

サンフランシスコは一七七六年にフランシスコ派のメキシコ人伝道師によって建設された町であったが、一八四八年に近郊で砂金が発見されてか ら「ゴールドラッシュ」が起き、人口五〇〇人の町が、咸臨丸が訪れた一八六〇年には五・六万人の街へと変身していた。この新興の都市を日本の若きサムライ たちは、カルチャーショックを受けながらも恐るべき好奇心で見て回った。市庁舎、電信施設、造船所、砂糖工場、メッキ工場などに目を見張り、ホテルに絨毯 が敷き詰められていることや女尊男卑の風俗に驚嘆している。

福沢諭吉が米国の建国の父ともいえる「ワシントンの子孫はどうしているのか」と聞き、「知らない」といわれ、「源頼朝、徳川家康のような存 在のはずの子孫が・・・・・」といぶかる姿が 『福翁自伝』に描かれているが、「民主主義の国アメリカ」の衝撃は大きかったであろう。勝海舟も『氷川清 話』でこの時の体験に触れ、「おれがアメリカに行って帰朝した時、御老中から『異国にわたりて、何か眼を付けたことがあろう』と再三聞かれ、『アメリカで は、政府でも民間でも、人の上に立つものは、みなその地位相応に怜悧でございます』と答え、『無礼者』と叱られた」という話を語っている。

余談だが、咸臨丸の最後は悲劇に満ちたものであった。維新後、明治新政府の所有となった咸臨丸は北海道開拓使の運搬船として活動していた。 太平洋往復の頃から故障がちだった蒸気エンジンは除去され、帆船として運航されていた。最後の航海は、仙台の松島湾寒風沢から北海道開拓に向かう三九八人 の白石藩士を乗せ小樽に向かうものだった。明治四年十一月四日、函館から小樽に向けて出航した直後、咸臨丸は激しい暴風雨に襲われて木古内町の更木岬近く の暗礁に乗り上げて破損、沈没した。この時生き残った入植者が開拓したのが現在の札幌市白石区である。オランダで建造され、太平洋を渡った咸臨丸は函館近 くの海でその一四年の短い生涯を終えたのである。この間の事情は、合田一道氏の労作「咸臨丸 栄光と悲劇の五〇〇〇日」(道新選書、二〇〇〇年)に詳述さ れている。

東京お台場の「船の科学館」に五〇分の一に縮尺された咸臨丸の復元模型が展示されている。オランダに残されていた図面を基にオランダで製作 された。西国大名を警戒して五〇〇石船以上の大型船の建造を禁止した江戸時代の「和船」の展示の中に置かれた咸臨丸を見つめ、複雑な感慨を覚えた。

咸臨丸一〇〇年の年としての一九六〇年

今から五〇年前、咸臨丸のサンフランシスコ渡航から一〇〇年という節目の年が一九六〇年、「六〇年安保」の年であった。戦後日本の最も熱い政治の季 節であったといえる。日米安保条約の改定を巡り、「反安保」闘争が盛り上がり、この年六月一五日の「安保改定阻止第二次実力行使」には全国で五八〇万人が デモ行進に参加し、国会前では東大生樺美智子さんが死亡するという事態に至った。六月一九日には新安保・新行政協定が自然成立したが、アイゼンハワー米大 統領の訪日延期、岸信介首相の退陣という異常事態を迎えた。反安保闘争に参加した学生達の空虚な敗北感に西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」が切なく 響いていた。

岸内閣に代わって登場した池田勇人内閣は「低姿勢」で登場し、「所得倍増計画」を打ち出していった。米国でも、一一月にJ・F・ケネディが 新大統領に当選、日米関係も新しい局面に入っていった。一九五一年のサンフランシスコ講話条約で国際社会に復帰した日本は、日米安保条約によって米国との 二国間同盟に踏み込み、西側陣営の一翼を占める形で冷戦の時代を生きるという路線を歩んだ。サンフランシスコの太平洋を見渡すリンカーンヒルに「咸臨丸入 港一〇〇年記念碑」が立っている。咸臨丸が縁で姉妹都市となった大阪市が建立したものである。華やかな除幕式も行われたが、その時は、日米安保を巡る政治 的熱狂の中でも、咸臨丸一〇〇年を想う気持ちが太平洋を挟む日米双方に存在していたとも言えよう。

調べてみると、一九六〇年の日本の輸入の三九%は米国からの輸入、日本の輸出の三〇%は米国への輸出であった。つまり、日本の貿易の三分の 一以上が対米国で成り立っていた。外交・安全保障の関係のみならず経済においても、日米関係の密度が重く存在していた時代であった。一九七一年のニクソン ショックまで、日本円の対ドルレートは一ドル三六〇円に固定されており、多くの日本人はそれが当たり前だと思っていた。

一九六〇年安保改定とは、日本側にとって「日米間の事前協議制の導入」など対米従属性を和らげる方向への条約改定という建前を確保したもの の、実体は、米国側にとって「平時・有事にわたる在日米軍基地の長期・安定的確保」という戦略体制の確立であった。それでも多くの日本人は「東側の脅威に 対して冷戦の時代に生きるためには」という思いで日米安保体制を容認し、六四年の東京オリンピック、七〇年の大阪万国博覧会を経るうちに、「豊かさへの願 望」に傾斜した。

最後の「政治の季節」ともいうべき「七〇年安保闘争」「全共闘運動」の時代はあったが、とても国民的関心を引き付けた運動とはいいがたく、 時代は一段と「経済の季節」に彩られていった。一方で、日米安保体制下の重圧が「基地」という形でのしかかる沖縄という不条理を封印しながら、ともかく物 質的繁栄を求めて我々は歩み続けたのだ。円ドルレートも、気がつけば今や九〇円水準、この五〇年で円の価値は四倍になった。 咸臨丸一五〇年の今

今、我々は「六〇年安保」から五〇年という時点に立つ。改めてサンフランシスコに立ち、日米関係の位相の変化に驚かされた。かつて西海岸を 訪れ、サンフランシスコ、ロスアンゼルスの「ジャパンタウン」「ジャパンビレッジ」を記憶している人ならばその衰退に衝撃を受けるであろう。日本人の存在 感が西海岸から急速に消えているのである。

この一〇年で米国への渡航者は年間二〇〇万人近く減少し、とくにハワイを除く米本土への渡航者は半減した。貿易の関係でも、二〇〇九年の日 本の輸出における対米輸出の比重は一六%、輸入における米国からの輸入は一一%と、一九六〇年時点と比べて約三分の一の比重にまで落ち込んだ。西海岸にお ける日系企業の支店は撤退・閉鎖を続けている。経済の関係、つまり下部構造において日米関係は大きく変化しているのである。

米国の経済人のみならず米国民の中国への関心は急速に高まっており、私が動き回っての実感では、西海岸における中国・韓国・日本の存在感の 比重は「五:三:二」といって誇張ではないであろう。その一つの象徴が、「咸臨丸一五〇周年」を話題にする人が日米双方において皆無だという事実である。

その一方で、外交・安全保障の関係だけが「過剰依存・過剰期待」の関係に埋没したまま、極端な固定観念に凍り付いている。五〇年前、一九六 〇年代の世界認識を引きずったまま、日米安保を既得権益とする人たちに押され、惰性の中で日米関係を「これまでどおりでいいのだ」という状況に自らを置く 日本人に未来はあるであろうか。

歴史的な「政権交代」を経てもなお、「普天間問題」の経緯のごとく、基地と日米同盟の在り方について米国と正面から向き合うのではなく、二 一世紀のアジアの安全保障を配慮した「抑止力」の中身を真剣に吟味することなく、むしろ沖縄の期待を押さえ込むことで進路をとろうとする鳩山内閣とシナリ オを主導した外務省、防衛省の責任は重い。深い歴史観の中で、今を生きる日本人が立ち向かうべき課題が理解できていないのであろう。

咸臨丸の時代を生きた日本人は誰一人として、外国の軍隊を頼りに自国の安全を図るという事態を考えてもいなかった、いわんや敗戦後六五年が経過し、周辺状況がまるで変わっても「自立自尊」を志向しない脳力の虚弱さは悲劇的である。

咸臨丸の時代、そしてそれから一〇〇年後の「六〇年安保」の時代と比べ、日本人が失っていることは自分の身辺的利害を超えて、国や社会の在り方のために立ち向かう気迫である。日本の存在感の低下の本質はここにあるといえる。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年6月号

問いかけとしての戦後日本(その11) 敗戦後のアジア復帰—バンドン会議の意味  寺島実郎

「大東亜共栄圏」が虚構に満ちたものであれ、「アジアの解放」を掲げた戦争に敗れた日本が到達したのは奇怪な形での「アジアの不在」であった。日本 人は、敗戦をあくまでも「アメリカに敗れた」とだけ総括し、決してアジアに敗れたとは受け止めなかった。米国の物量と科学にねじ伏せられたと認識し、アジ アに対しては潜在的優越感を保持するという屈折した心理の中で戦後を生きたといえよう。 温泉にでも浸かっていたほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

入江昭も「観念的には日本人のアジア主義思想は敗北を自覚しなかったのではないか」と述べる(『新・日本の外交』)。 温泉にでも浸かっていたほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

「それは日本人が太平洋戦争の意義にこだわり続けたからであろう。これを日本一国の利益や版図拡大のための侵略戦争だと見ることには抵抗が ある。アジアのための戦いだというフィクションを持つことができれば、かりに戦いには敗れても大義名分が立つ。―――日本指導者はそう考えて『戦闘には敗 れたが戦争には勝った』という自己説得を試みながら、連合国に和平を乞うことになる」という入江の分析は的確であろう。 温泉にでも浸かっていたほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

戦後、欧米の植民地だったインドや東南アジアの国々が独立を果たしたことが、「日本のおかげでアジアの独立が達成された」という虚偽意識を 生み、アジアへの敗北感や責任意識を希薄なものにした。そのことが、戦後日本のアジアとの位置関係を今日に至るまで歪んだものにしていることに気付かざる をえない。 温泉にでも浸かっていたほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

そもそも近代史における日本のアジアに向けた姿勢は「ご都合主義」的に揺れ動いてきた。一八八五年(明治一八年)、福沢諭吉は「脱亜論」を 書き「隣国の開明を待って共にアジアを興す猶予あるべからず」として、西欧との連携を重視する路線への視界を説いた。奇しくも同じ年、樽井藤吉は「大東合 邦論」を書き、アジア主義的議論の基点となった。この二つの論調が微妙に絡み合いながら、糾える縄のごとく日本近代史に絡みついてきたといえる。欧米列強 の植民地化の脅威にさらされたアジアの国としての「親亜」の共鳴を潜在させながら、「富国強兵」路線に自信を深め、日清・日露戦争での戦勝意識を高めるに つれ、自らが新手の植民地帝国として欧米列強模倣の「侵亜」に転じていく過程こそ日本近代史の悲劇であった。基本的には欧米志向、欧米重視の「脱亜」の道 を歩み、欧米との関係に問題を生じると「アジア回帰」を図るという構図を繰り返してきたともいえ、アジアとの関りこそ、日本の国際関係の「鬼門」「トラウ マ」なのである。

バンドン会議の意味

一九五五年四月一八日、インドネシアの首都ジャカルタから一二〇km離れた避暑地バンドンに、インドのネルー首相、中国の周恩来首相、エジプトのナセル首 相、そしてホスト役としてのインドネシアのスカルノ大統領という戦後世界の新興国を率いた歴史的指導者をはじめ、二九カ国のアジア・アフリカ諸国の指導者 が一堂に会した。このバンドン会議(アジア・アフリカ会議)は、戦後という時代を方向付けた重大な会議であった。世界史的にいえば、一九四九年の共産中国 の成立以来、初めて中華人民共和国が国際会議に登場した会議であった。今日ではあまり違和感はないが、米国をはじめ多くの国がまだ台湾の蒋介石政権を中国 の正統政権としていた時代に、台湾が呼ばれない会議ということ自体が新たな局面を象徴していた。事実、周恩来が乗るはずだった飛行機が香港で爆薬を仕掛け られ、ボルネオに墜落するという事件が起き、周恩来は命がけの参加となった。

バンドン会議の主役は、インドであり中国であった。伏線となったのは前年の中印首脳会談であった。一九四九年の中華人民共和国発足以来、 「アジアの植民地解放のための武力闘争」を支援してきた中国が対話路線に転換し、一九五四年、周恩来とネルーの間で「平和五原則」(領土主権の尊重、相互 不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存)を確認したことが転機であった。これを受けて、一九五四年四月末、コロンボで開かれた「コロンボ会議」に参 加した5カ国(インド、インドネシア、パキスタン、ビルマ、セイロン)が「アジア・アフリカ各国間の協力・相互利益、友好の推進」を狙いとする「アジア・ アフリカ会議」の必要性を確認したのである。

バンドン会議は「戦後日本のアジア復帰の舞台づくり」を意図するものではなく、その当時のアジアを巡る国際情勢を投影する政治力学の集結点 だった。このことは宮城大蔵の『バンドン会議と日本のアジア復帰』(草思社、二〇〇一年)に正確に描き出されている。インドのネルーもインドネシアのスカ ルノも実はバンドンへの日本招請には熱心ではなく、むしろパキスタンが日本の参加を促したというのが事実だという。

インドは敗戦直後の日本には温かい目線を送っていたともいえる。一九五一年のサンフランシスコ講和会議にインドは署名しなかった。中立主義 の原則に立ち、「日本に駐留する米軍が引き上げるならば署名する」という条件を出し、米国を驚愕させた。だがその翌年、日本との単独講和に応じてくれた。 これが日本のアジア復帰には重い意味をもったのだが、一方でインドは、米国との同盟に傾斜していく日本への失望を抱いていった。「アジアに冷戦構造を持ち 込ませたくない」というのが中立主義を主導するネルーのメッセージであった。

インドネシアは戦後賠償問題が決着せず、日本招請に積極的ではなかった。スカルノは、日本軍に協力してオランダからの独立戦争を戦うという 立場をとった人間で、戦後「日本軍国主義への協力者」として苦境に立たされたこともあり、日本のアジア復帰には複雑な姿勢をとっていた。また当時のパキス タンは、一九五四年五月に米国との間に相互防衛条約を結び、西側に肩入れする路線をとっており、同じ陣営に立つ日本の参加を優位性確保のための戦略と考え ていた。

複雑な事情・思惑が交錯しながらも、結局のところ日本もバンドン会議に招請されることになった。アジアは日本を忘れなかったのである。戦後復興に邁進しつつあった日本にとって、アジアに地歩を踏み固める第一歩であった。

日本の対応——今日も抱える課題として

招請を受けた日本は、鳩山一郎政権下にあった。サンフランシスコ講和会議によって国際社会への復帰を果したが、それは同時に結ばれた日米安保条約が 象徴するごとく、日米同盟を基軸とする外交路線、いわゆる吉田外交の枠組みの中にあった。一九五五年一月一九日付の朝日新聞は「日本などに招請状、アジ ア・アフリカ会議―――米の了解のうえで、出席決定に政府の態度」という見出しを掲げているが、日本は参加の是非について米国にお伺いを立てたのである。

鳩山外交の本音には、「日米同盟重視」を基軸とする吉田外交と一線を画し、ソ連・中国との国交回復をはじめ「対米自主外交」「アジア関係重 視」という志向が埋め込まれていた。日本の戦後外交の基本構図が既に浮上していた。そして、曲折を経て「対米協調を軸にしたアジア復帰」という了解でのバ ンドンへの参加という形での収斂が図られるのである。

米国は、当初「中立主義と共産中国の影響力拡大」を恐れて日本の参加にも反対の意向であったが、ダレス国務長官の「インド・中国主導となり かねない議論を中和するには親米国の参加が望ましい」との判断で、日本の参加を了解した。それでも、バンドンへの参加に日本の当惑が存在していたことは、 日本代表が、首相でも外相でもなく経済審議庁(後の経済企画庁)長官であった高碕達之助だったことに現れている。

高碕達之助は一八八五年生まれ、水産講習所(現・東京海洋大学)を卒業。メキシコでの水産会社などでの勤務の後、製缶詰工業を研究して東洋 製罐を設立、その後満州に渡り、満州重工業開発の総裁となった。敗戦後日本に引き揚げ、吉田茂に請われ「電源開発」の初代総裁になった。一九五四年に辞任 後鳩山内閣に参画したのである。実績のある経済人であり、「経済からのアジア復帰」を象徴する人物の投入であった。

会議を巡る日本の新聞報道を調べなおしてみると、日本のメディアもその評価に困惑していたことが読み取れる。朝日新聞も会議開催までは、 「日本の立場は微妙―――経済協力に重点、政治的課題は回避」(四月一五日)、「要するに、今回の会議が一方的な見解に引きずられることなく、各国が相手 の立場を理解し尊重する会議となることを希望」(四月一八日社説)と慎重な目線を送っていたが、会議終了後の四月二五日には「会議の意義―――一.一四億 の声を結集、植民地主義への強い反感を示す」というレポートを掲載、「周恩来首相の態度が協調的であったこと」に驚き、「徹底的に敗れ去った日本がどんな 顔をして出てくるか」という意味で日本が注視されていたという印象が語られ、「戦争を避け、平和を求めるアジア・アフリカ一四億の民衆の声が結集された」 とする高揚感あふれる報道がなされている。また、ル・モンド紙の特派員としてロベール・ギランが張り付いており、五月八日付の朝日に「バンドンの日本人 ―――はずかしそうな客」を寄稿している。ギランは、日本がこの会議に現れた目的について、「第一に、新しいアジアの現実を観察すること・・・・・第二 に、貿易すること、商売をやること」と看破している。そして、ネルーの「中立主義」、ナセルの「民族主義」、周恩来の「共産主義」というイデオロギーに対 して、「イデオロギーを持たない日本」は「恥ずかしそうに足音を忍ばせるしかなかった」と述べる。バンドン会議での日本の存在感の無さについて、フランク フルト・アルゲマイネ紙も、「米国によって隔離され、保護された島に咲いたスミレの花」と表現していた。

それでも、バンドン会議は日本にとって「日中国交回復への基点」となった。戦後初の日中政府間の折衝として「周恩来・高碕達之助秘密会談」 が行われたのである。米国・台湾に配慮する外務省は日中の接触を警戒していた。しかし、周恩来は日本との関係改善も意図し、日本語の通訳として日本で生ま れ育った廖承志を通訳として同行していた。四月二二日、周恩来の宿舎で約一時間半の会談は行われた。主に通商の拡大や政府代表機関の相互配置などが話し合 われたという。これが後に日中間の準政府間協定に基づく「LT貿易」へと繋がった。LTとは廖(リアオ)と高崎の頭文字である。正式の日中国交回復にはそ れから一七年を要したが、戦後の日中関係のスタートはバンドンで切られたのである。

思えば、一九五五年、戦後日本がバンドンに登場した頃、アジアは正に「政治の季節」としての熱気を帯びていた。東西冷戦は深まり、「共産主 義・社会主義の脅威」は重く存在していた。また、ネルーの主導するインドの中立主義、ナセルのエジプトのアラブ民族主義も輝きを放っていた。そして今、冷 戦後二〇年が経過したアジアは「経済の季節」としての熱気を放っている。二〇〇九年の日本の貿易総額の五〇%はアジアとの貿易になった。米国との貿易比重 は一三%にまで落ちた。十年後には、アジアとの貿易比重は六割を超すであろう。

ASEANは二〇一五年の「ASEAN共同体」発足に向けて合意を形成し、本年一月にはインド・中国とのFTAを発効させた。日本が「東ア ジア共同体」を持ち出すまでもなく、アジアは先行し動いている。日本においても、米国との同盟外交を基軸としながらも、アジアのダイナミズムと真剣に向き 合い、安定と平和のための新たな構想を実体化させる覚悟が問われていることは間違いない。バンドンから五五年、あの共同宣言が目指した「秩序」は次第に現 実のものとなりつつある。