2012年1月18日水曜日

いま原子力をどう位置付けるのか—より国家が責任を持つ体制を求めて

日本人は「核」と「原子力」を巧みに分けて考えてきた。英語でいえばNUCLEARなのだが、軍事における核(原子爆弾)と民生利用の原子力を分け ることで、被爆国の心理的抵抗を和らげようとしたのであろう。しかし本質的には核兵器と原子力発電は表裏一体であり、核(NUCLEAR)なのである。作 家村上春樹は、六月一〇日にバルセロナでのスピーチで3・11の悲劇に触れ、「福島の原発事故は、私たち日本人が歴史上体験する二度目の大きな核の被害で す」と述べ、「私たち日本人は核に『ノー』を叫び続けるべきだった」とし、「『効率』という安易な基準に流され、大事な道筋を見失ってしまった」と語っ た。注目すべきは、村上は軍事における核も原子力発電も「核」の裏表であることを鋭く認識し、この総体を全否定し、この魔物のような技術から距離をとるべ きだと主張していることである。

福島の現実を直視すれば、このスピーチは心に響くもので決して「非現実的な夢想家」とは思わない。確かに日本には、一九六〇年代敗戦からの 復興・成長の流れの中で、国を支えるエネルギー源に関し、被爆国として核(原子力発電)を拒否するという選択はあった。だが日本はそうしなかった。そし て、一九六六年にわずか一〇〇〇ドルだった一人当たりGDPを三五倍にし、人口を二八〇〇万人増やし、大衆消費社会を作った。原子力発電だけが豊かさを実 現したわけではないが、微妙に絡み合い相関していることも否定できない。今日、時代の空気は「反原発・脱原発」で、「再生可能エネルギーの重要性」を語れ ば拍手が起こるが話はそう簡単ではない。立ち止まり、戻るためにも思考のプロセスが必要なのだ。核というパンドラの箱を開いてしまった者には責任がある。

日本には五四基の原子力発電の原子炉が存在し、その発電総出力は四八八五万kWとなる。しかし、今回の震災を受けて止まっている福島、女川 をはじめ、政府の停止要請を受けて止まった浜岡や定期点検中のものもあり、現実に稼働しているものは一七基一五四九万kWにすぎない。原子力発電所は一 三ヵ月で定期点検に入るが、点検のため停止させた原子力発電所を再開するのも、現下の空気では地元の同意を得ることは容易ではなく、現実的には、長期にわ たり原発の総出力を三〇〇〇万kW台に戻すことは困難であろう。

菅首相就任直後の昨年六月、民主党政権は「エネルギー基本計画」を発表した。注目されたのは原子力の位置づけで、一昨年の政権交代におい て、「原子力発電には反対」を掲げる社民党を連立パートナーとしたため、これが懸案事項だった。結論は、驚くほどの「原子力重視」の、二〇三〇年の目標と して「電源供給の五割を原子力で」という数字になった。自民党中心の前政権でも原子力の比重は「電源供給の三割から四割」であったから、思い切って原子力 に舵を切ったことになる。理由は明確で、「エコロジーのための原子力」、つまり環境政策において「二〇二〇年までにCO2の排出量を九〇年比二五%削減す る」という目標を掲げたため、「CO2排出が少ない」という原子力に比重を置かざるをえなくなったのである。しかしながら福島の事態を受けて、「原子力で 電源供給の五割を目指す」などという目標は霧消したといえよう。新増設一四基どころか、既存原発の定期点検後の稼働も困難となると、最大限で「二〇三〇年 に電源供給の二割」というのが現実的目標値であろう。つまり、原子力は主力ではなく副次的・過渡的電源と位置づけざるをえないのが現実である。

それでも、「日本における原子力の平和利用技術基盤の蓄積は大事である」という論点に私はこだわりたい。本連載の五月号でもこのことに若干 言及したが、「原子力からの脱出」を特集テーマに掲げる本誌読者に、たとえ「脱原子」を目指すにせよ、基本認識とすべき日本にとっての原子力のもう一つの 論点を語っておきたい。

日本の国際責任―――原子力技術基盤を蓄積することの意義

原子力発電を推進してきた先進国において日本はユニークな立場にある。たとえば、「国連の五大国」とされる米、英、仏、露、中は、軍事としての核と 民生としての核を両輪のごとく展開している。これに対し日本は、「非核」という言葉で軍事としての核保有を断ち、平和利用としての原子力にのみ特化してき た例外的な存在である。たとえば、米国はスリーマイル島の事故以来三〇年、原発の増設にライセンスも出してこなかった。我々の常識では「そんな国がよく原 子力の技術基盤を維持できるな」と素朴な疑問を抱きがちだが、軍事分野で原子力の技術基盤を維持できるのである。原子力空母一〇隻は三〇万kW級原発を二 基搭載しており、原子力潜水艦七二隻は五万kW級の小型原発を一基搭載して動かしている。元々軍事目的で開発した「核」を民生転換したのが原子力発電だっ たわけで当然なのだが、日本の場合は、あくまで民生利用だけに特化して原子力の技術基盤の保持に向き合ってきた。

IAEAで、「世界の核査察予算の三割は日本で使っている」という話を聞かされ驚いた記憶がある。確かに、六カ所村の核燃料サイクルの現場 にはIAEAの専門家が三人常駐し、日本中の原子力発電所には「ブルーシール」が張られ、日本人が触れてはならない監視カメラが二四時間作動している。世 界は日本の核武装を疑っているのであり、万一日本が「北朝鮮が核保有するなら日本も」などという方向に向かえば、現在イランや北朝鮮に向けられている世界 の厳しい目線にさらされて孤立の道に迷い込みかねない。現在、日本は軍事としての核を保有していない国で唯一「核燃料サイクル」を国際社会で許容されてい る国である。「核廃絶」を目指す国際的核管理や原子力の平和利用における国際的制御のための中核国際機関としてのIAEAにおける日本の責任は重い。

視点を変えて、アジアをみれば、中国は原子力発電所を既に一三基一〇八〇万kW保有し、二〇三〇年には八〇基八〇〇〇万kWにする計画であ る。韓国も二四基、台湾も六基の原発保有国になろうとしている。福島の事態で見直しも予想されるが、近隣に原子力発電所が林立する可能性は否定できない。 福島が世界を緊張させているのは、海洋汚染を含め日本の国内で完結しないからである。万一、近隣で原発の事故が起これば、それは日本にも波及する問題とな る。その時、原子力の専門家や技術基盤が蓄積されていなければ、日本の役割は極めて低い。国際エネルギー戦略の世界で技術基盤も専門家も無い国が発言力を 持つことなど期待もできない。原子力の平和利用技術、とりわけ安全性に関わる技術は、日本にこそ蓄積されている形としたい。現実に核保有によって恫喝した り、「抑止力」だとする国が存在する世界で、日本が「核の廃絶」や「原子力の安全な平和利用」の国際的議論を主導しようにも、「核を軍事として保有しうる 技術基盤はあるが、決して作らない」という基軸がなければ、夢見る乙女のシュプレヒコールにすぎないのが、国際世界の現実なのである。

「開かれた原子力体制」から新たな「ベストミックス」へ

日本の立ち位置を熟慮して、原子力を一定の比重で維持するにせよ、現在の体制のままで進むことは問題である。原子力だけは極端なリスクを潜在させる エネルギー源であり、福島の教訓を整理して、より国家が責任をもって管理する体制に変えるべきであろう。具体的には、現在は九つの電力会社と日本原子力発 電、Jパワー(電源開発)にいう一一の会社で原子力発電事業を推進する国策民営体制をとっているが、原子力だけは電力事業者から分離統合し、一つの国営企 業によって管理運営する体制(国策統合会社)を志向すべきである。

主な理由は三点ある。一つは原子力技術者・専門家の分散という問題である。現在、原子力工学の卒業者が三・五万人、うち電力事業者に約九千 人が働いているが、それらを統括管理できる体制にはなっていない。とくに福島のように「多重防御」が破綻した緊急事態に対応する専門家による戦略体制を個 別電力事業者に期待することには限界がある。二つは個別の電力事業者では「自社内の効率性と経済性追求」という壁を乗り越えられないことである。たとえ ば、「廃炉」の判断にも安全投資にも経営とのバランスが優先されてしまう。三つは経営リスク限界を超えた賠償責任、福島の賠償スキーム議論を考えても、一 〇兆円を超す無限賠償責任が数十年に亘って発生する可能性を抱えた事業を、公開上場企業で抱えることができない。

日本も原子力安全委員会と経産省管下の保安院とを統合し、米国のNRC(原子力規制委員会)のようなものを作って規制を強化し民間会社体制 でやればいいと考える人も多いが、ペンタゴン(国防総省)が参画主導して、軍事と民生を一体化させた核管理を進める意思を内在させているNRCと日本の原 子力規制の行政体制は本質的に違う。日本はむしろフランス型の「EDF-AREVA体制」(国営による燃料確保・原子力発電・再処理などサイクル全般の統 合管理)を目指すべきであろう。

平和利用に徹している国だからこそ、国が責任をもって管理する体制で原子力と向き合うべきなのだ。ただし、国策統合会社などを作れば非効率 な「親方日の丸」の会社ができるだけとの批判には耳を傾ける必要がある。そこでIAEAとの信頼関係をベースに思い切り「開かれた原子力」という体制の確 立を主張しておきたい。経営陣が日本人だけである必要はない。また平和利用に徹して原子力発電を求める新興国の出資を招いてもよい。アジア広域の核燃料サ イクル(再処理)を共同で運営する体制を目指すことも検討されるべきだ。福島の苦渋の体験さえも的確に伝え共有する「開かれた原子力」を目指さなければ、 「原子力発電のシステム輸出」など期待すべくもない。もし将来、日本国民の合意が熟慮の決断で「脱原発」に向かうにしても、国家管理を強める体制に移行し ておくことは意味のある一歩であろう。

菅首相はG8サミットに際して「二〇二〇年代の早い段階で電源供給の二割を再生可能エネルギーで」という数値目標に言及した。ただしこの数 字は中途半端な目標値である。昨年のエネルギー基本計画でも「二〇三〇年に再生可能で二割」という目標を掲げており、それを一〇年前倒しした程度である。 無論、現在約九%にすぎないことを考えるとこの目標達成さえ容易ではないが、日本のエネルギー体系を変えざるをえない状況に直面していることを考えるなら ば、ドイツの目標並みの三割以上にする決意が必要であろう。 私は一九七〇年代のエモリー・ロビンスの「ソフト・エネルギー・パス」の頃から再生可能エネルギーの探求し、オバマの「グリーン・ニューディール」につい ては共著(NHK出版、二〇〇九年)を出した。「小型分散にすぎない」と軽視されてきた再生可能エネルギーも情報ネットワーク技術革命を背景にして「ス マート・グリッド(次世代双方向送電網)」による体系的運用が可能になりつつあり、過渡的なコスト高を乗り超えれば地平が拓けると思う。化石燃料の効率的 利用、省エネルギー技術の進化を含め、原子力比重の低減を視界に入れた新たな「ベストミックス戦略」が構想されねばならない。

関東大震災直後『東洋経済』一九二三年一〇月一日号の社説に石橋湛山は「此の経験を科学化せよ」と題する論稿を寄せている。想像を絶する被 災を前にして、恐怖と不安に駆りたてられた情緒的議論が勢いを得る中で、石橋は理性的政策論をもって事態と向き合おうとしていた。理性と技術こそが希望と いう意味において、私もこの視座を共有したい。

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