2012年1月18日水曜日

9・11から10年—迫る日本外交の転換点

ニューヨーク、ワシントンを襲ったあの同時テロの衝撃から一〇年が経った。ブッシュ大統領は衝撃の中で「これは犯罪ではなく戦争だ」と叫び、アフガ ニスタン、そしてイラクへと「戦争」というカードを切り、突入した。「報復戦争」という文脈では、本年五月一日にテロの首謀者とされたウサマ・ビンラディ ンをパキスタンで殺害し、一つの区切りをつけたかに見える。

だが、結局はこの9・11という事件が、「アメリカの世紀」といわれた二〇世紀の終わりを象徴するものであったという思いを込めて総括して おきたい。そして、自分自身が国際関係に関わる論者として、この一〇年間発言してきたことも含めて、二一世紀初頭の世界を再確認しておきたい。

二つの数字を見つめて

ため息をつきながら二つの数字を見つめている。石油価格と円ドルレートである。二〇〇一年九月一〇日、あの9・11の前日、石油価格(WTI)は バーレル二七・六ドルであり、円ドルレートは一三四・九円であった。現在、WTIは若干下がったとはいえ八五ドル前後であり、円ドルレートは七七円前後に なっている。つまり、この一〇年間は「石油が三倍になり、ドルの価値が円に対して四割以上も下落した一〇年」だったというわけである。

「イラク戦争は石油のための戦争だ」と解説していた論者もいたが、あまりに単純な見方であるにせよ、「バグダッド陥落」などを「産油国イラ クを抑えることはアメリカの国益」とする潜在意識が米国民の中に存在したことも事実であった。ところが、一〇年たって突きつけられている「三倍にもなった 石油代金と惨めなまでのドルの下落」という現実をどう整理すればよいのか、米国民の失望と苛立ちは想像に難くない。

この一〇年の米国の消耗はあまりにも悲惨である。二〇一一年八月一六日現在、アフガニスタンとイラクで六一五三人の米国の兵士が死んだ。こ の数は、9・11での犠牲者数二九八二人(WTCでの死者二七四九人にペンタゴンでの死者などを加え)の倍を上回るものとなった。無論、米国人の死者だけ ではない。9・11後のアフガン攻撃、イラク戦争によるイラクとアフガンにおける戦闘・テロによる死者は、どんなに少ない推計でも二〇万人を超す。

若者を死なせただけではない。米国は累積一・三兆ドルという戦費をイラク・アフガニスタンで費やした。ノーベル賞受賞経済学者J・E・ス ティグリッツが予言していた「三兆ドルの戦争」は現実のものとなった。これから撤退までにかかるコスト、さらには負傷して帰還した兵士のケアや処遇などを 考えると、途方もないコスト負担を抱え込んだといえる。正に消耗の果てに、米国はイラク・アフガニスタンを去ろうとしているのである。

テロとの戦争の代償

六月二二日、オバマ大統領は「二〇一四年までのアフガニスタンからの完全撤退」を明らかにする演説を行った。「米国は自国の国造りに集中すべき時 だ」というオバマの言葉は現在の米国を象徴する表現といえよう。世界の警察官のごとく「テロとの戦い」を掲げて進軍した結末は、あまりにも大きな代償を米 国に迫っている。

八月二日に米国が債務不履行になるのではとして注目されたが、直前のオバマ大統領と議会との合意で「債務上限を、現在の一四・三兆ドルから 二・一兆ドル引き上げる」ことによって最悪の事態は回避された。だが「二・一兆ドルの財政赤字削減を実行する」という条件付であり、超党派の特別委員会 が、一一月までに具体的削減策を提示するというのである。

米国の財政赤字の増大は、二〇〇八年のリーマンショックを受けた景気対策としての「財政出動」で加速されたとはいえ、重くのしかかっている のは軍事支出である。クリントン政権最後の年であった二〇〇〇年度の軍事予算は、冷戦の終焉を受けて二九四五億ドルにまで圧縮されていた。「平和の配当」 といわれ「軍民転換」が時代潮流となっていた。

ところが、9・11を経て、「テロとの戦い」を掲げるブッシュ政権は軍事予算を増加させ続けた。アフガニスタン、イラクへと戦線が拡大する につれ軍事予算も増大、ついに二〇一〇年度には七二八〇億ドルにまで肥大化した。オバマ大統領はこの軍事費を「今後五年間で一兆ドル削減する」方針を昨年 から語りはじめ、議会も外交・軍事委員会の動きをみる限り、より徹底した「粛軍」(軍事費の圧縮)を求めている。まさに「内向するアメリカ」に向かわざる をえない構造が明確になっている。

こうした状況を受けて、格付け会社のS&P(スタンダード・プア社)は米国債の格付けを引き下げ、そのことがさらなる「ドル安・株 安」を誘発する事態となっている。もちろん、進行するドル安には米国の財政赤字や経済の先行き不安という要素もあるが、国際的に見れば「構造的なドル需要 の低下」という問題が重く横たわっている。例えば、産油国の石油決済通貨も次第にドル下落リスクを回避するために「通貨バスケット方式」に変わりつつある し、東南アジアの国々も拡大する中国との貿易決済に、「ドル下落リスクを避けるため」に強含みの人民元を選好する傾向が高まっている。これらはすべてがド ル需要の下落とドル安誘導をもたらすのである。この一〇年間の世界史のゲームを集約するならば、総じて、悲しいまでの「超大国米国のプレゼンスの低下」を 指摘せざるをえない。

「アラブの春」の本質

昨年一二月のチュニジアの「ジャスミン革命」に始まり、エジプトのムバラク政権を倒し、バーレンやオマーンなど湾岸産油国を揺さぶり、リビヤやシリアの専 制政権を追い詰めた一連の中東の激動を「民主化」などという単純な文脈で理解すべきではない。それぞれの背景があり、理由がある。たとえば、エジプトの政 変などは「民主革命」というより、軍部によるムバラク追放劇であり、背後にギリギリの秩序維持を図る米国の思惑が見て取れる。その意味で、決して中東は一 つではない。

ただし、この一連の中東における変動の基盤に「米国のプレゼンスの低下」という要因が横たわっていることは確かである。一九六八年に大英帝 国がスエズ運河の東側から引きさがったという事態が起こったが、それに匹敵するような構造変化が起こっているといえよう。それは、大英帝国に代わって中東 に覇権を確立してきた米国の中東からの後退によって、中東の秩序が融解し「覇権なき中東」に向かっているということである。

昨年一〇月号の本連載(「脳力のレッスン102、米主力部隊のイラク撤退―――『覇権なき中東』の除幕」)において、私は中東の基底に進行 するこの構造変化に言及した。それは昨年の八月、アブダビで行われた中東協力現地会議(窓口、(財)中東協力センター)に報告者の一人として参加して、中 東情勢の深層底流に進行する変化を予感したからであった。

まさにその八月、オバマ政権は「五万人の訓練部隊を残したイラクからの撤退」を開始した。米国の中東を束ねる力の後退が歴然としていた。加 えて、米国を震源地とするリーマンショックから二年、景気後退を懸念する米国、および先進各国はこぞって超金融緩和という政策を続け、だぶついた資金がエ ネルギー・資源市場に入り、価格の高騰を誘発していた。とくに、中東諸国の貧しい民衆層にとっては「食料価格の高騰」という形で生活を圧迫していた。「中 東民主化」の民衆運動に火が付いた要因は単純には決めつけられないが、多くの場合、食料価格の高騰や失業などの不満が反政府運動の下地になっていたことも 否定できない。

静かに透視すれば見えてくるが、中東の秩序の中核に、四〇年以上も岩盤のごとく存在してきた米国という重石が揺らぎ始めているのである。

イラク・アフガンからの後退だけではない。冷戦期から、「ホワイト・トライアングル」といわれ、米国の中東戦略の中核であった「イスラエ ル、エジプト、サウジアラビア」という三角が思うに任せぬ状況になっている。 米国のイラク進攻が、イランにアハマディネジャド政権という保守強硬派政権を成立(二〇〇五年六月)させ、それに対する反発という力学で、イスラエルには 中東和平路線を拒否する右派ネタニヤフ政権を発足(二〇〇九年二月)させてしまった。ブッシュ政権からオバマがバトンを受けた時には、中東は米国にとって 一段と制御困難な事態となっていた。

また、エジプトの混乱の中で盟友として「持ちつ持たれつの関係」にあったムバラク政権を見限ったことは、サウジアラビアの対米不信と猜疑心 を複雑なものにした。サウジアラビアこそ米国の中東政策における「ダブル・スタンダード(二重基準)」の象徴であり、「民主化なのか専制下の安定なのか」 という選択の中で、常に「親米であれば専制独裁も支持する」という矛盾が凝縮されている存在である。 思えば、9・11の実行犯とされる一九人のテロリストの内一五人は、サウジアラビアのパスポートで入国していた。ビンラディンもサウジアラビア人であっ た。なにやら、米国の中東への地域戦略における積年の矛盾が噴き出ている感がある。

さまざまな事情を引きずった「中東民主化」のうねりではあるが、基底に在るものは「米国の後退」である。ただ、その中で中東の人々の意識の 変化にも気づかざるをえない。大国の横暴に振り回されてきた、一九世紀以来の中東の歴史に終止符を打って、自らの運命を自ら切り拓こうとする「自立自尊」 の意思のようなものの芽生えを強く感じるのである。

自らの一〇年を振り返って

時代と並走する者として、「その時、どのように時代認識をとり発言していたか」は重要である。時代は尺取虫のように議論されるべきで、場当たり的な 無責任な議論を排していかねばならない。つまり、9・11後の一〇年を論ずるには、自分自身の議論をも含めた、厳しい検証という視座が求められる。

9・11という事件は、ちょうど冷戦が終わって一〇年という時点で発生した。つまり、ベルリンの壁が崩壊したのが一九八九年、ソ連という国が崩壊したのが一九九一年であり、「冷戦後」という時代が一〇年経ったところで発生したのである。

二〇〇一年十一月号の『中央公論』に、私は「世界の深層底流は何か」と題する寄稿をした。まさに9・11直後の論稿であり、実はこの原稿の大部分は、あの日の夕刻に成田に着いたパリからのANA便の中で書いたものであった。

私は直前の欧州体験で実感したブッシュ政権下の米国への懸念を「不吉な予感」と表現していた。「アメリカ・ファースト」を掲げて登場したブッシュ政権の自国利害中心主義に不安を感じたからである。

環境問題における京都議定者からの離脱、CTBT(包括的核実験禁止条約)の批准拒否、国連小型武器会議における取引規制反対など、世界の 問題についての利害調整をリーダーとして主導する意思を放棄するかのごとき姿勢が目立っていた。「冷戦の勝利者」となって一〇年、米国の利害だけを優先さ せ、米国流の資本主義の世界化を「グローバル化」として推進する驕りと緩みを感じ取ったのである。

不幸にして、その間隙を衝かれるごとく9・11が起こった。動転した米国は「戦争」というカードを選択してアフガン・イラクに進攻した。

二〇〇三年四月号の本誌に、私は「『不必要な戦争』を拒否する勇気と構想―――イラク攻撃に向かう『時代の空気』の中で」を寄稿し、イラク 攻撃に向かう米国の論理の危うさとして「米国にとっての正義を軍事力への過信で実現しよう」というブッシュ政権を動かす「ネオコン」(新保守主義)の論理 の問題点を批判し、日本の選択として、過剰にネオコンの論理に引き込まれることなく、不条理な戦争に距離を取るべきことを主張した。

不幸にして小泉政権下の日本は「対米協力」を本音とする「国際協力」という建前で、イラクにまで自衛隊を送るという選択をした。この選択が日本の中東外交の汚点となったことは、既に歴史が証明した。

世界史の本質的変化

我々は、目撃している世界史のゲームの本質的変化の意味を理解しなければならない。二一世紀初頭の一〇年の経過の中で、世界が確認したことは、イデ オロギーの対立とされた冷戦の半世紀を経て、「唯一の超大国となった米国の一極支配」と思われた世界秩序が、「多極化」どころか、「極構造」などという認 識を超えて、「無極化」とでもいうべき全員参加型秩序に向けて動いているということである。「ドル基軸体制の行き詰まり」などはその潮流の部分現象にすぎ ない。

さて、この全員参加型秩序のへの変化の中で、日米二国間同盟だけを唯一の基軸として戦後なる時代を生きてきた日本は、いつ新しい時代の問いかけに気づくのか、誤魔化すことのできない転換点が迫っている。大震災を受けた「極端な内向」から脱すべき時である。

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