2011年2月13日日曜日

連載「脳力のレッスン」世界 2010年10月号

米軍主力部隊のイラク撤退—『覇権なき中東』の序幕   寺島実郎

二〇一〇年八月、ついに米国はイラク駐留の主力部隊の撤退を開始した。五万人の訓練部隊は当面残るが、それも二〇一二年には全面撤退となる。〇三年 三月のイラク戦争開始から七年、憔悴の中で米国はイラクからの撤退を余儀なくされたということである。開戦から本年七月末までの米軍兵士のイラクでの死者 は四四〇五人となった。アフガニスタンでの米軍兵士の死者一一〇五人と合わせて、9・11後の展開で、五五〇九人もの米国の若者が犠牲になったということ である。この数は9・11におけるワールド・トレードセンター、ペンタゴンを含む犠牲者総数とされる二九八二人を大きく上回り、アフガン、イラクを合わせ た米軍の戦費の総額も二兆ドルに迫るものとなり、最終的には三兆ドルになるとの見方もある。「米国の正義を力で実現する」として突っ込んだテロとの闘いの 代価はあまりにも大きく、米国の苦悩は深い。

「覇権なき中東」への展望

これだけの犠牲を払ったイラク戦争がもたらしたものは何であろうか。それは皮肉にも「イランの強大化とその制御への苦闘」という構図である。一九六 八年に大英帝国がスエズ運河の東から後退した後、代わって湾岸に覇権を確立した米国は、イランのパーレビ体制を「湾岸の警察官」として支えた。だが、七九 年のホメイニ革命によってイランへの影響力を失った米国は、「敵の敵は味方」の論理で隣国イラクのサダム・フセインを支援しイラン・イラク戦争を戦わせた ものの、サダム・フセインの増長を招き、イラクのクウェート侵攻後の湾岸戦争、そして9・11後のイラク戦争とサダムを自らの手で葬り去るという皮肉な戦 いを余儀なくされたのである。

ところが、イラク戦争はイラクをシーア派主導のイラクへと追いやり、気がつけばペルシャ湾の北側に巨大なシーア派のゾーンを形成することに なった。つまり、シーア派イスラムの中核ともいえるイランの潜在的影響力を最大化する展開に帰結したのである。イラクという国は、人口的にはシーア派が多 数派を占め、北部のクルド族問題を抱えたモザイク国家であり、英国が人為的に線引きしたことによって成立した国である。「イラクの民主化」などといってサ ダム専制体制を倒したものの、「シーア派主導の制御不能の分裂国家」を生み出したのである。

米国がイランの核保有に恐怖心を深めイラン制裁に執着する理由も、強大化するイランを制御しないと、いつ米国を襲うかもしれない「イスラム 原理主義の核」の脅威にさらされるからである。だが、米国がイランの核武装を排除しようとするほど、宿命的に絡みつく「イスラエルの核」に対する米国のス タンスの矛盾、二重基準問題が炙り出される。つまりイスラエルの核は容認し、イランの核は否定する論理の矛盾である。

実は、米国とイスラエルの間には「一九六九年のニクソン・メイヤ秘密了解」が存在する。「イスラエルは核保有宣言せず、イスラエルにNPT 加入要求せず」というものである。つまり、イスラエルの核保有を容認してきた米国がどこまで本気でイスラエルを制御できるかが、イラン制裁を巡る注目点 だったのである。オバマ政権は、六月の国連安保理のイラン制裁決議(決議1929)に先立つ五月、国連NPT会議を主導し、「核なき世界」への一歩として NPT会議最終文書の採択に踏み込んだ。内容は「①『中東の非核化』に向けた会議の二〇一二年開催、②IAEA機能強化(未確認の核関連施設を抜き打ちで 査察できる『追加議定書』重視)」などであり、イスラエルを含む「NPTの普遍化」に真剣であることを示したもので、二重基準を解消して「中東の非核化」 を実現する意思を見せたといえる。

だが、話は単純ではない。強硬派のネタニヤフ政権を抑えることは容易ではない。国際政治の力学は微妙で、ブッシュ政権時の米国の「力こそ正 義」のネオコン路線が、反作用としてイランに保守派のアハマディネジャド政権を生み、さらに「力の論理が力の論理を誘発」する形で、イスラエルにも強硬派 政権を生んだ。イランとイスラエルの二つの強硬派政権に「協調と対話」路線のオバマが向き合う構図はあまりに皮肉である。

加えて、オバマ政権になってからの昨年十二月に七万人の増派を決めたアフガニスタンについても、とても秩序回復などといえる局面ではなく、 タリバンをはじめとする敵対勢力は二〇一一年からと明言された米軍の撤退を静かに待っているという状態であり、「出口戦略」を模索する米国の姿勢が見透か された形になっている。間違いなく、中東における米国のプレゼンスは崩れはじめている。つまり、大英帝国のペルシャ湾岸撤退と同じような構造変化が進行し ようとしているのである。ただし、大英帝国に代わって米国が湾岸における覇権を確立した一九七〇年代以降の展開と現下の情勢は全く違う。米国に代わって中 東に覇権を確立する国が登場するとも思えないからである。

情勢は複雑である。確かに、このところの中国の中東への強勢外交が注目される。本年五月には、「中東・アラブ協力フォーラム」の第四回閣僚 級会議を天津で開催、アラブ連盟加盟二二カ国との関係を深め、六月には湾岸産油国との「中国・GCC戦略対話」を北京で開催した。また、六万トン級の空母 建造など外洋海軍の拡充に力を入れ、ソマリア沖の海賊対策へのミサイル巡洋艦派遣などをインド洋への恒常的海軍展開への契機とするかのごとき動きを見せて いる。イランとの関係も緊密で、昨年も日量四八万バレルもの原油を輸入している。ただし、中国も国連のイラン追加制裁に賛成し今年に入ってイラン原油の輸 入を大幅に縮小させ始めており、中東諸国に対しても「中国の野心への警戒心」に配慮するような路線も見せ始めている。中国の覇権などといえる情勢ではな い。

また、ロシアの動きも微妙である。石油や原子力の分野でイランとの関係を保持しているロシアなのだが、中国とともに国連安保理のイラン追加 制裁に賛成し、このところイランとの関係を表面的には冷却させている。六月にタシケントで行われた上海協力機構の首脳会議では「国連制裁下にある国の加盟 を認めない」とする加盟規約を採択し、オブザーバー参加してきたイランの正式加盟を拒否する姿勢を示した。イラン制裁に執念をみせる米国に配慮した形であ る。何故、ロシアがイラン制裁に賛成したのか。あえていえば、二〇〇八年夏のグルジア侵攻・リーマンショック後二年間の教訓とでもいうべきであろう。ロシ アに対する世界の不信がロシアからの資本引上げを招き、ロシア経済が大きく落ち込むという事態を経験し、グローバル化した経済に身を置く中での孤立の怖さ をロシアも再認識したというべきであろう。

米国も影響力を維持するあらゆる戦略を模索するであろう。「米イラン国交回復」でさえある時期が来ればありえないことではない。「覇権交 代」や「覇権抗争」という視点では捉えきれないほど、様々な国や主体が複雑に中東に絡み合う構造に移行していくのであろう。ロシア、中国に加えインドやブ ラジルまでも中東でのゲームに参入しつつある。もちろん、英国、仏、独は歴史的関係を背景に深く中東と関っている。ただ、我々は中東諸国が基本的に「大国 の介入」を望まなくなっていることに気付かねばならない。イラク戦争後のイラクが見せた対応が象徴的である。敗戦国でありながらイラクは驚くほど自尊心に 満ちた姿勢で占領国米国と向き合った。米軍の長期駐留を拒否し、イラク駐留の米軍基地の地位協定において「近隣国への軍事行動のための使用を拒否する」な どの主張を貫いたのである。大国の利害に翻弄されてきた中東は、湾岸産油国を含めて強い自立自尊への志向を強めつつある。

新しい中東情勢と日本

八月九日・一〇日とアブダビで開かれた中東現地協力会議に、基調講演者の一人として参加した。これは石油危機を受けて興銀の中山素平氏や日本貿易会 の水上達三氏等が中東産油国と日本との交流のためにスタートさせたもので、(財)中東協力センター(奥田碩会長)を窓口に今年で三五回目となる。今年は日 本から官民合わせて三〇〇名を超す参加者が集まった。私にとってはイラク戦争開始直後の〇四年以来五度目の参加であり、中東地政学の構造変化についての報 告を行った。

強調したのは「米国の後退と覇権構造の終焉」という時代潮流の中で、日本は新たな中東との位置関係の再設計を余儀なくされるという点であっ た。米国の軍事的プレゼンスを前提に中東に関ってきた日本にとって、それは新たなる試練である。一九七三年の石油危機に際しての「中曽根油乞い外交」以 来、日本の中東政策は「石油モノカルチャー」とでもいうべき性格を帯びてきた。現在でも、日本は石油の九割、天然ガスの三割を中東に依存しており、それは 一次エネルギー供給の五割を中東に依存しているということである。

この数字がこれからの一〇年で大きく変わることになるであろう。ロシア要素である。サハリンプロジェクトとシベリアパイプラインの本格稼動 によって、石油の中東依存は六割台へ、一次エネルギーにおける中東依存は、石油比重の低下も加わり三割以下にまで低下すると予想される。つまり、中東にお ける「脱・米国」とエネルギーにおける「脱・石油」という事態に直面していかざるをえないのである。

それは日本にとっての中東の重要性が低くなることを意味しない。石油モノカルチャー的視界から脱皮した新しい中東との関係が問われるという ことである。私は日本の役割がより強く求められる局面だと考える。中東外交に関して、日本は他の先進国とは違う立ち位置を確保できる歴史を積み上げてい る。中東のいかなる国に武器輸出をしたこともなければ、軍事介入したこともない唯一の先進国である。 その意味でも、イラク戦争に関して自衛隊を派遣したことは悔やまれるのだが、「治安活動はしない」という枠組みで国際法上は正規の軍隊である自衛隊を派遣 するという奇妙な派遣であり、中東諸国にも奇異な印象を与えるが軍事的野心を示す性格のものとは受け止められていないのが救いである。

また、欧米諸国が「ユダヤ人問題」において歴史的な国内事情を抱え、パレスチナ紛争に中立的ではいられないのに対して、日本は紛争当事者の どちらかに肩入れしなければならない必然性はない。また、イラン問題に関しても、ホメイニ革命以降も外交関係を維持してきており、断交を続けてきた米国と は違う立場で関ることが可能である。原子力の平和利用を巡る国際ルール作りをリードし、非核保有国としてイランの核保有を諌め、孤立を深めるイランと国際 社会のパイプ役として一味違う役割を果しうるのである。

こうした「非政治性」という文脈も含め、中東諸国の日本への期待は極めて大きい。何よりも日本の技術力への評価である。例えば化石燃料から 原子力、再生可能エネルギーまで、エネルギー関連技術である。あまり知られていないが、(財)国際石油交流センター(JCCP)が中東産油国の石油関連技 術の研修のために日本に招いた研修生は一・九万人にもなり、産油国側の評価も高い。また、産油国も石油資源枯渇後の戦略を注視し始めており、原子力や太陽 光・太陽熱などのプロジェクトに真剣になりつつある。さらに、産業開発や生活の高度化に伴う水需要の増大に伴い海水淡水化など水プロジェクトの重要性が高 まり、日本の水関連技術への期待は大きい。覇権を求めぬ「非政治性」と技術力における日本の個性を認識し、中東諸国の日本との高等教育や医療分野での人的 交流を求める声も大きく真剣である。「覇権なき中東」に向かう大局観の中で、日本を際立たせる好機である。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年9月号

代議制民主主義の鍛え直しへ—2010参議院選への視点   寺島実郎

劇的な「政権交代」をもたらした二〇〇九年夏から約一年、参議院選挙は「与党大敗」という結果に終わった。「ねじれ国会」を選択した国民世論、揺らぎの中で実は政治の底流における「代議制民主主義」そのものの機能不全が浮かび上がる。

代議制民主主義の練磨

いうまでもなく日本の政治は「代議制民主主義」をベースにした「議員内閣制」を採用している。国民が政策決定に参画する直接民主制ではなく、代議者 を通じた間接民主制による意思決定を行っているわけだ。政治学では、「ギリシャやローマのような声が届く範囲での意思決定ならば、タウンミーティングのよ うな形での直接民主主義は可能だが、大衆が政治に参画する近代民主制においては、国民と意思決定を?ぐ代議者の存在が必要」という認識が定着している。そ して、この仕組みがこの国の意思決定において最適とはいえなくとも妥当な合意形成をもたらすという幻想が成立してきた。

だが、代議制を通じて適切な意思決定ができるという確信は揺らぎつつある。二世議員やタレント議員の跋扈など代議者の質の劣化もあるが、国 民の潜在意識における代議制への失望を加速している要因は、実はIT革命(デジタル情報革命)の進行を通じた「直接民主主義は可能かもしれない」という予 感の広がりにある。もし「民主主義」という言葉を純粋に突き詰め「国民の声を正確に反映する政治をすること」に最大の価値を置くならば、情報ネットワーク 技術を駆使して、争点、政策ごとに国民投票のような形で国民の意思を確認することは可能になりつつある。「ネット投票」のごとく、本人認証を的確にして国 民一人一人の政治への直接参加を促すことは技術的に可能という時代を迎えている。少なくとも、送られてきた葉書(投票券)を近所の学校に持って行き、多く の場合面識もない代議者に投票をし、その代議者を通じて国政に参画するという迂遠な手続きを踏むよりも、はるかに民主的意思決定に近づけるかもしれない。

他方、もし「代議制民主主義」における代議者の役割を、単なる国民と意思決定を?ぐパイプ役ではなく、代議者の国民に向き合う見識や指導力 に期待するものとするならば、代議者に求められる要件はより高度なものにならざるをえない。つまり、代議制を残すのであれば、代議者の資質はより厳しく吟 味されねばならないのである。ではどうするべきか。そのための第一歩が「代議者の数の絞り込み」なのである。

現在、日本には衆議院四八〇人、参議院二四二人、合計七二二人の国会議員が存在する。米国の場合、下院四三五人、上院一〇〇人の合計五三五人である。人口が日本の二・五倍であるから、人口比では日本は米国の三・三五倍の国会議員を抱えていることになる。

国会議員の定数削減については、今回の参院選を前にした国会答弁で管直人首相も「衆議院で八〇人、参議院で四〇人、合計一二〇人の削減」を 明言し、自民党も定数削減をマニフェストに掲げている。これでも一七%程度の削減にすぎず、今後の半世紀で日本の人口が二割以上減少するとの予想を考える と、より徹底した定数削減がなされるべきだが、まずは一二〇人の国会議員削減を実現することが肝要である。これだけでも直接・間接の費用を合わせて三〇〇 億円の「代議制のコスト」が削減されるのだ。

実は、市町村合併の進展(平成の大合併)によって、地方の代議者の削減は驚くほど進んだ。市町村の数は一九九九年三月末の三二三二から二〇 一〇年三月末の一七六〇となり、市町村議会の議員数も五・九万人から三・四万人へと二・五万人も削減された。市町村合併には「行政サービスの低下」などの 問題も指摘されているが、少なくとも地方代議員の削減において前進した。次は国会議員の削減である。逆説的だが、政治の究極の目的は政治で飯を食う人を極 少化することである。その中から「職業としての政治」を志す人物が練磨され、真の民主主義の指導者たりうる存在が育つのである。

2010参議院選挙の意味

さて、今回の参院選を「自民党の勝利」というのは間違いであろう。比例区の自民党得票率は前回の三一・四%から二四・一%まで七%も下落し、得票総 数も一四〇七万票に留まった。対する民主党の得票総数は一八四五万票、得票率は前回の四〇・五%から三一・六%にまで下落したが、自民党よりは七・五%も 上回った。自民党の党勢の回復とは言い難いのだ。

それでも、自民党が改選議席を一三議席も上回った理由は一人区における健闘であった。一人区というのは、大都市部ではなく田舎の農村部とも いえる選挙区である。前回は民主党が農業政策などで攻勢をかけ、二三勝六敗と大勝したのだが、この一人区で今回は民主党の八勝二一敗となった。一人区では 第三勢力が候補を立てても勝てる見込みがないため、民主対自民の一騎打ちになるケースが多い。そうなると与党を支持しない票は全て候補者を立てている野党 (今回の場合は自民党)に集中し、票が割れるという事態は起きない。政権党となった民主党に失望した票がすべて自民党候補に向かい、一人区だけで自民党が 一五議席も前回を上回るという事態が生じたのである。

「民主党への失望」は、決して「消費税」を巡る管首相の発言への反発などという表層の次元のものではなく、政権交代から今日に至る民主党の 政策思想の基軸の揺らぎに対する失望であろう。外交安保から財政、経済産業政策に至るまで、マニフェストからの路線変更とぶれが続いている。政権が何を目 指すのかが見えなくなり、「民主党の自民党化」が続いている。政権党の定見の無さはこの国の未来に重苦しい閉塞感を与えており、国民は迷いを経て失望に向 かいつつある。

こうした状況を踏まえた第三極狙いの新党設立ラッシュの中で「みんなの党」だけが一定の支持を得て一〇議席を獲得した。比例区の得票率で一 三・五九%、七九四万票を獲得したが、比例区のトップ当選者の個人名での得票はわずかに八・七万票、しんがりでの当選者の得票は三・七万票であった。一議 席も獲得できなかった国民新党の比例区での総得票は一〇〇・〇万票で、第一位の得票者たる長谷川憲正が郵政関係の組織を基盤として獲得した票が四〇・七万 票だったのと好対照であった。つまり、みんなの党の獲得議席は、候補者個人が支持されたわけではなく、みんなの党という党への漠然たる期待が積みあがった ものだった。

この政党の本質は、その顔ともいうべき渡辺喜美代表の立ち位置をみても分るごとく「行政改革にこだわる保守政党」であり「小泉改革に連なる 新自由主義を政策基調とする保守政党」である。政策の全体像は見えないが、民主党には失望したが自民党に回帰しえない層が「止まり木」として一時的に身を 寄せたというべきであろう。その意味では、保守分裂の中から「保守バネ」の発動として過去にも一時的に支持層を繋ぎ止める装置として機能した河野洋平の 「新自由クラブ」(一九七六年)や細川護熙の「日本新党」(一九九三年)ブームの系譜に位置づけられるべき存在といえよう。

ただし、東西冷戦を背景に「保守対革新」が概ね「資本主義対社会主義」の対立概念の中で鮮明に対照できた時代とは異なり、イデオロギーの終 焉後の「自民党対民主党」は政治思想的な対立軸が消失し、複雑に混在している。つまり政党という政治の上部構造はいかにようにも変容し、合従連衡、再編を 繰り返す可能性を孕んでいるのである。この意味でも代議制は液状化している。

それにしても、その他の新党の結末は惨めだった。平沼赳夫、与謝野馨に石原慎太郎都知事までが参加した「たちあがれ日本」は一二三万票でわ ずか一議席、世論調査で一時は「総理にしたい人第一位」とされた桝添要一率いる「改革」も一一七万票で一議席に留まり、首長連合として山田宏(前杉並区 長)、中田宏(前横浜市長)らが参画した「創新党」は四九万票で議席獲得さえできなかった。国民やメディアの関心が一段と移ろい易いものになっている。新 党の側も必死に差別化を図ろうとし、リーダーの大衆的人気に寄りかかる戦いを進めるのだが、国民の側は熱しやすく冷めやすい。

創造的な政策の選択肢と政策思想の基軸さえ国民に明示できぬ政党と移ろい易い民衆の意識を考えたならば、この国の政治を政局だけに関心のある政治好きの人たちに委ねてはならないとの思いが高まる。それゆえに代議制民主主義の練磨という視点が重要なのだ。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年7月号

咸臨丸一五〇周年に想う—日米関係の位相の変化

万延元年(一八六〇年)、江戸幕府の遣米使節団が太平洋を渡った。日本政府の初めての正式な訪米使節であった。その一八五八年に井伊直弼が結んだ 「日米修好通商条約」の批准書交換が目的で、正使新見豊前守正興、監察小栗上野介をはじめとする一行七七人であった。この使節一行は、米国のフリゲート艦 ポウハタン号(二四一五トン)に送り届けられて太平洋を渡ったのだが、一行を「護衛・随行する」目的で派遣されたのが威臨丸であった。勝海舟、福沢諭吉、 ジョン万次郎といった日本近代史を彩る人物を乗せた六二五トンのこの小船が太平洋を「日本人だけで」往復し、「アメリカを見てきた」ことは、やはり大きな 意味を持つものであった。二〇一〇年四月、私は威臨丸から一五〇年目のサンフランシスコに立ち、日米関係の位相の変化に思いを巡らせてきた。

咸臨丸とは何だったのか

一八五四年、幕府はスクリュー式のコルベット軍艦二隻をオランダに発注した。ペリー浦賀来航の翌年であった。当初は帆船を発注したのだが、三本マス トを残しながら蒸気エンジンでも動くスクリュー式で、帆走・汽走併用型に変更された。完成した船が「ヤッパン号(日本号)」と名づけられ、ロッテルダムを 出航したのが一八五七年三月、オランダ領だったインドネシアのバタビア(現ジャカルタ)を経て長崎に回航されてきた。幕府にとっては、一八五五年にオラン ダ国王から贈られた「観光丸」に次ぐ、二隻目の洋式軍艦であった。

咸臨丸の船体の大きさは、長さ三六・六m、幅八・六mというから、こんな小さな船に武士一九人、水夫六五人、大工鍛冶二人の日本人八六人 と、事情あって乗船することになったロイテナント・ブルーク大尉他米海軍の軍人一〇人の合計九六人もの人間が乗って太平洋を渡ったのだから驚くほかない。 事情とは日本近海に測量目的で来ていた米海軍の船が座礁・沈没し、生き延びた米海軍軍人が帰国の機会を待っていたということで、建前では日本側の配慮で同 乗させたことになっているが、実際は遠洋航海の実績もない日本の乗員にとっては有難い助っ人であった。「日本人だけで太平洋を渡った」という通説も、記録 を調べてみると虚構であり、瀬戸内の塩飽諸島の水夫達を調達して乗船させていたものの、福沢の『福翁自伝』に「牢屋に大地震の如し」と表現されているよう な北太平洋の荒れ狂う波風に苦しめられ、日本人水夫が全くお手上げだった中で、一〇人の米海軍の軍人が活躍して苦難を乗り切ったというのが実態だった。た だし、帰途の復路については、日本人だけの操舵で太平洋を渡ったことは間違いない。

咸臨丸が浦賀を出航したのは一八六〇年二月一〇日(新暦)で、サンフランシスコ着は三月一八日であった。修理を終えて咸臨丸がサンフランシ スコを離れたのは五月八日、滞在期間は約五〇日間であった。その間、一一日遅れて三月二九日に到着した正使一行が四月七日にワシントンに向かうためパナマ に立つのを見送った。咸臨丸に関し、「勝海舟や福沢諭吉もワシントンに行った」と思われがちだが、彼らはサンフランシスコにだけ行ったのである。福沢は七 年後の一八六七年(慶応三年)再び訪米し、ニューヨーク・ワシントンを訪れたが、万延元年の遣米使節においては、サンフランシスコだけを見て帰ってきた。 それでもこの時の勝三七歳、福沢二七歳、若い目線で目撃したサンフランシスコの意味は重かった。

サンフランシスコは一七七六年にフランシスコ派のメキシコ人伝道師によって建設された町であったが、一八四八年に近郊で砂金が発見されてか ら「ゴールドラッシュ」が起き、人口五〇〇人の町が、咸臨丸が訪れた一八六〇年には五・六万人の街へと変身していた。この新興の都市を日本の若きサムライ たちは、カルチャーショックを受けながらも恐るべき好奇心で見て回った。市庁舎、電信施設、造船所、砂糖工場、メッキ工場などに目を見張り、ホテルに絨毯 が敷き詰められていることや女尊男卑の風俗に驚嘆している。

福沢諭吉が米国の建国の父ともいえる「ワシントンの子孫はどうしているのか」と聞き、「知らない」といわれ、「源頼朝、徳川家康のような存 在のはずの子孫が・・・・・」といぶかる姿が 『福翁自伝』に描かれているが、「民主主義の国アメリカ」の衝撃は大きかったであろう。勝海舟も『氷川清 話』でこの時の体験に触れ、「おれがアメリカに行って帰朝した時、御老中から『異国にわたりて、何か眼を付けたことがあろう』と再三聞かれ、『アメリカで は、政府でも民間でも、人の上に立つものは、みなその地位相応に怜悧でございます』と答え、『無礼者』と叱られた」という話を語っている。

余談だが、咸臨丸の最後は悲劇に満ちたものであった。維新後、明治新政府の所有となった咸臨丸は北海道開拓使の運搬船として活動していた。 太平洋往復の頃から故障がちだった蒸気エンジンは除去され、帆船として運航されていた。最後の航海は、仙台の松島湾寒風沢から北海道開拓に向かう三九八人 の白石藩士を乗せ小樽に向かうものだった。明治四年十一月四日、函館から小樽に向けて出航した直後、咸臨丸は激しい暴風雨に襲われて木古内町の更木岬近く の暗礁に乗り上げて破損、沈没した。この時生き残った入植者が開拓したのが現在の札幌市白石区である。オランダで建造され、太平洋を渡った咸臨丸は函館近 くの海でその一四年の短い生涯を終えたのである。この間の事情は、合田一道氏の労作「咸臨丸 栄光と悲劇の五〇〇〇日」(道新選書、二〇〇〇年)に詳述さ れている。

東京お台場の「船の科学館」に五〇分の一に縮尺された咸臨丸の復元模型が展示されている。オランダに残されていた図面を基にオランダで製作 された。西国大名を警戒して五〇〇石船以上の大型船の建造を禁止した江戸時代の「和船」の展示の中に置かれた咸臨丸を見つめ、複雑な感慨を覚えた。

咸臨丸一〇〇年の年としての一九六〇年

今から五〇年前、咸臨丸のサンフランシスコ渡航から一〇〇年という節目の年が一九六〇年、「六〇年安保」の年であった。戦後日本の最も熱い政治の季 節であったといえる。日米安保条約の改定を巡り、「反安保」闘争が盛り上がり、この年六月一五日の「安保改定阻止第二次実力行使」には全国で五八〇万人が デモ行進に参加し、国会前では東大生樺美智子さんが死亡するという事態に至った。六月一九日には新安保・新行政協定が自然成立したが、アイゼンハワー米大 統領の訪日延期、岸信介首相の退陣という異常事態を迎えた。反安保闘争に参加した学生達の空虚な敗北感に西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」が切なく 響いていた。

岸内閣に代わって登場した池田勇人内閣は「低姿勢」で登場し、「所得倍増計画」を打ち出していった。米国でも、一一月にJ・F・ケネディが 新大統領に当選、日米関係も新しい局面に入っていった。一九五一年のサンフランシスコ講話条約で国際社会に復帰した日本は、日米安保条約によって米国との 二国間同盟に踏み込み、西側陣営の一翼を占める形で冷戦の時代を生きるという路線を歩んだ。サンフランシスコの太平洋を見渡すリンカーンヒルに「咸臨丸入 港一〇〇年記念碑」が立っている。咸臨丸が縁で姉妹都市となった大阪市が建立したものである。華やかな除幕式も行われたが、その時は、日米安保を巡る政治 的熱狂の中でも、咸臨丸一〇〇年を想う気持ちが太平洋を挟む日米双方に存在していたとも言えよう。

調べてみると、一九六〇年の日本の輸入の三九%は米国からの輸入、日本の輸出の三〇%は米国への輸出であった。つまり、日本の貿易の三分の 一以上が対米国で成り立っていた。外交・安全保障の関係のみならず経済においても、日米関係の密度が重く存在していた時代であった。一九七一年のニクソン ショックまで、日本円の対ドルレートは一ドル三六〇円に固定されており、多くの日本人はそれが当たり前だと思っていた。

一九六〇年安保改定とは、日本側にとって「日米間の事前協議制の導入」など対米従属性を和らげる方向への条約改定という建前を確保したもの の、実体は、米国側にとって「平時・有事にわたる在日米軍基地の長期・安定的確保」という戦略体制の確立であった。それでも多くの日本人は「東側の脅威に 対して冷戦の時代に生きるためには」という思いで日米安保体制を容認し、六四年の東京オリンピック、七〇年の大阪万国博覧会を経るうちに、「豊かさへの願 望」に傾斜した。

最後の「政治の季節」ともいうべき「七〇年安保闘争」「全共闘運動」の時代はあったが、とても国民的関心を引き付けた運動とはいいがたく、 時代は一段と「経済の季節」に彩られていった。一方で、日米安保体制下の重圧が「基地」という形でのしかかる沖縄という不条理を封印しながら、ともかく物 質的繁栄を求めて我々は歩み続けたのだ。円ドルレートも、気がつけば今や九〇円水準、この五〇年で円の価値は四倍になった。 咸臨丸一五〇年の今

今、我々は「六〇年安保」から五〇年という時点に立つ。改めてサンフランシスコに立ち、日米関係の位相の変化に驚かされた。かつて西海岸を 訪れ、サンフランシスコ、ロスアンゼルスの「ジャパンタウン」「ジャパンビレッジ」を記憶している人ならばその衰退に衝撃を受けるであろう。日本人の存在 感が西海岸から急速に消えているのである。

この一〇年で米国への渡航者は年間二〇〇万人近く減少し、とくにハワイを除く米本土への渡航者は半減した。貿易の関係でも、二〇〇九年の日 本の輸出における対米輸出の比重は一六%、輸入における米国からの輸入は一一%と、一九六〇年時点と比べて約三分の一の比重にまで落ち込んだ。西海岸にお ける日系企業の支店は撤退・閉鎖を続けている。経済の関係、つまり下部構造において日米関係は大きく変化しているのである。

米国の経済人のみならず米国民の中国への関心は急速に高まっており、私が動き回っての実感では、西海岸における中国・韓国・日本の存在感の 比重は「五:三:二」といって誇張ではないであろう。その一つの象徴が、「咸臨丸一五〇周年」を話題にする人が日米双方において皆無だという事実である。

その一方で、外交・安全保障の関係だけが「過剰依存・過剰期待」の関係に埋没したまま、極端な固定観念に凍り付いている。五〇年前、一九六 〇年代の世界認識を引きずったまま、日米安保を既得権益とする人たちに押され、惰性の中で日米関係を「これまでどおりでいいのだ」という状況に自らを置く 日本人に未来はあるであろうか。

歴史的な「政権交代」を経てもなお、「普天間問題」の経緯のごとく、基地と日米同盟の在り方について米国と正面から向き合うのではなく、二 一世紀のアジアの安全保障を配慮した「抑止力」の中身を真剣に吟味することなく、むしろ沖縄の期待を押さえ込むことで進路をとろうとする鳩山内閣とシナリ オを主導した外務省、防衛省の責任は重い。深い歴史観の中で、今を生きる日本人が立ち向かうべき課題が理解できていないのであろう。

咸臨丸の時代を生きた日本人は誰一人として、外国の軍隊を頼りに自国の安全を図るという事態を考えてもいなかった、いわんや敗戦後六五年が経過し、周辺状況がまるで変わっても「自立自尊」を志向しない脳力の虚弱さは悲劇的である。

咸臨丸の時代、そしてそれから一〇〇年後の「六〇年安保」の時代と比べ、日本人が失っていることは自分の身辺的利害を超えて、国や社会の在り方のために立ち向かう気迫である。日本の存在感の低下の本質はここにあるといえる。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年6月号

問いかけとしての戦後日本(その11) 敗戦後のアジア復帰—バンドン会議の意味  寺島実郎

「大東亜共栄圏」が虚構に満ちたものであれ、「アジアの解放」を掲げた戦争に敗れた日本が到達したのは奇怪な形での「アジアの不在」であった。日本 人は、敗戦をあくまでも「アメリカに敗れた」とだけ総括し、決してアジアに敗れたとは受け止めなかった。米国の物量と科学にねじ伏せられたと認識し、アジ アに対しては潜在的優越感を保持するという屈折した心理の中で戦後を生きたといえよう。 温泉にでも浸かっていたほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

入江昭も「観念的には日本人のアジア主義思想は敗北を自覚しなかったのではないか」と述べる(『新・日本の外交』)。 温泉にでも浸かっていたほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

「それは日本人が太平洋戦争の意義にこだわり続けたからであろう。これを日本一国の利益や版図拡大のための侵略戦争だと見ることには抵抗が ある。アジアのための戦いだというフィクションを持つことができれば、かりに戦いには敗れても大義名分が立つ。―――日本指導者はそう考えて『戦闘には敗 れたが戦争には勝った』という自己説得を試みながら、連合国に和平を乞うことになる」という入江の分析は的確であろう。 温泉にでも浸かっていたほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

戦後、欧米の植民地だったインドや東南アジアの国々が独立を果たしたことが、「日本のおかげでアジアの独立が達成された」という虚偽意識を 生み、アジアへの敗北感や責任意識を希薄なものにした。そのことが、戦後日本のアジアとの位置関係を今日に至るまで歪んだものにしていることに気付かざる をえない。 温泉にでも浸かっていたほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

そもそも近代史における日本のアジアに向けた姿勢は「ご都合主義」的に揺れ動いてきた。一八八五年(明治一八年)、福沢諭吉は「脱亜論」を 書き「隣国の開明を待って共にアジアを興す猶予あるべからず」として、西欧との連携を重視する路線への視界を説いた。奇しくも同じ年、樽井藤吉は「大東合 邦論」を書き、アジア主義的議論の基点となった。この二つの論調が微妙に絡み合いながら、糾える縄のごとく日本近代史に絡みついてきたといえる。欧米列強 の植民地化の脅威にさらされたアジアの国としての「親亜」の共鳴を潜在させながら、「富国強兵」路線に自信を深め、日清・日露戦争での戦勝意識を高めるに つれ、自らが新手の植民地帝国として欧米列強模倣の「侵亜」に転じていく過程こそ日本近代史の悲劇であった。基本的には欧米志向、欧米重視の「脱亜」の道 を歩み、欧米との関係に問題を生じると「アジア回帰」を図るという構図を繰り返してきたともいえ、アジアとの関りこそ、日本の国際関係の「鬼門」「トラウ マ」なのである。

バンドン会議の意味

一九五五年四月一八日、インドネシアの首都ジャカルタから一二〇km離れた避暑地バンドンに、インドのネルー首相、中国の周恩来首相、エジプトのナセル首 相、そしてホスト役としてのインドネシアのスカルノ大統領という戦後世界の新興国を率いた歴史的指導者をはじめ、二九カ国のアジア・アフリカ諸国の指導者 が一堂に会した。このバンドン会議(アジア・アフリカ会議)は、戦後という時代を方向付けた重大な会議であった。世界史的にいえば、一九四九年の共産中国 の成立以来、初めて中華人民共和国が国際会議に登場した会議であった。今日ではあまり違和感はないが、米国をはじめ多くの国がまだ台湾の蒋介石政権を中国 の正統政権としていた時代に、台湾が呼ばれない会議ということ自体が新たな局面を象徴していた。事実、周恩来が乗るはずだった飛行機が香港で爆薬を仕掛け られ、ボルネオに墜落するという事件が起き、周恩来は命がけの参加となった。

バンドン会議の主役は、インドであり中国であった。伏線となったのは前年の中印首脳会談であった。一九四九年の中華人民共和国発足以来、 「アジアの植民地解放のための武力闘争」を支援してきた中国が対話路線に転換し、一九五四年、周恩来とネルーの間で「平和五原則」(領土主権の尊重、相互 不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存)を確認したことが転機であった。これを受けて、一九五四年四月末、コロンボで開かれた「コロンボ会議」に参 加した5カ国(インド、インドネシア、パキスタン、ビルマ、セイロン)が「アジア・アフリカ各国間の協力・相互利益、友好の推進」を狙いとする「アジア・ アフリカ会議」の必要性を確認したのである。

バンドン会議は「戦後日本のアジア復帰の舞台づくり」を意図するものではなく、その当時のアジアを巡る国際情勢を投影する政治力学の集結点 だった。このことは宮城大蔵の『バンドン会議と日本のアジア復帰』(草思社、二〇〇一年)に正確に描き出されている。インドのネルーもインドネシアのスカ ルノも実はバンドンへの日本招請には熱心ではなく、むしろパキスタンが日本の参加を促したというのが事実だという。

インドは敗戦直後の日本には温かい目線を送っていたともいえる。一九五一年のサンフランシスコ講和会議にインドは署名しなかった。中立主義 の原則に立ち、「日本に駐留する米軍が引き上げるならば署名する」という条件を出し、米国を驚愕させた。だがその翌年、日本との単独講和に応じてくれた。 これが日本のアジア復帰には重い意味をもったのだが、一方でインドは、米国との同盟に傾斜していく日本への失望を抱いていった。「アジアに冷戦構造を持ち 込ませたくない」というのが中立主義を主導するネルーのメッセージであった。

インドネシアは戦後賠償問題が決着せず、日本招請に積極的ではなかった。スカルノは、日本軍に協力してオランダからの独立戦争を戦うという 立場をとった人間で、戦後「日本軍国主義への協力者」として苦境に立たされたこともあり、日本のアジア復帰には複雑な姿勢をとっていた。また当時のパキス タンは、一九五四年五月に米国との間に相互防衛条約を結び、西側に肩入れする路線をとっており、同じ陣営に立つ日本の参加を優位性確保のための戦略と考え ていた。

複雑な事情・思惑が交錯しながらも、結局のところ日本もバンドン会議に招請されることになった。アジアは日本を忘れなかったのである。戦後復興に邁進しつつあった日本にとって、アジアに地歩を踏み固める第一歩であった。

日本の対応——今日も抱える課題として

招請を受けた日本は、鳩山一郎政権下にあった。サンフランシスコ講和会議によって国際社会への復帰を果したが、それは同時に結ばれた日米安保条約が 象徴するごとく、日米同盟を基軸とする外交路線、いわゆる吉田外交の枠組みの中にあった。一九五五年一月一九日付の朝日新聞は「日本などに招請状、アジ ア・アフリカ会議―――米の了解のうえで、出席決定に政府の態度」という見出しを掲げているが、日本は参加の是非について米国にお伺いを立てたのである。

鳩山外交の本音には、「日米同盟重視」を基軸とする吉田外交と一線を画し、ソ連・中国との国交回復をはじめ「対米自主外交」「アジア関係重 視」という志向が埋め込まれていた。日本の戦後外交の基本構図が既に浮上していた。そして、曲折を経て「対米協調を軸にしたアジア復帰」という了解でのバ ンドンへの参加という形での収斂が図られるのである。

米国は、当初「中立主義と共産中国の影響力拡大」を恐れて日本の参加にも反対の意向であったが、ダレス国務長官の「インド・中国主導となり かねない議論を中和するには親米国の参加が望ましい」との判断で、日本の参加を了解した。それでも、バンドンへの参加に日本の当惑が存在していたことは、 日本代表が、首相でも外相でもなく経済審議庁(後の経済企画庁)長官であった高碕達之助だったことに現れている。

高碕達之助は一八八五年生まれ、水産講習所(現・東京海洋大学)を卒業。メキシコでの水産会社などでの勤務の後、製缶詰工業を研究して東洋 製罐を設立、その後満州に渡り、満州重工業開発の総裁となった。敗戦後日本に引き揚げ、吉田茂に請われ「電源開発」の初代総裁になった。一九五四年に辞任 後鳩山内閣に参画したのである。実績のある経済人であり、「経済からのアジア復帰」を象徴する人物の投入であった。

会議を巡る日本の新聞報道を調べなおしてみると、日本のメディアもその評価に困惑していたことが読み取れる。朝日新聞も会議開催までは、 「日本の立場は微妙―――経済協力に重点、政治的課題は回避」(四月一五日)、「要するに、今回の会議が一方的な見解に引きずられることなく、各国が相手 の立場を理解し尊重する会議となることを希望」(四月一八日社説)と慎重な目線を送っていたが、会議終了後の四月二五日には「会議の意義―――一.一四億 の声を結集、植民地主義への強い反感を示す」というレポートを掲載、「周恩来首相の態度が協調的であったこと」に驚き、「徹底的に敗れ去った日本がどんな 顔をして出てくるか」という意味で日本が注視されていたという印象が語られ、「戦争を避け、平和を求めるアジア・アフリカ一四億の民衆の声が結集された」 とする高揚感あふれる報道がなされている。また、ル・モンド紙の特派員としてロベール・ギランが張り付いており、五月八日付の朝日に「バンドンの日本人 ―――はずかしそうな客」を寄稿している。ギランは、日本がこの会議に現れた目的について、「第一に、新しいアジアの現実を観察すること・・・・・第二 に、貿易すること、商売をやること」と看破している。そして、ネルーの「中立主義」、ナセルの「民族主義」、周恩来の「共産主義」というイデオロギーに対 して、「イデオロギーを持たない日本」は「恥ずかしそうに足音を忍ばせるしかなかった」と述べる。バンドン会議での日本の存在感の無さについて、フランク フルト・アルゲマイネ紙も、「米国によって隔離され、保護された島に咲いたスミレの花」と表現していた。

それでも、バンドン会議は日本にとって「日中国交回復への基点」となった。戦後初の日中政府間の折衝として「周恩来・高碕達之助秘密会談」 が行われたのである。米国・台湾に配慮する外務省は日中の接触を警戒していた。しかし、周恩来は日本との関係改善も意図し、日本語の通訳として日本で生ま れ育った廖承志を通訳として同行していた。四月二二日、周恩来の宿舎で約一時間半の会談は行われた。主に通商の拡大や政府代表機関の相互配置などが話し合 われたという。これが後に日中間の準政府間協定に基づく「LT貿易」へと繋がった。LTとは廖(リアオ)と高崎の頭文字である。正式の日中国交回復にはそ れから一七年を要したが、戦後の日中関係のスタートはバンドンで切られたのである。

思えば、一九五五年、戦後日本がバンドンに登場した頃、アジアは正に「政治の季節」としての熱気を帯びていた。東西冷戦は深まり、「共産主 義・社会主義の脅威」は重く存在していた。また、ネルーの主導するインドの中立主義、ナセルのエジプトのアラブ民族主義も輝きを放っていた。そして今、冷 戦後二〇年が経過したアジアは「経済の季節」としての熱気を放っている。二〇〇九年の日本の貿易総額の五〇%はアジアとの貿易になった。米国との貿易比重 は一三%にまで落ちた。十年後には、アジアとの貿易比重は六割を超すであろう。

ASEANは二〇一五年の「ASEAN共同体」発足に向けて合意を形成し、本年一月にはインド・中国とのFTAを発効させた。日本が「東ア ジア共同体」を持ち出すまでもなく、アジアは先行し動いている。日本においても、米国との同盟外交を基軸としながらも、アジアのダイナミズムと真剣に向き 合い、安定と平和のための新たな構想を実体化させる覚悟が問われていることは間違いない。バンドンから五五年、あの共同宣言が目指した「秩序」は次第に現 実のものとなりつつある。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年5月号

アジアのダイナミズムと内向する日本 寺島実郎

旧正月シーズンを台湾・香港と動いてきた。いかに多くの中華系の人々が、「旧正月」という文化を共有し、里帰りや休暇のために「移動」しているのか を目撃し、圧倒される思いだった。成田空港でも、中国本土のみならず台湾、香港、シンガポールから、驚くほどの数の中華系の来訪者で溢れていた。

二〇〇八年の中国からの海外渡航者は四五八四万人であったが、二〇〇九年には四七六六万人と新型インフルエンザと同時不況の影響で先進諸国 の海外渡航者が軒並み減少する中でも前年比四%増となった。約半分は香港・マカオへの渡航者だといわれているが、それにしても同年の日本の海外出国者が一 五四五万人だったことと比べても、極端な数の中国人が世界を動き回る時代になったのである。

中国の海外渡航者は十年以内に一億人に迫るとの推計もある。日本は「観光立国」を目指し、観光庁さえ設立して観光客誘致に力を入れ始めてい る。「中国人海外渡航者の一割を日本へ」というのが日本の狙いだが、一割でも約一〇〇〇万人の中国人が日本を訪れることを意味する。昨年二〇〇九年の中国 からの訪日者は一〇一万人であったから、一〇倍になるということである。途方もない時代が迫っている。

台湾での講演に際し、ジャーナリストから質問を受けた。「日本人に一〇〇〇万人を超える中国人を迎え入れる覚悟はあるのか」という質問であった。ホテルなどの設備・施設だけでなく、社会総体の受け入れシステム、文化や社会的軋轢の問題にまで視界に入れねばならない。

日本人出国者——壮年の男が海外に出ない国

二〇〇九年の日本人出国者は前述のごとく一五四五万人で、前年の一五九九万人から五四万人(三・四%)減少した。ピークだった二〇〇〇年の一七八二 万人からは二三七万人(一三・三%)も減ったことになり、「内向する日本」を象徴する数字といえる。「国際化」「グローバル化」と言葉は行き交うが、実際 に日本に漂う空気は「国際化疲れ」「グローバル化疲れ」とでもいうべき状況である。ストレスのある異文化環境で動くよりも、国内の温泉にでも浸かっていた ほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

日本人出国者を分析してみて、興味深い事実に気付く。十五歳から三四歳までを「若者」として、この年齢層の海外出国者は、出国者総計の三 〇%を占める。ただし、その三〇%のうち男性は一二%で、女性は一八%、圧倒的に女性が海外に出ているのである。また、六〇歳以上を「老人」とすると、こ の年齢層の出国者は出国者総数の二〇%を占める。つまり、この国から海外に出る人は老人と若者、とりわけ若い女性の比重が大きいということである。

三五歳から五九歳までの壮年期の男性が海外出国者に占める比重は二七%で、この層が前年比一六%も極端に減少していることからみて、ビジネ スで海外に出る機会はあるものの、忙しすぎるのか経済的に余裕が無いのか、自分の目的意識と関心で海外に出る機会は少ないという状況が垣間見える。

たとえ「物見遊山」の気軽な観光であれ、自分の足と眼で世界を体験することは意味がある。その点で、定年退職後の世代と若い女性が積極的に 世界に動き、働き盛りの世代の男性が、仕事か近隣諸国への遊興以外には海外に出ないという現実は重い。日本経済が一段とアジアとの相関において成立する方 向に向かっている中で、日本が置かれた状況を認識する上で、この世代の世界認識の狭さが問題なのである。

日本人の渡航先の変化も考えさせられる。二〇〇六年、米国を訪れた人よりも中国を訪れた人が上回ったが、この傾向は一段と顕著になり、二〇 〇八年には中国への渡航者は三四五万人、米国への渡航者は三二五万人となった。しかも、米国への渡航者のうち六四%にあたる二二二万人はハワイ・グアムな どへの訪問者であり、米本土への渡航者は一二三万人にすぎないのである。二〇〇九年の日本人出国者は前記のごとく一五四五万人であったが、渡航先の内訳は 部分的にしか発表されていない。中国への渡航者は三三二万人だが、香港(一二〇万人)、台湾(一〇〇万人)、シンガポール(四九万人)を加えた大中華圏へ の渡航者は六〇一万人、韓国への渡航者は三〇五万人で、大中華圏と韓国への渡航者の総計が九〇六万人と米国への渡航者の三倍を超える時代になったのであ る。日本人がアジアに体験を広げ、視界を開くことは、これからの日本人の世界観にジワリと影響を与えていくであろう。

訪日外国人——アジアからの来訪者のダイナミズム

二〇〇七年、戦後初めて、中国からの来訪者(九四万人)が米国からの来訪者(八二万人)を上回った。中国からの来日には、次第に緩和されてきたが依 然として「ビザ規制」があるにもかかわらず、来訪者数は増大基調を辿っており、二〇〇九年には、全体の訪日外客数が一八・七%減という中で、前年比微増の 一〇一万人となった。

二〇〇九年の訪日外国人六七九万人の中で、中国本土からの一〇一万人に台湾からの一〇二万人、香港からの四五万人、シンガポールからの一五 万人を加えて、大中華圏からの来訪者総計が二六三万人と三九%を占める。これに韓国からの一五九万人を加えると、訪日外国人の六二%にあたる。韓国からの 来訪者は、通貨のウォン安を背景に、前年比三三%減となったが、韓国経済のV字型回復を背景に一一月からは急回復している。銀座を歩いても、地方の温泉に 行っても、やたらに中国人と韓国人が増えたという印象を抱くのも当然なのである。ちなみに、米国からの来訪者は七〇万人と前年比一〇%減となった。急速な ドルの減価の中で、米国人にとって日本訪問の壁は一段と高くなっているのである。

「観光立国」といっても、実体は大中華圏と韓国からの来訪者を主とする観光ということになる。温泉やスキー、秋葉原・銀座での買い物も何度となく訪れてく れるリピーターとしていくには魅力に欠ける。県、地方ごとの観光誘致には熱心だが、広域ブロックで連携して外国人観光客を受け入れる体制は十分ではない。 訪問する側の目線に立った「観光立国」になっていないのである。定番の観光地であてがわれた食事を食べる団体旅行ではなく、長期滞在して日本人の生活に溶 け込み、文化を味わっていく観光へと進化させなければならない。日本人の観光への考え方を変えざるをえない局面が迫っている。

相互補完性の中の日本

今、日本はアジアのダイナミズムに突き上げられ、かつ支えられつつある。この微妙な力学を冷静に認識すべきである。人の移動は好奇心を誘発し、発見 を通じた向上心をもたらす。近隣アジアの人々の表情を直視するとき、その熱気にたじろぐとともに、日本人が忘れかけていたものを想起させられる。

このところ、日本での議論には「中国・韓国の攻勢に追い上げられ、劣勢に立つ日本」という認識が広がりつつある。「ついに、GDPで日本が 中国に抜かれる日」「リーマンショックからV字型回復を遂げ、世界市場で躍進する韓国企業」などという報道が続き、当惑と危機感が飛び交う。しかし、冷静 にいえばアジアのネットワーク型発展の中で、日本も大きなメリットを受け、近隣諸国との相互関係の中で我々自身の生業が成立しているともいえるのである。

例えば、昨年の日本の貿易収支を見てみよう。全体で二・八兆円輸出超過となったが、韓国への輸出超過は二・四兆円、台湾には一・七兆円、香 港には二・九兆円となっており、とくに、韓国・台湾は日本製の部品(中間財)を輸入し、それを最終製品に組み入れて外貨を稼ぐ経済構造になっている。 日本こそアジアの「ネットワーク型発展」の受益者でもあり、それを促している推進基点でもあるのだ。昨年の日本の米国への輸出超過は三・二兆円と前年比で 半減、大中華圏(中国、香港、台湾、シンガポール)と韓国を合計した輸出超過の七・一兆円が日本の外貨獲得の支柱である。相互補完性を認識し、この構造の 中での日本産業の次なる展開を構想することが肝要なのである。屈折した被害者意識に埋没せず、日本は一歩前に出て、日本の技術優位性、ファイナンス力を生 かし、官民協力した戦略スキームを構築し、環境・インフラ・交通システムなどのプロジェクトを「システム輸出」として推進する総合エンジニアリングがこれ からの課題である。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年3月号

水上達三と貿易立国日本—問いかけとしての戦後日本(その9)

高坂正堯が「海洋国家日本の構想」を書いたのが東京オリンピックの年一九六四年であった。戦後の日本が「大東亜共栄圏構想」の挫折を踏まえ、国家と してのフロンティアを七つの海に求め、「東洋でも西洋でもない立場に生きること」「通商を通じて国を豊かにしていくこと」を暗黙の国民目標として「戦後復 興・成長路線」を走り始めたことを象徴する論文であった。そして、通商の現場で戦後日本の復興・成長の現場を担った中心人物の一人が水上達三であった。戦 後、GHQに解散させられた三井物産を再生させた水上達三という人物と、私は一九七三年に出会った。「石油危機」の年、一九七三年に三井物産の新入社員と して調査部に配属された私は、既に社長を退き相談役として「日本貿易会会長」の仕事に情熱を燃やしていた水上に、正に末席の新人として資料作成の下働きを 始め、その「お礼」ということで、何度か円卓の中の一人として中華料理をご馳走になったこともあった。日本の輸出が三六九億ドルになったのが正に一九七三 年であったが「輸出が一日一億ドルになったよ」と感慨深く水上が語っていたのを思い出す。 「国際収支の天井」という言葉がつきまとい、「売るものがない から買いたいものも買えない」、つまり輸出産業が育っていないから「輸入超過」という状態を日本経済が脱したのが一九六五年であり、安定的な「輸出超過」 を持続し始めたのは、第二次石油危機を経た一九八一年からであった。戦後直後の貿易の前線を担い、「外貨獲得」に立ち向かった「商社マン」たちは、まずは 米国市場においてクリスマスツリーのランプや三条燕の洋食器の見本をバッグに詰め、靴を履きつぶすような戦いを続けたのである。

水上達三という人生

水上達三は一九〇三年(明治三六年)、山梨県巨摩郡に生まれ、甲府中学を卒業した。故郷山梨が水上の人生に大きな意味をもったことは間違いない。彼 は「私の履歴書」の中で「甲府中学には優秀な先生が多く、私は様々に影響を受けた。甲府は江戸幕府の直轄地であったから、学問にも熱心な風土が自然に出来 ていたものと思う。甲府中学の前身は、一七九六年(寛政八年)に幕府が設立した『甲府学問所』のちの『徴典館』という塾で、ここから多くの学者が輩出して いる。一九〇六年(明治三九年)には大島正健という校長が赴任し、さらに校風を高めている。この人は札幌農学校の第一回卒業生で、“ボーイズ・ビー・アン ビシャス”のクラーク博士の直接の教えを受けており、開明的思想を甲府中学に注ぎ込んだものとみえる。石橋湛山は中学の先輩で、大島校長に強く打たれたよ うだ」と述べている。

正に「人間山脈」という言葉を想起させられるが、人間は人間によって育つ。それが連綿と繋がり不思議な影響の連鎖が生まれ、クラーク博士が 蒔いた種が甲府で大島正健によって花開き、石橋湛山、水上達三などに受け継がれていく。石橋湛山は『湛山回想』(岩波文庫)において「(私の)意識の底 に、常に宗教家的、教育者的志望の潜んでいたことは明らかであった。そこに私は、大島校長を通じ、クラーク博士のことを知り、これだと、強く感じたのであ る。つまり私もクラーク博士になりたいと思ったのである。私は今でも書斎にはクラーク博士の写真を掲げている」と書く。その石橋湛山を郷里の母校の先輩と して敬愛し、水上は石橋を囲む『東洋経済』の時局座談会に欠かさず参加していたという。湛山の亡き後、その自由主義、民主主義、平和主義(国際協調主義) の思想を普及することを目的に「石橋湛山記念財団」が設立されたが、水上は財団の理事長を引き受け、十五年以上もその活動を支え続けた。

一九二八年(昭和三年)、水上達三は東京商科大学を卒業後、三井物産に入社した。その翌年には高崎派出員として群馬県高崎市に赴任、以来六 年間も高崎での生活を続けた。入社早々、国内の小店に六年間も勤務させられる状況にも水上は腐らなかった。むしろ積極的に受け止め、「派出員だからこそ、 本店にいたら若手では読めないような書類が読めた」、「何でも任されて、いやでも全体の業務を覚えた」と述懐している。

置かれた状況を積極的に受け止め、吸収し、学び取ろうとする精神は、水上の生涯にわたり貫かれている。終戦を三井物産の北京支店長代理とし て北京で迎えた四一歳の水上は、接収された三井物産の残務整理に当たった後、抑留されていた日本人引揚者一三五〇人の団長として一九四六年に帰国する。こ の敗戦後の大混乱期の北京においてさえ、水上は苦心して短波放送の受信機を手に入れて、サンフランシスコ、メルボルン、デリーなどから入る情報を入手し て、敗戦後の日本がどうなっていくのか、正確な情報を得ようと手を尽している。情報へのこだわり、集中力は驚嘆すべきものであった。

帰国後、三井物産に復帰して間もなく、一九四七年七月、「財閥解体」を意図する占領軍総司令部(GHQ)の指令によって「解散」させられ た。GHQの指令は、「かつてどの敗戦国の一民間企業が受けたこともない過酷なもの」であった。何しろ「旧三井物産で部長以上だった者が二人以上で新会社 を組織すること禁止」「旧三井物産の従業員が百人以上で新会社を組織すること禁止」「商号使用禁止」「資本金二〇万円以上の新会社設立禁止」というもの で、完膚なきまでに三井物産という組織を壊滅させる意図が込められていた。

「三井物産は無に帰したのだ」「明日からどう食うかの事態になったのだ」と、この時の思いを水上は書き残している。水上は旧三井物産の仲間 三七人を集め、資本金一九・五万円の新会社「第一物産」を設立した。四三歳の水上は「辛い時代でも夢は大きく持ちたい。今後の日本も、大切なのはやはり貿 易だ。貿易会社なら広い範囲のものを扱うべきだ」と判断したという。二百以上もの弱小企業として点在していた旧三井物産系の商社群の中から、水上の第一物 産が力をつけ、合併再編の中核企業になっていく。

何故、第一物産が一九五九年の「三井物産大合同」の中核になったのか。つまるところ経営者の志と意思だったといえる。解散直後から「十年以 内に三井物産を復活する。第一物産がその母体になろう」と水上は言っていたという。投機的な「思惑買い」をせず、「日本の進むべき前途を考え、国際情勢を 出来るだけ細かく分析しながら進んだことが、力をつけた理由であろう」と彼自身は述べている(「私の履歴書」)。会社の規模は小さくとも、取り扱い品目の 多様性だけでなく、輸出・輸入・外国間貿易・国内商内など商内形態の総合性、さらには金融機能など、企業機能の総合性にこだわり続け、「総合力」を志向し 続けた。第一物産が思いがけぬ利益を挙げた時、水上がまず踏み切ったのは「調査情報部」と「技術部」の創設であった。商社にとって、情報と技術が成功の鍵 であることを見抜いていたのである。

水上の貿易立国論の進化

私の思い出の中の水上達三は、「恐ろしく情報感度の高い人物」という印象である。右手にマクロの貿易統計、左手にミクロの三井物産の実績を持ち、そ れを付き合わせながら、次に如何なる戦略・戦術を打つべきかを考え抜いて、的確な指示を与えていた。経営者の持つべき問題意識と行動力の凄みを思い知らさ れたものである。好奇心が強く、常に新しい事象に関心を抱き、若手の話に興味を抱いていた。

一九八八年(昭和六三年)、水上達三は『貿易立国論―水上達三論集』(有斐閣)を出版した。水上が体験的に蓄積した思想や世界観を集約した 作品である。注目すべきは、「貿易によって日本の戦後復興に貢献しよう」という若い時代の問題意識が次第に進化し、「一国民、一民族中心の貿易立国論か ら、世界経済全体との関連の中で貿易立国論を位置づける」方向に向かっていることである。日本の戦後というのは、水上のような視界をもった経営者とそれを 支えた貿易の前線に立った先人たちの情熱が創り出したという面もある。

私が三井物産に入社した一九七三年に「一日一億ドル」を超した日本の輸出は、二〇〇八年には七八四一億ドルと実に二〇倍以上に増大した。日 本の産業力の高まりに感慨を覚えざるをえない。「売るものがない」といっていた国が隔世の感がある。にもかかわらず、この国を覆う無力感は何であろうか。 「ハヤブサの達」といわれた水上達三の眼光と「貿易には真理と哲学がある」といっていた言葉を思い出す。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年2月号 特別篇

常識に還る意思と構想—日米同盟の再構築に向けて   寺島実郎

中国の作家魯迅は、二〇世紀初頭の中国について、植民地状況に慣れきった中国人の顔が「奴顔」になっていると嘆いた。「奴顔」とは虐げられることに 慣れて強いものに媚びて生きようとする人間の表情のことである。自分の置かれた状況を自分の頭で考える気力を失い、運命を自分で決めることをしない虚ろな 表情、それが奴顔である。

普天間問題を巡る二〇〇九年秋からの報道に関し、実感したのはメディアを含む日本のインテリの表情に根強く存在する「奴顔」であった。日米の軍事同盟を変更のできない与件として固定化し、それに変更を加える議論に極端な拒否反応を示す人たちの知的怠惰には驚くしかない。

常識に還るということ、日本人に求められるのは国際社会での常識に還って「独立国に外国の軍隊が長期間にわたり駐留し続けることは不自然な ことだ」という認識を取り戻すことである。詭弁や利害のための主張を超えて、この問題に向き合う強い意思を持たぬ国は、自立した国とはいえない。直視すべ き事実をもう一度明記しておく。

(1)戦後六五年目を迎え、冷戦の終焉から二〇年が経過しようとしている日本に、約四万人の米軍兵力(他に軍属、家族が約五万人)と約一〇一〇平方km(東京二三区の一・六倍)の米軍基地が存在していること

(2)米国が世界に展開している「大規模海外基地」上位五つのうち四つが日本にあること(横須賀、嘉手納、三沢、横田)

(3) 「全土基地方式」が採用され、日米政府代表による日米合同委員会がどこを基地として提供するかを決めることができる(地位協定二条)ため、国会承認なしで 全国どこにでも基地が提供でき、東京首都圏に横田、横須賀、座間、厚木など世界に例がないほどの米軍基地が存在すること

(4)米軍駐留経費の七割を受け入れ国たる日本側が負担するという、世界に例のない状態が続いていること

(5)在日米軍の地位協定上のステータスは、占領軍の基地時代の「行政協定」を引きずり、日本側の主権が希薄であるのみならず、地位協定にも規定のない日本側コスト負担が拡大してきたこと

二〇〇九年一二月初旬の訪米での再発見

一二月の第一週、ニューヨーク、ワシントンと訪問してきた。一〇年以上もの米国勤務を終えて帰国した一九九七年以来、年四回は続けてきた定点観測で ある。今回は、オバマ政権がスタートして九カ月、「グリーン・ニューディール」といわれる環境エネルギー分野での日米産業協力、さらには私が総務省のタス クフォースの座長を務める「次世代ICT(情報通信)」分野での専門家との意見交換を狙いとするもので、日米安保に関する議論を主眼とするものでははな かった。

にもかかわらず、鳩山首相が小生の長年の友人で、時に意見交換の機会もあるというだけで、「切迫する普天間問題」に関する「首相の 密使」であり、普天間問題を巡る根回しでもするために訪れたかのごとく、日経新聞、読売新聞で繰り返し報道された。外交で避けるべきは「二元外交」であ り、正式な外交ラインによる交渉が動いている局面において、異なる次元での交渉など事態を混乱させるだけで、私はそのような動きに参与するほど愚か者では ない。今回はむしろ微妙なタイミングでもあることを配慮して、国務省、国防省、大統領府などの日米関係の責任ラインに会うことは避け、ワシントンにおける 国際問題に関わるシンクタンク、世界銀行、米州開発銀行、エネルギー・環境問題に関する専門家、ジャーナリストなどとの面談に絞り、深い議論を積み上げて きた。

この間まで、「インド洋への給油活動こそ日米同盟の証であり、これがなくなれば日米同盟は破綻する」と言っていた人たちは、今度は 「普天間問題での日米合意をそのまま実行しなければ、日米同盟は亀裂する」と主張し始めた。また、在ワシントンの日本のメディアにも「良好な日米関係破綻 の危機迫る」との発信しかできない特派員が少なくない。

これらの人たちが描く「良好な日米関係」とは何か。

あえていえば、 「ブッシュ・小泉時代の日米関係」、米国の期待を素早く受け入れて「ショウ・ザ・フラッグ」に呼応してインド洋、そしてイラクに自衛隊を派遣するような関 係を望ましいものと考えているようである。つまり、今までの日米間の安全保障の関係を「不変のSTATUSQUO(現状)」とし、一切の変更は望ましくな いと思考する人たちの過剰反応が、私の訪米についての報道でもあった。

しかし、我々は「イラクの失敗」を目撃した。米国は五三〇〇人を超す 兵士をアフガニスタンとイラクで死なせ、一兆ドルを超す戦費を費やした。主導したブッシュ大統領自身が「イラク戦争は間違った情報に基づく戦争だった」と 総括して辞め、その戦争で死亡したイラク人は少なくとも一〇万人と推計されている。米国自身が、その反省に立って「イラク戦争に反対したオバマ」を大統領 にしてパラダイムの転換を図ろうとしているのである。日本人の中には、そんな戦争に加担して道を間違えたという省察は不思議なほど見られない。だが、この ことへの誠実な総括なしには、これからの日米同盟の在り方を構想することはできない。何故なら、九・一一後の「米軍再編」に至るプロセスをしっかりと再認 識することが、次なる日米同盟の在り方の基盤だからである。

それにしても、日米安保にまつわりつく人たちの腐臭はすさまじい。私はワシント ンの中で通常「知日派・親日派」といわれ、「日米安保で飯を食べている人たち」から距離をとる必要を痛感する。これらの人たちは、日本からの来訪者を笑顔 で迎え、しばしば日本でのシンポジウムにも参加して「日米同盟は永遠の基軸」というエールを交換していく。常に基地を受け入れる日本側の「責任」に言及 し、より大きな「国際貢献」という名の対米協力を求める。もちろん、これらの人に呼応する日本側の「知米派・親米派」という一群の人たちがいて、この相互 依存が、長い間の日米関係を規定してきた。そのもたれあいの行き着いた悲劇が「守屋防衛次官の逮捕」という事件であったことは記憶に新しい。

ここ何年かの訪米で、私は広い世界認識を持った人物を訪ね、より多面的な視界からの日米関係の在り方を話題にし、意見を聞くことを心がけている。それは、利害や思い込みを超えて、広い視座から現在の日米同盟がどう見えるのかについて、客観的な意見が聞きたいからであある。

そ して、驚くべきことに、ワシントンにおける最高レベルの知識人や国際問題の専門家でさえ、日米関係に関与していない人たちの多くは日米同盟の現実(米軍基 地の現状や地位協定の内容)を知らない。むしろ、こんな現実が続いていることに、「米国の国益は別にして」と付け加えながらも、怪訝な表情と率直な疑問が 返ってくるのである。

もうひとつ、一〇月の北京大学での講演を機に中国を訪れた時の、屈折した体験に言及しておきたい。中国の幾人かの外交 官、国際問題の専門家と日米安保に関する議論をしていて、率直な疑念として提起されたのが所謂「ビンのふた」論であった。つまり、日本が自立志向を高め、 日本から米軍が撤退すれば「日本軍国主義の復活を閉じ込めるビンのふた」がなくなり、近隣諸国は不安になるという論理である。実は、日米安保が現状のまま 固定していて欲しいと願うのは、日米双方に存在する「日米安保で飯を食う人々」だけでなく、中国こそ在日米軍の存在に期待しているという皮肉な構図に気付 かされるのである。

日米安保の屈折した様相に苦笑せざるをえないが、日本人として心に期すべきは、日本の平和と安全は日本人自身の意思で確保すべきものであり、平和主義に徹して近隣の脅威にならない自制も我々の責任だということである。

日米安保の本質と冷戦後の変質

言うまでもなく「日米安保体制」とは、東西冷戦を背景に構築されたものであった。そのことはこの体制構築の日本側からの推進者として一九五一年のサ ンフランシスコに向かった吉田茂自身が明快に語っている。その著『回想十年』(東京白川書院、一九八三年)の一九章「日米共同防衛体制の由来」において、 日米安保条約が米国側から押し付けられたものでも日本側から頼んだものでもなく、ダレス国務長官との間において「日本防衛、自由世界の防衛という点で、い わば客観情勢の認識、見透しを同じくし、講和に伴う占領軍の撤退後における日本防衛の空白を埋めるのには、あれ以上の良策がないという結論に達した」と説 明した後、吉田は次のように書く。「安全保障条約は、条約自身が明らかに想定しているとおり、飽くまで暫定的な措置である。すなわち日本の自衛力が十分強 化されたとか、国際情勢が著しく緩和されたとかによって、この条約の必要が消滅すれば、いつでも終了させ得るのである。」

日米安保条約とは 冷戦を背景に、暫定的なものとしてスタートした。その後一九八〇年代末まで、東側との冷戦期の安全保障の仕組みとして「日米安保」が有効に機能したことは 評価すべきである。しかし、吉田の後進たちは四〇年間の惰性のなかで、政治家も外交官も、あまりにも冷戦期の枠組みに縛られ、世界情勢の変化を機動的に捉 えてその枠組みを超える柔らかい政策を思考する姿勢を見失い、今日に至った。

吉田茂はサンフランシスコ講和会議と日米安保条約の調印に臨み、周りにいた若い外交官に対し、「自分は西側陣営の一翼を占める形で、戦後復興と安全を図るのが妥当と判断して調印に向かうが、君たちは日本外交の選択肢を柔らかく研究するように」と話したという。

冷 戦の時代を経て、一九八九年にベルリンの壁が崩れ、世界は冷戦後の時代へと入って行った。冷戦を前提とする「日米安保体制」も、世界情勢変化を背景として 根本的に見直されるべきであった。ところが、日本側の事情は違っていた。東西冷戦の代理戦争的状況でもあった自民党対社会党の「五五体制」が存在意義を失 い、一九九〇年代の政治状況は流動化し始めた。一九九三年に宮沢内閣を最後として自民党単独政権は終わりを告げ、細川政権から森政権まで短命政権の隆替が 続く。自民党と社会党の連立という村山政権の誕生さえ経験した。腰の入った外交基盤の転換などできなかった。

冷戦後の一〇年間に、同じ敗戦 国のドイツが一九九三年に「在独米軍基地の見直しによる縮小(在独米軍を二六万人から四万人に削減)、地位協定改定」に踏み込んだごとく、日本も日米安保 体制を見直すべきであった。ところが、「アジアでは冷戦は終わっていない」という認識で、日米安保を自動延長する流れが継続され、せいぜい九六年の橋本・ クリントン共同宣言(日米安保の再定義)を経た九七年の「ガイドラインの見直し」がなされた程度であった。

しかも、「ガイドラインの見直 し」は実は大きな危険を招きかねない日米合意に踏み込んだ。日米安保が対象とする「有事」(周辺事態)を、従来の極東地域に限定する「極東条項」を取り払 い、「平和と安全を脅かす事態の性格」によって決める方向に変更したのだ。つまり、世界のどこで起こった事態であれ、日本の平和と安全を脅かすと判断すれ ば、米軍と共同して動く可能性を開いてしまったのだ。

こうした判断の背景には、九〇年代の世界状況に対する認識があったといえよう。冷戦後 の「米国の一極支配」とか「唯一の超大国となった米国」といった議論が主潮となり、深い思慮もなく米国の世界戦略との一体化が加速されてしまったのであ る。そうした状態で二一世紀を迎え、九・一一の衝撃を受けた米ブッシュ政権が、逆上してアフガニスタン、イラクへと軍事進攻するのに対し、「日本は米国に ついていくしかない」という思考停止の選択を余儀なくされていった。

日米安保条約が締結されて約六〇年、その変質の中で不可解なのは日本側 のコスト負担の増大である。元々、地位協定において日本側経費負担はなかった。地位協定二四条では、米軍駐留に伴うすべての維持費は、日本ではなく米軍が 負担することになっていた。日本は基地の土地は提供するが、維持費は米国側が負担することになっていたのである。一九九二年まで、フィリピンに存在してい たクラーク空軍基地、スービック海軍基地のごとく、米国がフィリピン政府に「使用料」(米側の言葉では「援助金」)を支払っていたケースさえあった。

と ころが、日本側負担は次第に拡大し、一九七八年からは金丸信防衛庁長官(当時)が、日本人基地労働者の福利厚生費の一部を「思いやり予算」の名目で負担し たことを始まりとして、日本側負担増が常態化してきた。基地周辺対策費や用地賃借料などを含め、今世紀に入っても年平均六〇〇〇億円前後の米軍基地経費の 日本側負担(含む思いやり予算)が続いており、冷戦後の二〇年間で、累計一〇兆円を超す米軍基地関係費用を日本国民は「安全のコスト」として税金で負担し てきたのである。

世界にも他に例がないほどの、受け入れ国が米軍基地の経費の七割を負担しているという事実が、逆に現状変更を困難にする要 素になっていることに気付く。「米軍を配備するうえで、最も安上がりの場所」という認識が米軍関係者にまで浸透し、日米双方に「日米安保で飯を食う利害関 係者」を増幅させてしまったからである。過日の民主党新政権による「予算仕分け」作業において、沖縄米軍基地で働く九〇〇〇人の日本人従業員の給与が県内 の同等業務の労働者の給与より二~三割程度割高であることが指摘され、「削減」が議論されたことに対して、基地労働者の代表が怒りのコメントを語っていた が、基地問題の複雑さを印象付けられた。

ともあれ、冷戦後の一〇年は、日米安保を構造的に見直すことなく「空白の一〇年」となった。そして、二一世紀を迎えて直面したのが九・一一であり、それを受けた「米軍再編」の動きによって、日米同盟はさらなる変質を始めた。

米軍再編とは何だったのか

○九年に亡くなった軍事評論家の江畑謙介は、正確な知識と情報に基づく軍事評論家として敬服すべき存在であった。その晩年の著書『米軍再編』(二〇 〇五年、新版二〇〇七年、ビジネス社)は、米軍再編の真実を冷静に分析した作品であった。この中で「米軍は必要な時に日本を、太平洋を越えた兵站補給、部 隊展開の前進拠点にしようとしている」と米軍再編の本質を見抜いていた江畑は「同床異夢の米軍再編には危険が潜む」と指摘、基地の縮小・移転、地位協定の 改正、思いやり予算の削減などについて戦略的提言をしていた。我々は江畑謙介の問題意識と提言を重く受け止めなければならない。

米軍関係者 が「トランスフォーメーション」という米軍再編は、ブッシュ政権の国防長官だったラムズフェルトが主導した、九・一一後の米国の「イラク戦争」「テロとの 戦い」に即応した戦略であった。狙いは「①先制攻撃さえ含むテロとの戦いの効率化、②同盟国軍隊との共同作戦の強化」にあり、本来の日米安保の目的を逸脱 したものであった。

アーミテージ元国務副長官は、〇九年一二月に都内で行われた日米関係に関するシンポジウムにおいてさえ、「皆さんが今 夜、安心して眠れるのは米国が日本を守っているからだ」と訴えていた。悪意はないのだろうが、残念ながら日米安保の実体が「日本を守る」「極東の安全を守 る」という原点から大きく乖離し、中東から中央アジアまで「イスラム原理主義」を意識した、テロとの戦いなる「アメリカの戦争」に対する共同作戦の基盤へ と変質していることを正確に伝えていない。「イスラム原理主義」に立つテロリストとの戦いは、微妙にイスラム全体の憎しみを増幅し、文明の衝突さえ誘発し かねないリスクがある。日本の立場をいえば、イスラムが日本の安全保障を脅かす構図に自らを置くことは愚かである。

一九八〇年代から、私は 中東問題に巻き込まれてきたが、日本人が自覚すべきは、多くの中東諸国の人たちが「日本は中東のいかなる国にも武器輸出も軍事介入もしたことのない唯一の 先進国」という事実に敬意と好感情を抱いているということである。また、米国とは異なり、「イスラエル・パレスチナ問題」に対して「イスラエル支持」を表 明せざるをえない国内事情があるわけでもない。日本の立ち位置を自覚し、世の中には日米共同で当たるべきこととそうでないことが存在することを強く認識し なければならない。

改めて日本を取り巻く「脅威」とは何か

二一世紀初頭の一〇年間を経ようとしている今、世界が大きな構造転換を進めつつある中で、日本の安全を脅かす危機とは何であろうか。冷静に再考すべきである。

ロ シアの脅威はどうか。北方四島、漁業を巡る利害の対立はないとはいえないが、ソ連時代のような軍事攻撃の可能性は現実的ではない。むしろ、二〇〇八年に起 きた「グルジア侵攻」などの問題が米露対決を招き、「新冷戦の時代」のような事態になって、同盟国として「米国の戦争」に巻き込まれる可能性のほうが高 い。

では、北朝鮮の脅威はどうか。確かに、国力にそぐわぬミサイル、核開発を進める北朝鮮は脅威である。ただし、冷戦の時代の北朝鮮の脅威 と現在の脅威は異なる。冷戦の時代、北朝鮮が「南進」することは後ろ盾のソ連・中国と呼応しての軍事行動であり、韓国や日本にとっては「社会主義への体制 転換の脅威」であった。しかし、現在の北朝鮮の脅威は「ならずものとしての脅威」(撹乱要因)であり、世界に共鳴者を拡大できるメッセージもなく、「冷戦 孤児」として孤立を深める先軍国家が放つ断末魔の叫びのようなものである。

ただし、北朝鮮が自暴自棄的な「南進」をする危機は皆無とはいえ ず、沖縄海兵隊の抑止力などは重く認識すべきであろう。しかし何よりも日本としては、北朝鮮のミサイル・核を「使えない兵器」にする外交戦略が重要であ り、ロシア、中国、韓国、米国を引き込んだ「北東アジア非核化構想」などを主導し続ける姿勢が必要となろう。

では中国の軍事的脅威はどう か。中国の国防費は二一年連続で増加を続け、二〇〇九年度には六・九兆円(前年度比一四・九%増)と日本の防衛予算(このところ五兆円水準)を大きく上 回っている。人経費水準の低い中国の事情を配慮すると、正面装備は驚異的な充実を図っているといわざるをえない。そこで「日米同盟を強化して中国の脅威と 向き合おう」という論理に引き込まれがちになるが、事態は単純ではない。米中関係の変化である。二〇〇六年から始まった「米中戦略経済対話」は、オバマ政 権になって二〇〇九年四月に政治・安保を含む閣僚級会議に格上げされることになった。また、「米中ビジネス・カウンシル」には五〇〇社近くの米国企業が参 加し、昨今の日米財界人会議の低調とは対照的に一段と密度の高い交流を深めている。

そこで、一つの仮説として、もし中国が尖閣列島を武力占 領した場合、日米安保が発動されて米国が行動を起こすかを考えてみたい。日本人の期待からすれば、尖閣は沖縄返還の瞬間まで米国が施政権を持っていた地域 であり、「どちらの領有か分からない」などというものではない。だが、米外交官が近年においても「日中間の領土問題に巻き込まれたくない」と発言している 如く、米国の本音は微妙である。おそらく、その時点での米政府が米国民世論を配慮し、行動を起こすのが妥当と判断すれば、尖閣防衛に動くかもしれないとい うのがバランスのとれた認識であろう。

こうして思索を巡らせると、日米共同して向き合わねばならない脅威(有事)というものも、大きく変質 し、必ずしも鮮明ではないことが分かってくる。日本側からの過剰期待や過剰依存は成立しないのである。むしろ、一番説得的なのが「戦略的あいまいさ」とで もいおうか、日米軍事同盟による米軍の存在自体が、漠然たる「レバレージ」(危機対応力)を象徴しているという考え方で、「日本が孤立した存在」ではない ことを担保する仕組みとして機能しているという捉え方であろう。

日米同盟の進化とは何か

さて、こうした認識を基盤として、我々はいかなる二一世紀の日米同盟を目指すべきなのであろうか。日米双方で政権交代が行われ、これまでの利害や固定観念を超えて我々は柔らかい構想を探求すべきであろう。

ラ イシャワー東アジア研究センター所長のケント・カルダーは『米軍再編の政治学―駐留米軍と海外基地のゆくえ』(日経新聞社、二〇〇八年)において「過去五 〇年間、基地受け入れ国で政権交代がなされた後に、撤退する確率は、アメリカの基地の場合でも六七%」という興味深い事実に触れている。東アジアの現状を 冷静に捉えるならば、「戦略的あいまいさ」であっても、日本での米軍の存在は一定の枠においては継続されるべきものであろう。ただ、これまでの惰性ではな く、熟慮の上、相互信頼に値する日米同盟の再構築に立ち向かうべきである。その方向に向けて論点とされるべきことを下記したい。

(1)日米 の戦略対話の仕組みを構築し、「未来志向の日米関係」に関して経済と安全保障の二本立てで閣僚級討議を深め、日米同盟を再設計する。すなわち、経済産業に おける日米連携の深化のための日米産業協力や日米FTA(自由貿易協定)などを具体化する戦略対話と、安全保障体制の進化のための在日米軍基地の在り方 や、日米防衛協力についての戦略対話を実現する。

(2)安全保障に関しては、長期的に目指すべき日米軍事同盟の在り方について日本側の考え 方を明確にする。例えば、東アジアに軍事的空白を作らないことを配慮しつつ、米軍基地・施設を使用目的ごとに検討し、目的を終えたものから削減し、まずは 一〇年以内に半減を目指す。(注 地位協定二条3には「この協定のため必要でなくなったときは、いつでも日本側に返還しなければならない」となっている)

(3) 地位協定については、米軍基地を順次「日本政府が管理する枠組みなかで、米軍を自衛隊基地に駐留させる形での共同管理方式(地位協定二条4-b)」へと移 行する。(注 石破元防衛庁長官もかつて同様の問題意識で「将来、原則としてすべてのアメリカ軍を自衛隊が管理・運営する基地に駐留させること」、つまり 日本が主権を持つ形での共同使用を提案していたという)

(4)将来に向けての新たな日米安保の形として、「アジアに軍事的空白を作らない」ために、米軍のプレゼンスを維持する仕組みとして、ハワイ・グアムに「緊急派遣軍」的戦力を一定期間保持して、日本・韓国が応分のコスト負担をする方式など柔軟なシナリオを模索する

(5) 普天間問題は、長期的な日米安保体制の見直しの中で検討されるべき事項であるが、基地使用継続に伴う周辺住民への危険を配慮し、米側と取り決めた「二〇一 四年までの移転完了」を可能とする現実的選択肢を速やかに決定する。この場合、米側の戦略計画にも配慮し、「沖縄・グアムを合わせた戦力の維持」が合意形 成のポイントとなるであろう。

思えば、本稿の冒頭で提起した「常識に還る」という視点は、米国が英国からの独立を目指した際、米国民の「合 言葉」として共有されたトマス・ペインの「コモンセンス」(一七七五年)に通じるものである。ペインは正にコモンセンス(常識)として、イギリスへの従属 や依存が「イギリスの正義」に基づく不必要な戦争に米国を巻き込むことの危険を訴え、米国の自立自尊を呼びかけた。時代背景は違うが、日本人が心に抱くべ き問題意識とも共鳴するものである。

我々は静かに「現代における条約改正」に向き合うべき局面に近づきつつある。