2011年2月13日日曜日

連載「脳力のレッスン」世界 2010年6月号

問いかけとしての戦後日本(その11) 敗戦後のアジア復帰—バンドン会議の意味  寺島実郎

「大東亜共栄圏」が虚構に満ちたものであれ、「アジアの解放」を掲げた戦争に敗れた日本が到達したのは奇怪な形での「アジアの不在」であった。日本 人は、敗戦をあくまでも「アメリカに敗れた」とだけ総括し、決してアジアに敗れたとは受け止めなかった。米国の物量と科学にねじ伏せられたと認識し、アジ アに対しては潜在的優越感を保持するという屈折した心理の中で戦後を生きたといえよう。 温泉にでも浸かっていたほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

入江昭も「観念的には日本人のアジア主義思想は敗北を自覚しなかったのではないか」と述べる(『新・日本の外交』)。 温泉にでも浸かっていたほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

「それは日本人が太平洋戦争の意義にこだわり続けたからであろう。これを日本一国の利益や版図拡大のための侵略戦争だと見ることには抵抗が ある。アジアのための戦いだというフィクションを持つことができれば、かりに戦いには敗れても大義名分が立つ。―――日本指導者はそう考えて『戦闘には敗 れたが戦争には勝った』という自己説得を試みながら、連合国に和平を乞うことになる」という入江の分析は的確であろう。 温泉にでも浸かっていたほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

戦後、欧米の植民地だったインドや東南アジアの国々が独立を果たしたことが、「日本のおかげでアジアの独立が達成された」という虚偽意識を 生み、アジアへの敗北感や責任意識を希薄なものにした。そのことが、戦後日本のアジアとの位置関係を今日に至るまで歪んだものにしていることに気付かざる をえない。 温泉にでも浸かっていたほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

そもそも近代史における日本のアジアに向けた姿勢は「ご都合主義」的に揺れ動いてきた。一八八五年(明治一八年)、福沢諭吉は「脱亜論」を 書き「隣国の開明を待って共にアジアを興す猶予あるべからず」として、西欧との連携を重視する路線への視界を説いた。奇しくも同じ年、樽井藤吉は「大東合 邦論」を書き、アジア主義的議論の基点となった。この二つの論調が微妙に絡み合いながら、糾える縄のごとく日本近代史に絡みついてきたといえる。欧米列強 の植民地化の脅威にさらされたアジアの国としての「親亜」の共鳴を潜在させながら、「富国強兵」路線に自信を深め、日清・日露戦争での戦勝意識を高めるに つれ、自らが新手の植民地帝国として欧米列強模倣の「侵亜」に転じていく過程こそ日本近代史の悲劇であった。基本的には欧米志向、欧米重視の「脱亜」の道 を歩み、欧米との関係に問題を生じると「アジア回帰」を図るという構図を繰り返してきたともいえ、アジアとの関りこそ、日本の国際関係の「鬼門」「トラウ マ」なのである。

バンドン会議の意味

一九五五年四月一八日、インドネシアの首都ジャカルタから一二〇km離れた避暑地バンドンに、インドのネルー首相、中国の周恩来首相、エジプトのナセル首 相、そしてホスト役としてのインドネシアのスカルノ大統領という戦後世界の新興国を率いた歴史的指導者をはじめ、二九カ国のアジア・アフリカ諸国の指導者 が一堂に会した。このバンドン会議(アジア・アフリカ会議)は、戦後という時代を方向付けた重大な会議であった。世界史的にいえば、一九四九年の共産中国 の成立以来、初めて中華人民共和国が国際会議に登場した会議であった。今日ではあまり違和感はないが、米国をはじめ多くの国がまだ台湾の蒋介石政権を中国 の正統政権としていた時代に、台湾が呼ばれない会議ということ自体が新たな局面を象徴していた。事実、周恩来が乗るはずだった飛行機が香港で爆薬を仕掛け られ、ボルネオに墜落するという事件が起き、周恩来は命がけの参加となった。

バンドン会議の主役は、インドであり中国であった。伏線となったのは前年の中印首脳会談であった。一九四九年の中華人民共和国発足以来、 「アジアの植民地解放のための武力闘争」を支援してきた中国が対話路線に転換し、一九五四年、周恩来とネルーの間で「平和五原則」(領土主権の尊重、相互 不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存)を確認したことが転機であった。これを受けて、一九五四年四月末、コロンボで開かれた「コロンボ会議」に参 加した5カ国(インド、インドネシア、パキスタン、ビルマ、セイロン)が「アジア・アフリカ各国間の協力・相互利益、友好の推進」を狙いとする「アジア・ アフリカ会議」の必要性を確認したのである。

バンドン会議は「戦後日本のアジア復帰の舞台づくり」を意図するものではなく、その当時のアジアを巡る国際情勢を投影する政治力学の集結点 だった。このことは宮城大蔵の『バンドン会議と日本のアジア復帰』(草思社、二〇〇一年)に正確に描き出されている。インドのネルーもインドネシアのスカ ルノも実はバンドンへの日本招請には熱心ではなく、むしろパキスタンが日本の参加を促したというのが事実だという。

インドは敗戦直後の日本には温かい目線を送っていたともいえる。一九五一年のサンフランシスコ講和会議にインドは署名しなかった。中立主義 の原則に立ち、「日本に駐留する米軍が引き上げるならば署名する」という条件を出し、米国を驚愕させた。だがその翌年、日本との単独講和に応じてくれた。 これが日本のアジア復帰には重い意味をもったのだが、一方でインドは、米国との同盟に傾斜していく日本への失望を抱いていった。「アジアに冷戦構造を持ち 込ませたくない」というのが中立主義を主導するネルーのメッセージであった。

インドネシアは戦後賠償問題が決着せず、日本招請に積極的ではなかった。スカルノは、日本軍に協力してオランダからの独立戦争を戦うという 立場をとった人間で、戦後「日本軍国主義への協力者」として苦境に立たされたこともあり、日本のアジア復帰には複雑な姿勢をとっていた。また当時のパキス タンは、一九五四年五月に米国との間に相互防衛条約を結び、西側に肩入れする路線をとっており、同じ陣営に立つ日本の参加を優位性確保のための戦略と考え ていた。

複雑な事情・思惑が交錯しながらも、結局のところ日本もバンドン会議に招請されることになった。アジアは日本を忘れなかったのである。戦後復興に邁進しつつあった日本にとって、アジアに地歩を踏み固める第一歩であった。

日本の対応——今日も抱える課題として

招請を受けた日本は、鳩山一郎政権下にあった。サンフランシスコ講和会議によって国際社会への復帰を果したが、それは同時に結ばれた日米安保条約が 象徴するごとく、日米同盟を基軸とする外交路線、いわゆる吉田外交の枠組みの中にあった。一九五五年一月一九日付の朝日新聞は「日本などに招請状、アジ ア・アフリカ会議―――米の了解のうえで、出席決定に政府の態度」という見出しを掲げているが、日本は参加の是非について米国にお伺いを立てたのである。

鳩山外交の本音には、「日米同盟重視」を基軸とする吉田外交と一線を画し、ソ連・中国との国交回復をはじめ「対米自主外交」「アジア関係重 視」という志向が埋め込まれていた。日本の戦後外交の基本構図が既に浮上していた。そして、曲折を経て「対米協調を軸にしたアジア復帰」という了解でのバ ンドンへの参加という形での収斂が図られるのである。

米国は、当初「中立主義と共産中国の影響力拡大」を恐れて日本の参加にも反対の意向であったが、ダレス国務長官の「インド・中国主導となり かねない議論を中和するには親米国の参加が望ましい」との判断で、日本の参加を了解した。それでも、バンドンへの参加に日本の当惑が存在していたことは、 日本代表が、首相でも外相でもなく経済審議庁(後の経済企画庁)長官であった高碕達之助だったことに現れている。

高碕達之助は一八八五年生まれ、水産講習所(現・東京海洋大学)を卒業。メキシコでの水産会社などでの勤務の後、製缶詰工業を研究して東洋 製罐を設立、その後満州に渡り、満州重工業開発の総裁となった。敗戦後日本に引き揚げ、吉田茂に請われ「電源開発」の初代総裁になった。一九五四年に辞任 後鳩山内閣に参画したのである。実績のある経済人であり、「経済からのアジア復帰」を象徴する人物の投入であった。

会議を巡る日本の新聞報道を調べなおしてみると、日本のメディアもその評価に困惑していたことが読み取れる。朝日新聞も会議開催までは、 「日本の立場は微妙―――経済協力に重点、政治的課題は回避」(四月一五日)、「要するに、今回の会議が一方的な見解に引きずられることなく、各国が相手 の立場を理解し尊重する会議となることを希望」(四月一八日社説)と慎重な目線を送っていたが、会議終了後の四月二五日には「会議の意義―――一.一四億 の声を結集、植民地主義への強い反感を示す」というレポートを掲載、「周恩来首相の態度が協調的であったこと」に驚き、「徹底的に敗れ去った日本がどんな 顔をして出てくるか」という意味で日本が注視されていたという印象が語られ、「戦争を避け、平和を求めるアジア・アフリカ一四億の民衆の声が結集された」 とする高揚感あふれる報道がなされている。また、ル・モンド紙の特派員としてロベール・ギランが張り付いており、五月八日付の朝日に「バンドンの日本人 ―――はずかしそうな客」を寄稿している。ギランは、日本がこの会議に現れた目的について、「第一に、新しいアジアの現実を観察すること・・・・・第二 に、貿易すること、商売をやること」と看破している。そして、ネルーの「中立主義」、ナセルの「民族主義」、周恩来の「共産主義」というイデオロギーに対 して、「イデオロギーを持たない日本」は「恥ずかしそうに足音を忍ばせるしかなかった」と述べる。バンドン会議での日本の存在感の無さについて、フランク フルト・アルゲマイネ紙も、「米国によって隔離され、保護された島に咲いたスミレの花」と表現していた。

それでも、バンドン会議は日本にとって「日中国交回復への基点」となった。戦後初の日中政府間の折衝として「周恩来・高碕達之助秘密会談」 が行われたのである。米国・台湾に配慮する外務省は日中の接触を警戒していた。しかし、周恩来は日本との関係改善も意図し、日本語の通訳として日本で生ま れ育った廖承志を通訳として同行していた。四月二二日、周恩来の宿舎で約一時間半の会談は行われた。主に通商の拡大や政府代表機関の相互配置などが話し合 われたという。これが後に日中間の準政府間協定に基づく「LT貿易」へと繋がった。LTとは廖(リアオ)と高崎の頭文字である。正式の日中国交回復にはそ れから一七年を要したが、戦後の日中関係のスタートはバンドンで切られたのである。

思えば、一九五五年、戦後日本がバンドンに登場した頃、アジアは正に「政治の季節」としての熱気を帯びていた。東西冷戦は深まり、「共産主 義・社会主義の脅威」は重く存在していた。また、ネルーの主導するインドの中立主義、ナセルのエジプトのアラブ民族主義も輝きを放っていた。そして今、冷 戦後二〇年が経過したアジアは「経済の季節」としての熱気を放っている。二〇〇九年の日本の貿易総額の五〇%はアジアとの貿易になった。米国との貿易比重 は一三%にまで落ちた。十年後には、アジアとの貿易比重は六割を超すであろう。

ASEANは二〇一五年の「ASEAN共同体」発足に向けて合意を形成し、本年一月にはインド・中国とのFTAを発効させた。日本が「東ア ジア共同体」を持ち出すまでもなく、アジアは先行し動いている。日本においても、米国との同盟外交を基軸としながらも、アジアのダイナミズムと真剣に向き 合い、安定と平和のための新たな構想を実体化させる覚悟が問われていることは間違いない。バンドンから五五年、あの共同宣言が目指した「秩序」は次第に現 実のものとなりつつある。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年5月号

アジアのダイナミズムと内向する日本 寺島実郎

旧正月シーズンを台湾・香港と動いてきた。いかに多くの中華系の人々が、「旧正月」という文化を共有し、里帰りや休暇のために「移動」しているのか を目撃し、圧倒される思いだった。成田空港でも、中国本土のみならず台湾、香港、シンガポールから、驚くほどの数の中華系の来訪者で溢れていた。

二〇〇八年の中国からの海外渡航者は四五八四万人であったが、二〇〇九年には四七六六万人と新型インフルエンザと同時不況の影響で先進諸国 の海外渡航者が軒並み減少する中でも前年比四%増となった。約半分は香港・マカオへの渡航者だといわれているが、それにしても同年の日本の海外出国者が一 五四五万人だったことと比べても、極端な数の中国人が世界を動き回る時代になったのである。

中国の海外渡航者は十年以内に一億人に迫るとの推計もある。日本は「観光立国」を目指し、観光庁さえ設立して観光客誘致に力を入れ始めてい る。「中国人海外渡航者の一割を日本へ」というのが日本の狙いだが、一割でも約一〇〇〇万人の中国人が日本を訪れることを意味する。昨年二〇〇九年の中国 からの訪日者は一〇一万人であったから、一〇倍になるということである。途方もない時代が迫っている。

台湾での講演に際し、ジャーナリストから質問を受けた。「日本人に一〇〇〇万人を超える中国人を迎え入れる覚悟はあるのか」という質問であった。ホテルなどの設備・施設だけでなく、社会総体の受け入れシステム、文化や社会的軋轢の問題にまで視界に入れねばならない。

日本人出国者——壮年の男が海外に出ない国

二〇〇九年の日本人出国者は前述のごとく一五四五万人で、前年の一五九九万人から五四万人(三・四%)減少した。ピークだった二〇〇〇年の一七八二 万人からは二三七万人(一三・三%)も減ったことになり、「内向する日本」を象徴する数字といえる。「国際化」「グローバル化」と言葉は行き交うが、実際 に日本に漂う空気は「国際化疲れ」「グローバル化疲れ」とでもいうべき状況である。ストレスのある異文化環境で動くよりも、国内の温泉にでも浸かっていた ほうが快適という心理に、日本人が沈みこんでいるともいえる。

日本人出国者を分析してみて、興味深い事実に気付く。十五歳から三四歳までを「若者」として、この年齢層の海外出国者は、出国者総計の三 〇%を占める。ただし、その三〇%のうち男性は一二%で、女性は一八%、圧倒的に女性が海外に出ているのである。また、六〇歳以上を「老人」とすると、こ の年齢層の出国者は出国者総数の二〇%を占める。つまり、この国から海外に出る人は老人と若者、とりわけ若い女性の比重が大きいということである。

三五歳から五九歳までの壮年期の男性が海外出国者に占める比重は二七%で、この層が前年比一六%も極端に減少していることからみて、ビジネ スで海外に出る機会はあるものの、忙しすぎるのか経済的に余裕が無いのか、自分の目的意識と関心で海外に出る機会は少ないという状況が垣間見える。

たとえ「物見遊山」の気軽な観光であれ、自分の足と眼で世界を体験することは意味がある。その点で、定年退職後の世代と若い女性が積極的に 世界に動き、働き盛りの世代の男性が、仕事か近隣諸国への遊興以外には海外に出ないという現実は重い。日本経済が一段とアジアとの相関において成立する方 向に向かっている中で、日本が置かれた状況を認識する上で、この世代の世界認識の狭さが問題なのである。

日本人の渡航先の変化も考えさせられる。二〇〇六年、米国を訪れた人よりも中国を訪れた人が上回ったが、この傾向は一段と顕著になり、二〇 〇八年には中国への渡航者は三四五万人、米国への渡航者は三二五万人となった。しかも、米国への渡航者のうち六四%にあたる二二二万人はハワイ・グアムな どへの訪問者であり、米本土への渡航者は一二三万人にすぎないのである。二〇〇九年の日本人出国者は前記のごとく一五四五万人であったが、渡航先の内訳は 部分的にしか発表されていない。中国への渡航者は三三二万人だが、香港(一二〇万人)、台湾(一〇〇万人)、シンガポール(四九万人)を加えた大中華圏へ の渡航者は六〇一万人、韓国への渡航者は三〇五万人で、大中華圏と韓国への渡航者の総計が九〇六万人と米国への渡航者の三倍を超える時代になったのであ る。日本人がアジアに体験を広げ、視界を開くことは、これからの日本人の世界観にジワリと影響を与えていくであろう。

訪日外国人——アジアからの来訪者のダイナミズム

二〇〇七年、戦後初めて、中国からの来訪者(九四万人)が米国からの来訪者(八二万人)を上回った。中国からの来日には、次第に緩和されてきたが依 然として「ビザ規制」があるにもかかわらず、来訪者数は増大基調を辿っており、二〇〇九年には、全体の訪日外客数が一八・七%減という中で、前年比微増の 一〇一万人となった。

二〇〇九年の訪日外国人六七九万人の中で、中国本土からの一〇一万人に台湾からの一〇二万人、香港からの四五万人、シンガポールからの一五 万人を加えて、大中華圏からの来訪者総計が二六三万人と三九%を占める。これに韓国からの一五九万人を加えると、訪日外国人の六二%にあたる。韓国からの 来訪者は、通貨のウォン安を背景に、前年比三三%減となったが、韓国経済のV字型回復を背景に一一月からは急回復している。銀座を歩いても、地方の温泉に 行っても、やたらに中国人と韓国人が増えたという印象を抱くのも当然なのである。ちなみに、米国からの来訪者は七〇万人と前年比一〇%減となった。急速な ドルの減価の中で、米国人にとって日本訪問の壁は一段と高くなっているのである。

「観光立国」といっても、実体は大中華圏と韓国からの来訪者を主とする観光ということになる。温泉やスキー、秋葉原・銀座での買い物も何度となく訪れてく れるリピーターとしていくには魅力に欠ける。県、地方ごとの観光誘致には熱心だが、広域ブロックで連携して外国人観光客を受け入れる体制は十分ではない。 訪問する側の目線に立った「観光立国」になっていないのである。定番の観光地であてがわれた食事を食べる団体旅行ではなく、長期滞在して日本人の生活に溶 け込み、文化を味わっていく観光へと進化させなければならない。日本人の観光への考え方を変えざるをえない局面が迫っている。

相互補完性の中の日本

今、日本はアジアのダイナミズムに突き上げられ、かつ支えられつつある。この微妙な力学を冷静に認識すべきである。人の移動は好奇心を誘発し、発見 を通じた向上心をもたらす。近隣アジアの人々の表情を直視するとき、その熱気にたじろぐとともに、日本人が忘れかけていたものを想起させられる。

このところ、日本での議論には「中国・韓国の攻勢に追い上げられ、劣勢に立つ日本」という認識が広がりつつある。「ついに、GDPで日本が 中国に抜かれる日」「リーマンショックからV字型回復を遂げ、世界市場で躍進する韓国企業」などという報道が続き、当惑と危機感が飛び交う。しかし、冷静 にいえばアジアのネットワーク型発展の中で、日本も大きなメリットを受け、近隣諸国との相互関係の中で我々自身の生業が成立しているともいえるのである。

例えば、昨年の日本の貿易収支を見てみよう。全体で二・八兆円輸出超過となったが、韓国への輸出超過は二・四兆円、台湾には一・七兆円、香 港には二・九兆円となっており、とくに、韓国・台湾は日本製の部品(中間財)を輸入し、それを最終製品に組み入れて外貨を稼ぐ経済構造になっている。 日本こそアジアの「ネットワーク型発展」の受益者でもあり、それを促している推進基点でもあるのだ。昨年の日本の米国への輸出超過は三・二兆円と前年比で 半減、大中華圏(中国、香港、台湾、シンガポール)と韓国を合計した輸出超過の七・一兆円が日本の外貨獲得の支柱である。相互補完性を認識し、この構造の 中での日本産業の次なる展開を構想することが肝要なのである。屈折した被害者意識に埋没せず、日本は一歩前に出て、日本の技術優位性、ファイナンス力を生 かし、官民協力した戦略スキームを構築し、環境・インフラ・交通システムなどのプロジェクトを「システム輸出」として推進する総合エンジニアリングがこれ からの課題である。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年3月号

水上達三と貿易立国日本—問いかけとしての戦後日本(その9)

高坂正堯が「海洋国家日本の構想」を書いたのが東京オリンピックの年一九六四年であった。戦後の日本が「大東亜共栄圏構想」の挫折を踏まえ、国家と してのフロンティアを七つの海に求め、「東洋でも西洋でもない立場に生きること」「通商を通じて国を豊かにしていくこと」を暗黙の国民目標として「戦後復 興・成長路線」を走り始めたことを象徴する論文であった。そして、通商の現場で戦後日本の復興・成長の現場を担った中心人物の一人が水上達三であった。戦 後、GHQに解散させられた三井物産を再生させた水上達三という人物と、私は一九七三年に出会った。「石油危機」の年、一九七三年に三井物産の新入社員と して調査部に配属された私は、既に社長を退き相談役として「日本貿易会会長」の仕事に情熱を燃やしていた水上に、正に末席の新人として資料作成の下働きを 始め、その「お礼」ということで、何度か円卓の中の一人として中華料理をご馳走になったこともあった。日本の輸出が三六九億ドルになったのが正に一九七三 年であったが「輸出が一日一億ドルになったよ」と感慨深く水上が語っていたのを思い出す。 「国際収支の天井」という言葉がつきまとい、「売るものがない から買いたいものも買えない」、つまり輸出産業が育っていないから「輸入超過」という状態を日本経済が脱したのが一九六五年であり、安定的な「輸出超過」 を持続し始めたのは、第二次石油危機を経た一九八一年からであった。戦後直後の貿易の前線を担い、「外貨獲得」に立ち向かった「商社マン」たちは、まずは 米国市場においてクリスマスツリーのランプや三条燕の洋食器の見本をバッグに詰め、靴を履きつぶすような戦いを続けたのである。

水上達三という人生

水上達三は一九〇三年(明治三六年)、山梨県巨摩郡に生まれ、甲府中学を卒業した。故郷山梨が水上の人生に大きな意味をもったことは間違いない。彼 は「私の履歴書」の中で「甲府中学には優秀な先生が多く、私は様々に影響を受けた。甲府は江戸幕府の直轄地であったから、学問にも熱心な風土が自然に出来 ていたものと思う。甲府中学の前身は、一七九六年(寛政八年)に幕府が設立した『甲府学問所』のちの『徴典館』という塾で、ここから多くの学者が輩出して いる。一九〇六年(明治三九年)には大島正健という校長が赴任し、さらに校風を高めている。この人は札幌農学校の第一回卒業生で、“ボーイズ・ビー・アン ビシャス”のクラーク博士の直接の教えを受けており、開明的思想を甲府中学に注ぎ込んだものとみえる。石橋湛山は中学の先輩で、大島校長に強く打たれたよ うだ」と述べている。

正に「人間山脈」という言葉を想起させられるが、人間は人間によって育つ。それが連綿と繋がり不思議な影響の連鎖が生まれ、クラーク博士が 蒔いた種が甲府で大島正健によって花開き、石橋湛山、水上達三などに受け継がれていく。石橋湛山は『湛山回想』(岩波文庫)において「(私の)意識の底 に、常に宗教家的、教育者的志望の潜んでいたことは明らかであった。そこに私は、大島校長を通じ、クラーク博士のことを知り、これだと、強く感じたのであ る。つまり私もクラーク博士になりたいと思ったのである。私は今でも書斎にはクラーク博士の写真を掲げている」と書く。その石橋湛山を郷里の母校の先輩と して敬愛し、水上は石橋を囲む『東洋経済』の時局座談会に欠かさず参加していたという。湛山の亡き後、その自由主義、民主主義、平和主義(国際協調主義) の思想を普及することを目的に「石橋湛山記念財団」が設立されたが、水上は財団の理事長を引き受け、十五年以上もその活動を支え続けた。

一九二八年(昭和三年)、水上達三は東京商科大学を卒業後、三井物産に入社した。その翌年には高崎派出員として群馬県高崎市に赴任、以来六 年間も高崎での生活を続けた。入社早々、国内の小店に六年間も勤務させられる状況にも水上は腐らなかった。むしろ積極的に受け止め、「派出員だからこそ、 本店にいたら若手では読めないような書類が読めた」、「何でも任されて、いやでも全体の業務を覚えた」と述懐している。

置かれた状況を積極的に受け止め、吸収し、学び取ろうとする精神は、水上の生涯にわたり貫かれている。終戦を三井物産の北京支店長代理とし て北京で迎えた四一歳の水上は、接収された三井物産の残務整理に当たった後、抑留されていた日本人引揚者一三五〇人の団長として一九四六年に帰国する。こ の敗戦後の大混乱期の北京においてさえ、水上は苦心して短波放送の受信機を手に入れて、サンフランシスコ、メルボルン、デリーなどから入る情報を入手し て、敗戦後の日本がどうなっていくのか、正確な情報を得ようと手を尽している。情報へのこだわり、集中力は驚嘆すべきものであった。

帰国後、三井物産に復帰して間もなく、一九四七年七月、「財閥解体」を意図する占領軍総司令部(GHQ)の指令によって「解散」させられ た。GHQの指令は、「かつてどの敗戦国の一民間企業が受けたこともない過酷なもの」であった。何しろ「旧三井物産で部長以上だった者が二人以上で新会社 を組織すること禁止」「旧三井物産の従業員が百人以上で新会社を組織すること禁止」「商号使用禁止」「資本金二〇万円以上の新会社設立禁止」というもの で、完膚なきまでに三井物産という組織を壊滅させる意図が込められていた。

「三井物産は無に帰したのだ」「明日からどう食うかの事態になったのだ」と、この時の思いを水上は書き残している。水上は旧三井物産の仲間 三七人を集め、資本金一九・五万円の新会社「第一物産」を設立した。四三歳の水上は「辛い時代でも夢は大きく持ちたい。今後の日本も、大切なのはやはり貿 易だ。貿易会社なら広い範囲のものを扱うべきだ」と判断したという。二百以上もの弱小企業として点在していた旧三井物産系の商社群の中から、水上の第一物 産が力をつけ、合併再編の中核企業になっていく。

何故、第一物産が一九五九年の「三井物産大合同」の中核になったのか。つまるところ経営者の志と意思だったといえる。解散直後から「十年以 内に三井物産を復活する。第一物産がその母体になろう」と水上は言っていたという。投機的な「思惑買い」をせず、「日本の進むべき前途を考え、国際情勢を 出来るだけ細かく分析しながら進んだことが、力をつけた理由であろう」と彼自身は述べている(「私の履歴書」)。会社の規模は小さくとも、取り扱い品目の 多様性だけでなく、輸出・輸入・外国間貿易・国内商内など商内形態の総合性、さらには金融機能など、企業機能の総合性にこだわり続け、「総合力」を志向し 続けた。第一物産が思いがけぬ利益を挙げた時、水上がまず踏み切ったのは「調査情報部」と「技術部」の創設であった。商社にとって、情報と技術が成功の鍵 であることを見抜いていたのである。

水上の貿易立国論の進化

私の思い出の中の水上達三は、「恐ろしく情報感度の高い人物」という印象である。右手にマクロの貿易統計、左手にミクロの三井物産の実績を持ち、そ れを付き合わせながら、次に如何なる戦略・戦術を打つべきかを考え抜いて、的確な指示を与えていた。経営者の持つべき問題意識と行動力の凄みを思い知らさ れたものである。好奇心が強く、常に新しい事象に関心を抱き、若手の話に興味を抱いていた。

一九八八年(昭和六三年)、水上達三は『貿易立国論―水上達三論集』(有斐閣)を出版した。水上が体験的に蓄積した思想や世界観を集約した 作品である。注目すべきは、「貿易によって日本の戦後復興に貢献しよう」という若い時代の問題意識が次第に進化し、「一国民、一民族中心の貿易立国論か ら、世界経済全体との関連の中で貿易立国論を位置づける」方向に向かっていることである。日本の戦後というのは、水上のような視界をもった経営者とそれを 支えた貿易の前線に立った先人たちの情熱が創り出したという面もある。

私が三井物産に入社した一九七三年に「一日一億ドル」を超した日本の輸出は、二〇〇八年には七八四一億ドルと実に二〇倍以上に増大した。日 本の産業力の高まりに感慨を覚えざるをえない。「売るものがない」といっていた国が隔世の感がある。にもかかわらず、この国を覆う無力感は何であろうか。 「ハヤブサの達」といわれた水上達三の眼光と「貿易には真理と哲学がある」といっていた言葉を思い出す。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年2月号 特別篇

常識に還る意思と構想—日米同盟の再構築に向けて   寺島実郎

中国の作家魯迅は、二〇世紀初頭の中国について、植民地状況に慣れきった中国人の顔が「奴顔」になっていると嘆いた。「奴顔」とは虐げられることに 慣れて強いものに媚びて生きようとする人間の表情のことである。自分の置かれた状況を自分の頭で考える気力を失い、運命を自分で決めることをしない虚ろな 表情、それが奴顔である。

普天間問題を巡る二〇〇九年秋からの報道に関し、実感したのはメディアを含む日本のインテリの表情に根強く存在する「奴顔」であった。日米の軍事同盟を変更のできない与件として固定化し、それに変更を加える議論に極端な拒否反応を示す人たちの知的怠惰には驚くしかない。

常識に還るということ、日本人に求められるのは国際社会での常識に還って「独立国に外国の軍隊が長期間にわたり駐留し続けることは不自然な ことだ」という認識を取り戻すことである。詭弁や利害のための主張を超えて、この問題に向き合う強い意思を持たぬ国は、自立した国とはいえない。直視すべ き事実をもう一度明記しておく。

(1)戦後六五年目を迎え、冷戦の終焉から二〇年が経過しようとしている日本に、約四万人の米軍兵力(他に軍属、家族が約五万人)と約一〇一〇平方km(東京二三区の一・六倍)の米軍基地が存在していること

(2)米国が世界に展開している「大規模海外基地」上位五つのうち四つが日本にあること(横須賀、嘉手納、三沢、横田)

(3) 「全土基地方式」が採用され、日米政府代表による日米合同委員会がどこを基地として提供するかを決めることができる(地位協定二条)ため、国会承認なしで 全国どこにでも基地が提供でき、東京首都圏に横田、横須賀、座間、厚木など世界に例がないほどの米軍基地が存在すること

(4)米軍駐留経費の七割を受け入れ国たる日本側が負担するという、世界に例のない状態が続いていること

(5)在日米軍の地位協定上のステータスは、占領軍の基地時代の「行政協定」を引きずり、日本側の主権が希薄であるのみならず、地位協定にも規定のない日本側コスト負担が拡大してきたこと

二〇〇九年一二月初旬の訪米での再発見

一二月の第一週、ニューヨーク、ワシントンと訪問してきた。一〇年以上もの米国勤務を終えて帰国した一九九七年以来、年四回は続けてきた定点観測で ある。今回は、オバマ政権がスタートして九カ月、「グリーン・ニューディール」といわれる環境エネルギー分野での日米産業協力、さらには私が総務省のタス クフォースの座長を務める「次世代ICT(情報通信)」分野での専門家との意見交換を狙いとするもので、日米安保に関する議論を主眼とするものでははな かった。

にもかかわらず、鳩山首相が小生の長年の友人で、時に意見交換の機会もあるというだけで、「切迫する普天間問題」に関する「首相の 密使」であり、普天間問題を巡る根回しでもするために訪れたかのごとく、日経新聞、読売新聞で繰り返し報道された。外交で避けるべきは「二元外交」であ り、正式な外交ラインによる交渉が動いている局面において、異なる次元での交渉など事態を混乱させるだけで、私はそのような動きに参与するほど愚か者では ない。今回はむしろ微妙なタイミングでもあることを配慮して、国務省、国防省、大統領府などの日米関係の責任ラインに会うことは避け、ワシントンにおける 国際問題に関わるシンクタンク、世界銀行、米州開発銀行、エネルギー・環境問題に関する専門家、ジャーナリストなどとの面談に絞り、深い議論を積み上げて きた。

この間まで、「インド洋への給油活動こそ日米同盟の証であり、これがなくなれば日米同盟は破綻する」と言っていた人たちは、今度は 「普天間問題での日米合意をそのまま実行しなければ、日米同盟は亀裂する」と主張し始めた。また、在ワシントンの日本のメディアにも「良好な日米関係破綻 の危機迫る」との発信しかできない特派員が少なくない。

これらの人たちが描く「良好な日米関係」とは何か。

あえていえば、 「ブッシュ・小泉時代の日米関係」、米国の期待を素早く受け入れて「ショウ・ザ・フラッグ」に呼応してインド洋、そしてイラクに自衛隊を派遣するような関 係を望ましいものと考えているようである。つまり、今までの日米間の安全保障の関係を「不変のSTATUSQUO(現状)」とし、一切の変更は望ましくな いと思考する人たちの過剰反応が、私の訪米についての報道でもあった。

しかし、我々は「イラクの失敗」を目撃した。米国は五三〇〇人を超す 兵士をアフガニスタンとイラクで死なせ、一兆ドルを超す戦費を費やした。主導したブッシュ大統領自身が「イラク戦争は間違った情報に基づく戦争だった」と 総括して辞め、その戦争で死亡したイラク人は少なくとも一〇万人と推計されている。米国自身が、その反省に立って「イラク戦争に反対したオバマ」を大統領 にしてパラダイムの転換を図ろうとしているのである。日本人の中には、そんな戦争に加担して道を間違えたという省察は不思議なほど見られない。だが、この ことへの誠実な総括なしには、これからの日米同盟の在り方を構想することはできない。何故なら、九・一一後の「米軍再編」に至るプロセスをしっかりと再認 識することが、次なる日米同盟の在り方の基盤だからである。

それにしても、日米安保にまつわりつく人たちの腐臭はすさまじい。私はワシント ンの中で通常「知日派・親日派」といわれ、「日米安保で飯を食べている人たち」から距離をとる必要を痛感する。これらの人たちは、日本からの来訪者を笑顔 で迎え、しばしば日本でのシンポジウムにも参加して「日米同盟は永遠の基軸」というエールを交換していく。常に基地を受け入れる日本側の「責任」に言及 し、より大きな「国際貢献」という名の対米協力を求める。もちろん、これらの人に呼応する日本側の「知米派・親米派」という一群の人たちがいて、この相互 依存が、長い間の日米関係を規定してきた。そのもたれあいの行き着いた悲劇が「守屋防衛次官の逮捕」という事件であったことは記憶に新しい。

ここ何年かの訪米で、私は広い世界認識を持った人物を訪ね、より多面的な視界からの日米関係の在り方を話題にし、意見を聞くことを心がけている。それは、利害や思い込みを超えて、広い視座から現在の日米同盟がどう見えるのかについて、客観的な意見が聞きたいからであある。

そ して、驚くべきことに、ワシントンにおける最高レベルの知識人や国際問題の専門家でさえ、日米関係に関与していない人たちの多くは日米同盟の現実(米軍基 地の現状や地位協定の内容)を知らない。むしろ、こんな現実が続いていることに、「米国の国益は別にして」と付け加えながらも、怪訝な表情と率直な疑問が 返ってくるのである。

もうひとつ、一〇月の北京大学での講演を機に中国を訪れた時の、屈折した体験に言及しておきたい。中国の幾人かの外交 官、国際問題の専門家と日米安保に関する議論をしていて、率直な疑念として提起されたのが所謂「ビンのふた」論であった。つまり、日本が自立志向を高め、 日本から米軍が撤退すれば「日本軍国主義の復活を閉じ込めるビンのふた」がなくなり、近隣諸国は不安になるという論理である。実は、日米安保が現状のまま 固定していて欲しいと願うのは、日米双方に存在する「日米安保で飯を食う人々」だけでなく、中国こそ在日米軍の存在に期待しているという皮肉な構図に気付 かされるのである。

日米安保の屈折した様相に苦笑せざるをえないが、日本人として心に期すべきは、日本の平和と安全は日本人自身の意思で確保すべきものであり、平和主義に徹して近隣の脅威にならない自制も我々の責任だということである。

日米安保の本質と冷戦後の変質

言うまでもなく「日米安保体制」とは、東西冷戦を背景に構築されたものであった。そのことはこの体制構築の日本側からの推進者として一九五一年のサ ンフランシスコに向かった吉田茂自身が明快に語っている。その著『回想十年』(東京白川書院、一九八三年)の一九章「日米共同防衛体制の由来」において、 日米安保条約が米国側から押し付けられたものでも日本側から頼んだものでもなく、ダレス国務長官との間において「日本防衛、自由世界の防衛という点で、い わば客観情勢の認識、見透しを同じくし、講和に伴う占領軍の撤退後における日本防衛の空白を埋めるのには、あれ以上の良策がないという結論に達した」と説 明した後、吉田は次のように書く。「安全保障条約は、条約自身が明らかに想定しているとおり、飽くまで暫定的な措置である。すなわち日本の自衛力が十分強 化されたとか、国際情勢が著しく緩和されたとかによって、この条約の必要が消滅すれば、いつでも終了させ得るのである。」

日米安保条約とは 冷戦を背景に、暫定的なものとしてスタートした。その後一九八〇年代末まで、東側との冷戦期の安全保障の仕組みとして「日米安保」が有効に機能したことは 評価すべきである。しかし、吉田の後進たちは四〇年間の惰性のなかで、政治家も外交官も、あまりにも冷戦期の枠組みに縛られ、世界情勢の変化を機動的に捉 えてその枠組みを超える柔らかい政策を思考する姿勢を見失い、今日に至った。

吉田茂はサンフランシスコ講和会議と日米安保条約の調印に臨み、周りにいた若い外交官に対し、「自分は西側陣営の一翼を占める形で、戦後復興と安全を図るのが妥当と判断して調印に向かうが、君たちは日本外交の選択肢を柔らかく研究するように」と話したという。

冷 戦の時代を経て、一九八九年にベルリンの壁が崩れ、世界は冷戦後の時代へと入って行った。冷戦を前提とする「日米安保体制」も、世界情勢変化を背景として 根本的に見直されるべきであった。ところが、日本側の事情は違っていた。東西冷戦の代理戦争的状況でもあった自民党対社会党の「五五体制」が存在意義を失 い、一九九〇年代の政治状況は流動化し始めた。一九九三年に宮沢内閣を最後として自民党単独政権は終わりを告げ、細川政権から森政権まで短命政権の隆替が 続く。自民党と社会党の連立という村山政権の誕生さえ経験した。腰の入った外交基盤の転換などできなかった。

冷戦後の一〇年間に、同じ敗戦 国のドイツが一九九三年に「在独米軍基地の見直しによる縮小(在独米軍を二六万人から四万人に削減)、地位協定改定」に踏み込んだごとく、日本も日米安保 体制を見直すべきであった。ところが、「アジアでは冷戦は終わっていない」という認識で、日米安保を自動延長する流れが継続され、せいぜい九六年の橋本・ クリントン共同宣言(日米安保の再定義)を経た九七年の「ガイドラインの見直し」がなされた程度であった。

しかも、「ガイドラインの見直 し」は実は大きな危険を招きかねない日米合意に踏み込んだ。日米安保が対象とする「有事」(周辺事態)を、従来の極東地域に限定する「極東条項」を取り払 い、「平和と安全を脅かす事態の性格」によって決める方向に変更したのだ。つまり、世界のどこで起こった事態であれ、日本の平和と安全を脅かすと判断すれ ば、米軍と共同して動く可能性を開いてしまったのだ。

こうした判断の背景には、九〇年代の世界状況に対する認識があったといえよう。冷戦後 の「米国の一極支配」とか「唯一の超大国となった米国」といった議論が主潮となり、深い思慮もなく米国の世界戦略との一体化が加速されてしまったのであ る。そうした状態で二一世紀を迎え、九・一一の衝撃を受けた米ブッシュ政権が、逆上してアフガニスタン、イラクへと軍事進攻するのに対し、「日本は米国に ついていくしかない」という思考停止の選択を余儀なくされていった。

日米安保条約が締結されて約六〇年、その変質の中で不可解なのは日本側 のコスト負担の増大である。元々、地位協定において日本側経費負担はなかった。地位協定二四条では、米軍駐留に伴うすべての維持費は、日本ではなく米軍が 負担することになっていた。日本は基地の土地は提供するが、維持費は米国側が負担することになっていたのである。一九九二年まで、フィリピンに存在してい たクラーク空軍基地、スービック海軍基地のごとく、米国がフィリピン政府に「使用料」(米側の言葉では「援助金」)を支払っていたケースさえあった。

と ころが、日本側負担は次第に拡大し、一九七八年からは金丸信防衛庁長官(当時)が、日本人基地労働者の福利厚生費の一部を「思いやり予算」の名目で負担し たことを始まりとして、日本側負担増が常態化してきた。基地周辺対策費や用地賃借料などを含め、今世紀に入っても年平均六〇〇〇億円前後の米軍基地経費の 日本側負担(含む思いやり予算)が続いており、冷戦後の二〇年間で、累計一〇兆円を超す米軍基地関係費用を日本国民は「安全のコスト」として税金で負担し てきたのである。

世界にも他に例がないほどの、受け入れ国が米軍基地の経費の七割を負担しているという事実が、逆に現状変更を困難にする要 素になっていることに気付く。「米軍を配備するうえで、最も安上がりの場所」という認識が米軍関係者にまで浸透し、日米双方に「日米安保で飯を食う利害関 係者」を増幅させてしまったからである。過日の民主党新政権による「予算仕分け」作業において、沖縄米軍基地で働く九〇〇〇人の日本人従業員の給与が県内 の同等業務の労働者の給与より二~三割程度割高であることが指摘され、「削減」が議論されたことに対して、基地労働者の代表が怒りのコメントを語っていた が、基地問題の複雑さを印象付けられた。

ともあれ、冷戦後の一〇年は、日米安保を構造的に見直すことなく「空白の一〇年」となった。そして、二一世紀を迎えて直面したのが九・一一であり、それを受けた「米軍再編」の動きによって、日米同盟はさらなる変質を始めた。

米軍再編とは何だったのか

○九年に亡くなった軍事評論家の江畑謙介は、正確な知識と情報に基づく軍事評論家として敬服すべき存在であった。その晩年の著書『米軍再編』(二〇 〇五年、新版二〇〇七年、ビジネス社)は、米軍再編の真実を冷静に分析した作品であった。この中で「米軍は必要な時に日本を、太平洋を越えた兵站補給、部 隊展開の前進拠点にしようとしている」と米軍再編の本質を見抜いていた江畑は「同床異夢の米軍再編には危険が潜む」と指摘、基地の縮小・移転、地位協定の 改正、思いやり予算の削減などについて戦略的提言をしていた。我々は江畑謙介の問題意識と提言を重く受け止めなければならない。

米軍関係者 が「トランスフォーメーション」という米軍再編は、ブッシュ政権の国防長官だったラムズフェルトが主導した、九・一一後の米国の「イラク戦争」「テロとの 戦い」に即応した戦略であった。狙いは「①先制攻撃さえ含むテロとの戦いの効率化、②同盟国軍隊との共同作戦の強化」にあり、本来の日米安保の目的を逸脱 したものであった。

アーミテージ元国務副長官は、〇九年一二月に都内で行われた日米関係に関するシンポジウムにおいてさえ、「皆さんが今 夜、安心して眠れるのは米国が日本を守っているからだ」と訴えていた。悪意はないのだろうが、残念ながら日米安保の実体が「日本を守る」「極東の安全を守 る」という原点から大きく乖離し、中東から中央アジアまで「イスラム原理主義」を意識した、テロとの戦いなる「アメリカの戦争」に対する共同作戦の基盤へ と変質していることを正確に伝えていない。「イスラム原理主義」に立つテロリストとの戦いは、微妙にイスラム全体の憎しみを増幅し、文明の衝突さえ誘発し かねないリスクがある。日本の立場をいえば、イスラムが日本の安全保障を脅かす構図に自らを置くことは愚かである。

一九八〇年代から、私は 中東問題に巻き込まれてきたが、日本人が自覚すべきは、多くの中東諸国の人たちが「日本は中東のいかなる国にも武器輸出も軍事介入もしたことのない唯一の 先進国」という事実に敬意と好感情を抱いているということである。また、米国とは異なり、「イスラエル・パレスチナ問題」に対して「イスラエル支持」を表 明せざるをえない国内事情があるわけでもない。日本の立ち位置を自覚し、世の中には日米共同で当たるべきこととそうでないことが存在することを強く認識し なければならない。

改めて日本を取り巻く「脅威」とは何か

二一世紀初頭の一〇年間を経ようとしている今、世界が大きな構造転換を進めつつある中で、日本の安全を脅かす危機とは何であろうか。冷静に再考すべきである。

ロ シアの脅威はどうか。北方四島、漁業を巡る利害の対立はないとはいえないが、ソ連時代のような軍事攻撃の可能性は現実的ではない。むしろ、二〇〇八年に起 きた「グルジア侵攻」などの問題が米露対決を招き、「新冷戦の時代」のような事態になって、同盟国として「米国の戦争」に巻き込まれる可能性のほうが高 い。

では、北朝鮮の脅威はどうか。確かに、国力にそぐわぬミサイル、核開発を進める北朝鮮は脅威である。ただし、冷戦の時代の北朝鮮の脅威 と現在の脅威は異なる。冷戦の時代、北朝鮮が「南進」することは後ろ盾のソ連・中国と呼応しての軍事行動であり、韓国や日本にとっては「社会主義への体制 転換の脅威」であった。しかし、現在の北朝鮮の脅威は「ならずものとしての脅威」(撹乱要因)であり、世界に共鳴者を拡大できるメッセージもなく、「冷戦 孤児」として孤立を深める先軍国家が放つ断末魔の叫びのようなものである。

ただし、北朝鮮が自暴自棄的な「南進」をする危機は皆無とはいえ ず、沖縄海兵隊の抑止力などは重く認識すべきであろう。しかし何よりも日本としては、北朝鮮のミサイル・核を「使えない兵器」にする外交戦略が重要であ り、ロシア、中国、韓国、米国を引き込んだ「北東アジア非核化構想」などを主導し続ける姿勢が必要となろう。

では中国の軍事的脅威はどう か。中国の国防費は二一年連続で増加を続け、二〇〇九年度には六・九兆円(前年度比一四・九%増)と日本の防衛予算(このところ五兆円水準)を大きく上 回っている。人経費水準の低い中国の事情を配慮すると、正面装備は驚異的な充実を図っているといわざるをえない。そこで「日米同盟を強化して中国の脅威と 向き合おう」という論理に引き込まれがちになるが、事態は単純ではない。米中関係の変化である。二〇〇六年から始まった「米中戦略経済対話」は、オバマ政 権になって二〇〇九年四月に政治・安保を含む閣僚級会議に格上げされることになった。また、「米中ビジネス・カウンシル」には五〇〇社近くの米国企業が参 加し、昨今の日米財界人会議の低調とは対照的に一段と密度の高い交流を深めている。

そこで、一つの仮説として、もし中国が尖閣列島を武力占 領した場合、日米安保が発動されて米国が行動を起こすかを考えてみたい。日本人の期待からすれば、尖閣は沖縄返還の瞬間まで米国が施政権を持っていた地域 であり、「どちらの領有か分からない」などというものではない。だが、米外交官が近年においても「日中間の領土問題に巻き込まれたくない」と発言している 如く、米国の本音は微妙である。おそらく、その時点での米政府が米国民世論を配慮し、行動を起こすのが妥当と判断すれば、尖閣防衛に動くかもしれないとい うのがバランスのとれた認識であろう。

こうして思索を巡らせると、日米共同して向き合わねばならない脅威(有事)というものも、大きく変質 し、必ずしも鮮明ではないことが分かってくる。日本側からの過剰期待や過剰依存は成立しないのである。むしろ、一番説得的なのが「戦略的あいまいさ」とで もいおうか、日米軍事同盟による米軍の存在自体が、漠然たる「レバレージ」(危機対応力)を象徴しているという考え方で、「日本が孤立した存在」ではない ことを担保する仕組みとして機能しているという捉え方であろう。

日米同盟の進化とは何か

さて、こうした認識を基盤として、我々はいかなる二一世紀の日米同盟を目指すべきなのであろうか。日米双方で政権交代が行われ、これまでの利害や固定観念を超えて我々は柔らかい構想を探求すべきであろう。

ラ イシャワー東アジア研究センター所長のケント・カルダーは『米軍再編の政治学―駐留米軍と海外基地のゆくえ』(日経新聞社、二〇〇八年)において「過去五 〇年間、基地受け入れ国で政権交代がなされた後に、撤退する確率は、アメリカの基地の場合でも六七%」という興味深い事実に触れている。東アジアの現状を 冷静に捉えるならば、「戦略的あいまいさ」であっても、日本での米軍の存在は一定の枠においては継続されるべきものであろう。ただ、これまでの惰性ではな く、熟慮の上、相互信頼に値する日米同盟の再構築に立ち向かうべきである。その方向に向けて論点とされるべきことを下記したい。

(1)日米 の戦略対話の仕組みを構築し、「未来志向の日米関係」に関して経済と安全保障の二本立てで閣僚級討議を深め、日米同盟を再設計する。すなわち、経済産業に おける日米連携の深化のための日米産業協力や日米FTA(自由貿易協定)などを具体化する戦略対話と、安全保障体制の進化のための在日米軍基地の在り方 や、日米防衛協力についての戦略対話を実現する。

(2)安全保障に関しては、長期的に目指すべき日米軍事同盟の在り方について日本側の考え 方を明確にする。例えば、東アジアに軍事的空白を作らないことを配慮しつつ、米軍基地・施設を使用目的ごとに検討し、目的を終えたものから削減し、まずは 一〇年以内に半減を目指す。(注 地位協定二条3には「この協定のため必要でなくなったときは、いつでも日本側に返還しなければならない」となっている)

(3) 地位協定については、米軍基地を順次「日本政府が管理する枠組みなかで、米軍を自衛隊基地に駐留させる形での共同管理方式(地位協定二条4-b)」へと移 行する。(注 石破元防衛庁長官もかつて同様の問題意識で「将来、原則としてすべてのアメリカ軍を自衛隊が管理・運営する基地に駐留させること」、つまり 日本が主権を持つ形での共同使用を提案していたという)

(4)将来に向けての新たな日米安保の形として、「アジアに軍事的空白を作らない」ために、米軍のプレゼンスを維持する仕組みとして、ハワイ・グアムに「緊急派遣軍」的戦力を一定期間保持して、日本・韓国が応分のコスト負担をする方式など柔軟なシナリオを模索する

(5) 普天間問題は、長期的な日米安保体制の見直しの中で検討されるべき事項であるが、基地使用継続に伴う周辺住民への危険を配慮し、米側と取り決めた「二〇一 四年までの移転完了」を可能とする現実的選択肢を速やかに決定する。この場合、米側の戦略計画にも配慮し、「沖縄・グアムを合わせた戦力の維持」が合意形 成のポイントとなるであろう。

思えば、本稿の冒頭で提起した「常識に還る」という視点は、米国が英国からの独立を目指した際、米国民の「合 言葉」として共有されたトマス・ペインの「コモンセンス」(一七七五年)に通じるものである。ペインは正にコモンセンス(常識)として、イギリスへの従属 や依存が「イギリスの正義」に基づく不必要な戦争に米国を巻き込むことの危険を訴え、米国の自立自尊を呼びかけた。時代背景は違うが、日本人が心に抱くべ き問題意識とも共鳴するものである。

我々は静かに「現代における条約改正」に向き合うべき局面に近づきつつある。

連載「脳力のレッスン」世界 2010年8月号

日米同盟は『進化』させねばならない—普天間迷走の総括と今後   寺島実郎

鳩山政権は八ヶ月余の迷走の挙句、崩壊した。「宇宙人」といわれてきた人らしく、地球人的しがらみや苦悩を超越した愉快な表情で、実体権力者たるを誇示する小沢一郎幹事長を道連れに、テーブルをひっくり返すようにパラダイム転回を図り、天空の彼方に去った感がある。

だが、歴史は冷厳である。普天間問題は未解決のまま残り、政権交代を経た日本外交に方向付けさえできず、舞台は次の幕へと移ることになっ た。私は、長年にわたる鳩山由紀夫という人物との個人的親交もあり、政権発足の直後までは、日本が目指すべき国際関係の基軸に関して、意見を交わす機会も あった。だが、官邸と外交・防衛実務官僚との綱引き、そして内向するメディア状況の中で、外交についての筋道の通った議論が失われていく過程を遠くから観 察するにつれ、「この国の病の深さ」に深い失望と怒りを禁じえない心境になっていった。

ここは怒りを抑え、改めて鳩山政権を冷静に総括し、新たなる前進への礎とする作業を試みたい。私は、本年二月号の本誌に「常識に還る意思と 構想―――日米同盟の再構築に向けて」を寄稿し、普天間問題を含む日米同盟総体の見直しに向けた試論を提起した。本稿はその続編であり、その後の半年を観 察しながら、問題の本質をより構造的に探究した結果の補論である。

世界史の怒涛のような潮流に、冷戦型の「同盟外交」という枠組みそのものが限界にきており、とりわけ戦後六五年の惰性と既得権で固定化され た「日米同盟」という仕組みも明らかに軋み始めており、我々が取り組まねばならない同盟再生というテーマはくっきりと見え始めている。新しい時代へ、物語 は始まったばかりである。

鳩山外交は何故失敗したのか—迷走の構造

鳩山外交が失敗した理由は明白である。普天間問題を沖縄の負担軽減という次元の問題に押し込め、そこを踏み越えられなかったことである。ある意味で は、鳩山由紀夫という人は善意に満ちた人物であり、沖縄に在日米軍基地の七割以上が集中し、沖縄県民に過剰な負担を強いていることに強い問題意識を抱き、 普天間基地の移転先についても「何とか県外へ」と本気でこだわっていた。だが、仮に徳之島など県外に基地が移転されたとしても、それは決して問題の解決で もなんでもなく、基地問題の拡散にすぎないことは、沖縄の人さえも十分に認識している。沖縄の人もギリギリのところで理解できる方向付けは、たとえ前政権 が日米間で合意していた「辺野古移転」を過渡的妥協として受け入れたとしても、日本および沖縄における米軍基地問題を、民主党政権は如何なる方向に持って いこうとしているのかの長期方針が示され、その中で普天間問題が位置づけられることであった。にもかかわらず、問題を国内の代替地を巡るもめごとにし、ジ グゾーパズルの一片を握り締めた愚かな「持ち時間付のゲーム」にしてしまったのである。

普天間移転という問題は、一九九五年の米兵による少女暴行事件、二〇〇四年の大型ヘリコプター墜落事件によって浮上した問題であり、本質は 「基地の安全」の問題であった。したがって事件を起こした当事者である米国側が移転先を含め、責任をもってテーブルにつかねばならないはずの問題である。 それにもかかわらず、「気に入った代替地があれば移ってもいい」として、日本国内のもめごとの決着を腕組みして待ち構え、時間の経過の中で暗黙の圧力をか けうる問題にしてしまったのだ。

向き合うべきは米国であった。もちろん、普天間移設の代替案を巡っての日米協議はなされたが、日米安保の将来を検討する中での協議ではな く、現状の基本枠を是とする硬直した選択肢の中での議論から一歩も出ないのだから、パラダイムの転換などありうるはずは無い。ミクロの話に埋没すれば、現 場に近い実務者の技術論が重くなり「リアリティーがあるかないか」に押し負ける。首相官邸の沖縄負担軽減論も、米国の意向に最大の配慮を見せる外務・防衛 の実務ラインの羽交い絞めにあっていったのである。結局、首相官邸と外務省・防衛省が一枚岩になって米国と向き合い問題の本質に迫るということは五月末の 「日米合意」に至るまでできなかった。「現行の日米安保、基地の現状に変更を加えるべきではない」「米国との関係を損ねるようなことをしてはならない」と いうのが、外交防衛を支える実務官僚の不動の本音だからである。

政権交代によって「官僚主導から政治主導への転換」が語られている。だが、政治主導が機能していない省が二つある。外務省と防衛省である。 政務三役が虚弱というのではない。この二つの省を支える実務官僚には、厚い岩盤のように埋め込まれた「動かしがたい意思」が存在する。それがアメリカの意 向への配慮である。戦後、これらの省はアメリカとの関係によって存立してきた。この二つの省の中核を支える官僚群のキャリアは「アメリカでの研修・実務体 験と意思疎通」の中で形成されてきた。「アメリカへの配慮」と「アメリカの了解」が彼らにとって最も自然な現実的選択なのである。

バランス感覚と豊かな人間性を持った優秀な官僚が多いのだが、彼らと真剣に議論をしてみて、直感的に思い起こすのは、清国末期の、亡国に導 いた官僚が放つ空気である。アヘン戦争から六〇年が経過した一九〇〇年、義和団事件前後の清国の官僚にとっては、大英帝国は動かし難い前提であった。つま り、英国を初めとする列強の圧力を与件として、状況を打開するよりも列強の存在を当然の現実として受け止め「なんとか穏便に事態が推移すればよい」という 心理に陥った専門家が清朝を支えていた。教養と学知はあるが硬直した時代認識に埋没した官僚群は、事件の囚人となって日々を繰り回すことだけに憔悴し、惰 性のままに国の没落をもたらしていった。現下の日本も、客観的情勢判断から政策が決められるのではなく、「対米関係重視」という政策判断が先行して情勢判 断がされるという状況にあり、新しい事態を見通す柔軟で強靭な外交力など期待すべくもないのである。

外交政策の意思決定機構の硬直化と拘束という現実を思い知ったことこそ、今回の迷走劇の教訓であった。だが、鳩山前首相を含め、この国の何 代かの首相に国家の最高指導者としての構想力、目指すべき国に関する経綸が欠けていたことも否定しがたい現実であり、ロンドンエコノミストが「指導者なき 日本(LEADERLESS JAPAN)」という特集(本年六月三日号)を組むのも頷けるのである。

鳩山首相は「私の言葉が国民に届かなかった」と辞任会見で語った。ようやく最後の会見の段階で本音らしきものに言及したが、普天間問題の背 後にある日米同盟の今後に関して、何をどうしようとしているのかについて一度でも国民に語ったことはなかった。外交にはその政策判断の背後に世界情勢に対 する認識、歴史の中での現在という時代への認識が求められる。吉田茂の外交においても、一九五五年のバンドン会議前後の鳩山一郎政権の外交にも、一九六〇 年安保改定期の岸信介政権の外交にも、一定の世界認識と時代認識があったといえる。明確な時代認識と使命感に立つ指導力無き政権は、瞬く間に「今までのま まがいいのだ」という日米双方のエネルギーに囲まれ、身動き取れなくなってしまったのである。

それにしても我々は次元の低い政治ゲームを見せ付けられたものである。あたかも幕末の「攘夷決行」を巡る迷走にも似たドタバタであった。や れもしない攘夷決行を倒幕派が問い詰め、攘夷決行日を約束させ、幕藩体制の権威を失わせていく過程である。今日から見れば、世界観に欠ける滑稽な迷走なの だが、国内だけに眼の向いた「内輪のもめごと」に興奮して屍の山を築く、愚かな熱狂であった。今回の普天間を巡る迷走も自虐と加虐が交錯した日本国内のも めごとであった。「最低でも県外移設」と約束したのだからやってみせると首相がいう。「いつまでに」と問い詰められ、「五月まで」と答える。「自分でいっ たことなのだからやって見せろ」とメディアが迫る。この過程で問題の本質を問い詰める視界は消え、虚ろな三文芝居と化す。昔、「腹切り芸」という話があっ て、「やってみせる」と啖呵を切った男に、「やれなかったなら腹を切れ」と追い詰め、回りで囃し立てて腹切りに追い込む馬鹿馬鹿しい話だが、正に自虐と加 虐が交錯した次元での顛末となった。そして、滑稽な迷走劇を遠目でみている米国、そして世界は苦笑を禁じえないでいるのである。

立ち込める無力感は何であろうか。民主党の議員の中にも、「アメリカのトラの尾を踏んではならない」「日米同盟の在り方、米軍基地に手をつけたら火傷する」という空気が漂っている。だが、この無力感を乗り超えていかねば、日本の戦後は終わらない。

迷走の中で確認できたこと—米国の本音と直視すべき現実

深く洞察するならば、普天間問題で迷走の八ヶ月において改めて確認できたこともあり、そのことは今後の展開において重要な糧となるであろう。

●確認事項1 米国をも呪縛する日米安保の構造

日本の政権が変わり、ひょっとしたら普天間問題が米軍基地総体の見直しにつながりかねないという危機感を背景に、米軍の本音が明らかになってきた。 「日米安保は米国だけがリスクをとって日本を守る義務を負った片務条約であり、日本からの引き上げもありうる」と胸を張っていた米国が、「東アジアの安定 のためには在日米軍基地は不可欠の存在」という懸命のアピールを始めた。日本列島に恒久的に米軍基地を確保することが米国の利益でもあることを隠さなく なったのである。それまでは、「何故、米国の青年の血を流してまで日本を守らねばならないのか」という議論が囁かれ、「いつ引き揚げるかもしれない米軍」 という暗黙の圧力が「集団的自衛権に踏み込んでも日米同盟を深化させないと対等な日米同盟にはならない」という日本側の生真面目な空気さえ醸成してきてい た。

「本気で、米軍は日本に駐留し続けたいのだ」という再確認は重い。理由は明快である。駐留経費の七割を受入国側が負担し、ほぼ占領軍にも等 しい地位協定上のステータスを確保できる基地など、日本以外に無いからである。「米国の世界戦略上の必要性」とか「同盟責任の遂行」とか、もっともな理由 はあるが、日米安保の構造が「経費負担」という短期的な経済利害に関る部分で異常なほど日本側に依存しているが故に、その呪縛から米国自身が逃れられなく なっているのである。一九七八年度に六二億円で始まった「思いやり予算」は、ピークの九五年度には二七一四億円にまで肥大化し、国際法上の常識では外国の 軍隊の駐留を受け入れている国が負担しなくていい米軍の光熱水料から娯楽費まで日本側が負担する事態が続いている。二〇一〇年度には一八八九億円にまで削 減されているが、基本構造は変わっていない。

一つだけ不可解な具体例を挙げる。東京首都圏の座間と多摩に米軍は専用のゴルフ場を保有する。自衛隊でさえ専用のゴルフ場などない。こんな コストも「思いやり予算」として日本側が負担しているのである。冷戦が終わって約二〇年が経過するが、この間「日米同盟」を理由に日本側が支出した経費 は、「思いやり予算」を含む米軍基地の経費負担、湾岸戦争の戦費分担、米軍再編に伴うコスト負担、自衛隊のインド洋・イラク派遣のコストなど、概算で累計 一五兆円にもなるであろう。こんな同盟関係が米国を逆縛りしているのである。

政権交代を機に、利権の構造の将来に危機感を抱いたワシントンにおける日米関係を専門とする人たち、「日米安保で飯を食っている人たち」が 一斉に蠢き出し、日本側の利害関係者とともに「日米の良好な関係を崩してはならない」と叫び始めた。現状変更そのものが利益の喪失だからである。持ち出し てきた現状維持のための論理のキーワードが「抑止力」であった。

実は、普天間迷走の八ヶ月間で米国の防衛安全保障戦略は大きく変化している。オバマ政権の防衛安保政策の輪郭が明確になってきたということ である。三月、オバマ大統領は核兵器の削減について、「国家安全保障戦略における核兵器の役割が縮小している」との認識を示し、「核の均衡による安全保 障」という考えを「時代遅れの冷戦思考」と発言した。さらに、四月には「相手が核不拡散条約(NPT)を遵守する非核保有国ならば核兵器を使用しない。た だし、核開発国(イラン、北朝鮮)は対象外」と発言、五月にニューヨークで開かれたNPT再検討会議の開催と行動計画の最終文書採択を主導し、「核なき世 界」の具体的実現に向けての意思と構想を明らかにし始めている。

また、本年二月にペンタゴンから発表された「四年毎の国防見直し」(QDR),五月に四年ぶりに公表された「国家安全保障戦略」を読んでみ ても、米国の安全保障戦略が大きな曲がり角にきていることは明らかで、それはR・ゲーツ国防長官自身が寄稿したフォーリン・アフェアーズ五・六月号の論文 “HELPING OTHERS DEFEND THEMSELVES”にも鮮明に表れている。読み取れるのは、米国は海外に大規模軍事展開する余裕を失いつつあり、同盟国 や問題を抱えている国が自らの国を自力で防衛し安全を確保することを背後から支援する政策をとらざるをえないという政策意思である。六月に発表された「軍 事費を二〇一二会計年度から五年間で一兆ドル削減する」という方針も、イラク、アフガンでの戦争で肥大化した軍事費をなんとか削減しなければ米国の財政が 成り立たないところにきていることを示すものである。

冷戦の終焉後、クリントン政権下で軍予算の削減が続き、二〇〇〇年度に二九四五億ドルにまで圧縮された軍事費が、「9 ・11」を経て二〇一〇年度には七二八〇億ドルにまで急増してきた。これを年額二〇〇〇億ドル程度は圧縮しようというもので、オバマ政権の政策思想が「冷 戦型核抑止論からの脱皮」と「縮軍」にあることは確かである。

しかし、この安全保障政策の転換を日本との関係で考察するならば、話が屈折していることに気づかねばならない。つまり、日本だけは例外で、 決して日本からの軍事基地の引き上げや縮小を意味せず、むしろ「同盟のコスト負担」という名目で、日本側への負担増加を求める傾向が高まることが予想され る。米軍基地のコストの七割を受け入れ国側が負担しているという日本の現実は、米本土に基地を置くよりもコストがかからない軍事力の維持を意味し、できる だけ日本に基地を置き続けることが「縮軍」につながらない現実的選択だからである。米国の世界戦略全体の転換の中で、日本が如何なる賢明な戦略意思を見せ るのか重大な局面である。

●確認事項2 メディアにおける思考停止の構造

普天間迷走の八ヵ月、我々は物事を根本から考え、課題解決に踏み込もうとしない日本の現実を確認した。まず、確認できたことは「沖縄以外に米軍基地 の受け入れ先なし」という現実である。五月末、全国知事会に対して鳩山首相が普天間の代替施設の受け入れを要請したものの、結局のところどの都道府県も手 を挙げなかった。「誰も受け入れたくない迷惑施設」という本音が明らかになった瞬間だった。だが、その一方で「米軍基地は日本とアジアの安全のための公共 財」という建前がまかり通り、「北朝鮮や中国の脅威という現実を考えれば、米軍基地の存続はやむをえない」という議論に引き寄せられる日本人が多いという のも事実である。つまり、「沖縄ならば米軍基地が存在し続けても構わない」という歪んだ判断で日本という国が存在していることを確認せざるをえない。

ここでは国民の判断の座標たるべきメディアの問題に触れておきたい。普天間を巡る日本の迷走は、メディア論調の迷走でもあった。戦後日本の 国際関係を巡る論争において、例えばサンフランシスコ講和会議、バンドン会議、六〇年安保改定など、新聞の論調を再読してみたが、現在のメディア論説の知 的劣化は歴然としており、問題の本質に迫るジャーナリズムの役割を放棄しているとしか思えない。

例えば、日本の多くの経済産業人がその世界認識の座標としている日本経済新聞の普天間・日米安保を巡る論調は、冷戦型視界から一歩も抜け出 そうとしない典型である。イラク戦争を支持し、自衛隊のイラク派遣に賛同したこの新聞は、「イラクの失敗」を冷静に総括することもなく、「駐留米軍はアジ アの安定のための公共財」であり、「日米同盟が最もコストのかからない安全保障」であるという主張を繰り返している。経済産業面で、日本経済がアジアとの 相互依存の中で生きていかざるをえない潮流のなかにあるという現実を報じ続けながら、政治面で近隣アジアの脅威に対して「日米同盟で構えなければ不安だ」 という論理にこだわる亀裂は滑稽でさえある。つまり、冷戦期の日米関係を維持・固定化することが正しい選択だと思い続けている思考がここにあるといえよ う。

定番の固定観念に埋没した論調とは別に、今回の普天間問題を巡るメディア論調の迷走に拍車をかけたのが朝日新聞である。その象徴が五月五日 付の主筆船橋洋一氏の「拝啓鳩山由紀夫首相」と題する論稿であった。この論稿はある意味ではバランスがとれていて、全方位に配慮して書かれており、さすが に朝日を代表する論者であり、長い実績を有する船橋氏ならではの論稿なのだが、全方位に配慮して書き進めるうちに玉虫色の論説となり、かくあるべしという 主張が混乱しているのである。

「在日米軍基地は、日本を守るだけではなく、極東における平和と安全のためのものでもあるのです。その役割、つまりは抑止力が弱まることを 近隣諸国は、そして米国も、心配しているのです」と「磐石の日米同盟」が「中国を開かれた国際主義的な世界秩序に組み込むために不可欠」なことを船橋氏は 主張する。そして、米高官が「海兵隊が沖縄から出て行ったら、尖閣諸島はどうなると思う。次の日から尖閣諸島に中国の旗が立つだろう」と語ったことを紹介 し、さすがに「尖閣列島を守るのは、まずは日本の自衛隊と海上保安庁が果すべき役割」としたうえで、「『尖閣諸島カード』をちらつかせなければ日本の“平 和ぼけ”を覚ますことはできない、米国がいら立ちを高めている」と述べている。尖閣諸島を米軍が本気で日本の側に立って守るか否かは「グレーゾーン」の問 題であり「戦略的あいまいさ」の象徴的課題であることは、船橋氏の知見において十分に承知しているはずである。我々が今なすべき議論は、「抑止力」の内実 を真剣に吟味し、現状を固定化する思考から脱して、冷戦後の世界秩序にふさわしい地域安定化の構想を描き、実現に立ち向かうことである。

船橋氏の論稿は「現状を追認する勇気」を首相に促すもので、現状を変革する方向に日本の政治を後押しするものではない。「日本の対外構 想」(一九九三年、岩波新書)において、冷戦後の日本外交ビジョンとして「能動的にグローバル・シビリアン・パワーたること」を提唱していた船橋氏をして 現状のままでよいとする思考に導く力学は何なのか。この点こそ我々は凝視しなければならない。

●確認事項3 米中関係の深化—世界の構造変化

五月二四-二五日、北京で開催された米中戦略・経済対話は「対立を回避し関係強化を図る米中」という現実を確認させるものだった。オバマ政権は前 ブッシュ政権がはじめた主要閣僚を連ねた米中戦略対話の仕組みを「安全保障分野」まで拡充した。いうまでもなく、米中間には深刻な対立をもたらしかねない 課題が山積している。人民元切り上げ問題、チベット・人権問題、台湾への武器供与問題、イラン・北朝鮮の核開発問題など、とりわけ直近の韓国哨戒艦事件で の北朝鮮制裁問題への対応も注目された。

これまでの北朝鮮ミサイル発射、核実験においても、いかに米国が中国の主張に配慮し、決定的対立を回避しようとするかを確認させられてきた が、今回も北朝鮮という国際秩序攪乱国をあたかも「保護国」として囲い込みながら存在感を見せ付ける中国のしたたかさに押し切られるように、国連制裁の動 きも実効のない微温的なものに落ち着いていった。「多極化の中での実体的G2化」という表現があるが、冷戦後世界秩序が「米国の一極支配から多極化」に 向っているといわれる中で、中国の台頭を背景に実体的には「米国と中国の二極間の利害調整」が世界の合意形成において重要になってきたことを若干ジャーナ リスティックに強調した表現だが、G2という表現がでてくるほど米国の中国への配慮は極端である。

二〇〇九年の貿易(米国側統計)において、米中間の貿易額(輸出入合計)は三六五九億ドルと日米間の貿易額一四六九億ドルの二・五倍となっ た。米国にとって、既に中国は日本の二・五倍の貿易相手なのである。また驚きの数字でもあるが、昨年、米国から日本への来訪者は七〇万人であったが、中国 を訪問した米国人は一七一万人であった。モノの動き、ヒトの動きをみても、日米中の経済的相関の下部構造は急速に変化しているのである。

「米国の抑止力を利して中国を制御する」という考えは否定されるべきものではないが、「日米同盟で中国の脅威と向き合おう」というのであれ ばその認識はずれているというしかない。米中間のほうがはるかに密度の濃い意思疎通を図っているからである。そして、日本人の「頭越しでの米中接近への怯 え」を手玉にとるように、「オバマは鳩山には一〇分間しか時間をとらなかったが中国には・・・・」という心理操作によって、アメリカは思い通りにならぬ日 本に「孤立の恐怖」を与えうるのである。そして、依然としてその手法が有効なほど、日本人はナィーブなのである。日本こそ、臆することなく閣僚級の日米戦 略対話を提起し、日米同盟の新たなる在り方を正面から議論すべきであろう。

日米安保改定から五〇年という歴史認識―忘れてはならない歴史の方向感覚

今年は日本初の遣米使節「万延元年の使節」とともに咸臨丸が太平洋を渡って一五〇年という記念すべき年である。このことは本誌の七月号で書いた。そ して咸臨丸から一〇〇年という年が奇しくも一九六〇年、日米安保改定を巡る熱い政治の季節であったことにも言及した。「咸臨丸の時代を生きた幕末・明治の 日本人は誰一人として、外国の軍隊を頼りに自国の安全を図るという事態を考えてもいなかった」と私は書いた。「敗戦」がいかに重かったとはいえ、六五年も が経過した今、日本人はどこまで自堕落になってしまったのであろうか。

改めて戦後日本の外交思想という視座から考えるならば、我々は今、「吉田外交」という枠組みからいかにして前に出るのかを模索し続けている といえよう。サンフランシスコ講和会議での「単独講和」によって西側陣営の一翼を占める形での国際社会への復帰を急いだ日本は、日米同盟を基軸として冷戦 下の世界で「軽武装経済国家」として生きる路線を歩みだした。第一の転機が一九五四年に成立した鳩山一郎政権下の選択であった。吉田外交からの脱却を目指 した鳩山一郎政権は、重光葵外相や石橋湛山に支えられて、及び腰ながらも一九五五年のバンドン会議への参加を契機とするアジア復帰、周恩来・高崎辰之助会 談による日中貿易の再開、日ソ国交回復と外交の視界を広げていった。「対米自主外交」というには限界があり、あくまでも「日米同盟を基軸とするアジア復 帰」ではあったが、新たな展開でもあった。

そして迎えた「六〇年安保改定」、全国で五八〇万人が安保反対デモに参加したという六月一五日には東大の女子学生樺美智子さんが国会前で死 亡するという惨事までが発生した。「大学から国会へ」、異様な熱気が日本を包み込み、若者の多くが丸山真男の『日本の思想』(一九六一年、岩波新書)に展 開された、「である論理とする論理」を心に刻み、市民運動の証として「行動する論理」に突き動かされていた。岸信介をはじめとする日本の当時指導者も、安 保反対運動の側にあった人間も、少なくとも米国との同盟関係の適正化に強い関心を抱いていたともいえる。

誤解してはならない吉田外交の本質は何か。彼は米国との協調を重視したが、決して米国への過剰依存や従属を是とするものではなかった。「独 立心なくして国家なし」、それこそが吉田茂の真意であり、求め続けたものであった。そのことは吉田の回顧録や吉田の周りにいた人たちの証言が明らかにして いる。六〇年安保の改定までは、駐留米軍基地に関する「事前協議制」の導入など対等の軍事同盟に進化させる意思を後進の指導者たちは少なくとも受け継いで いた。だが、一九六七年に吉田が死去し、吉田の姿が遠ざかるにつれ、吉田外交を曲解したエピゴーネンとしての「吉田主義者」が跋扈し始めた。「米国との関 係を見直そう」という意思は、七〇年安保の段階で国民意識からも消失していた。

確かに、七〇年安保は「全共闘運動」という形で、さらに過激な新左翼によって盛り上がったかに見える。しかし「大学解体」という闘争は、大 学自体が闘争の場として燃焼しただけで、決して国民運動として国会には向かわなかった。日本の国際関係を再構築する試みもなされなくなっていった。七〇年 安保と大阪万博が同じ年であったことは象徴的であった。政治は静かに後退していった。背景には「所得倍増」「高度成長」という時代潮流があり、国民も「経 済の季節」に酔いしれ、政治には燃焼しなくなっていった。六〇年安保の頃の一人当たりGDPは約500ドルであったが、一九六六年に一〇〇〇ドルを超え、 一九八一年に一万ドルを超した。正に「黄金の七〇年代」であり、ピンクレディーが阿久悠の歌で踊っていた。

それでも、外交に関して言えば、永井陽之助のような政治学者が、考える座標を提示していた。『平和の代償』(中央公論社、一九六七年)に収 録された「日本外交における拘束と選択」が中央公論に掲載されたのは一九六六年三月号だった。この論稿で永井は「日本は、敗戦後、選択によってではなく、 運命によって、米ソ対立の二極構造のなかに、編みこまれた」という認識に立ち、「多角的オプションの外交戦略」を展開するために、日本外交の中期構想を 「中国との国交回復と正常な外交樹立」とした。冷戦下という拘束の中で、「敵対者の攻撃を抑止し、行動選択の自由を確保する」ために、日本は「こうかつ さ」と「弱者の恐喝」というべきしたたかさを探究すべきことを示唆していた。

一九七〇年代に入り、ニクソンショック、米中接近という新たな局面を迎え、永井の洞察が光ったのが「同盟外交の陥穽」(中央公論、一九七二 年一月号)であった。それから四〇年経っても「米中の頭越し接近」に脅え続ける日本外交の構造に変わりがないことに苦笑を禁じえないが、冷戦という拘束の 中で真剣に日本の選択の自由を拡大しようと、「安全(福祉価値)」と「独立(名誉価値)」の二律背反に苦しみながら構想力を練磨した永井の知的しなやかさ には敬服せざるをえない。

驚いたことに、管直人新首相の所信表明演説でも、永井陽之助という名前が学生時代に国際関係論において影響を受けた人物として言及された。 「私は若い頃、イデオロギーではなく、現実主義をベースに国際政治を論じ、『平和の代償』という名著を著された永井陽之助先生を中心に勉強会を重ねまし た」というもので、現実主義に立った外交・安全保障政策を展開する意思を語る理論的正当性を語るものであった。だが、もし現実に直面している状況を不変の 与件として受け入れ、何も変えようとしないことを「現実主義」とするならば、それは明らかに永井陽之助への誤った理解である。政治的現実主義の重みを見 失ってはならない。

それにしても、「冷戦」という拘束から解放されて二〇年、永井陽之助が志向していた「国際状況の多元化」が現実のものとなり、まさに「多角 的オプションの外交戦略」が可能な時代が到来しているのに、日本外交は柔らかい選択肢を志向することなく、冷戦型視界の金縛りにあっていることに気付くの である。知的緊張に満ちた国際政治学者の不在とメディアの低調はあきれるばかりである。

本当になすべきこと—日米同盟の段階的「進化」を求めて

日米同盟は安易な「深化」ではなく、深い洞察にたって「進化」させねばならない。我々は今、そのことを思慮深く構想すべきである。改めて、八ヶ月の普天間迷走の教訓を踏まえ、日本が心に期すべき同盟の進化とは次のような骨格での段階的アプローチであると考える。

第一段階:プラットフォームとしての「日米戦略対話」の実現

普天間の移設を巡る実務者レベルでの協議ではなく、外務・防衛だけではない経済閣僚を含む閣僚レベルでの日米戦略対話の仕組みを実現し、経済と防衛 の二本立てでの包括的同盟関係の未来像を構築すべきである。実は、日米同盟は軍事片肺同盟であり、経済についてはFTA(自由貿易協定)一つ実現していな い。EPA(包括的経済協力協定)など将来のアジア太平洋地域連携の先行モデルとなるような経済産業における日米連携の深化を図り、同時に防衛安保につい ては、新しいアジア情勢を踏まえて「過剰依存構造」を解消する方向での見直しを図る。

第二段階:在日米軍基地の「抑止力」の吟味と基地の「共同使用」化への移行

日米戦略対話での課題として、一九九三年にドイツがすべての「在独米軍基地」の使用目的と現実的機能をテーブルに乗せ、米軍基地の段階的縮小と地位 協定改定を実現したごとく、すべての米軍基地・施設を「抑止力」の視点から吟味し、「地位協定二条三」にあるごとく、目的を終えたと合意できる基地・施設 の返還を実現する。その際、「例えあいまいであっても米軍の抑止力がなければ極東情勢の中で不安である」と感じる日本国民が多いのであれば、まずは可能な 限り米軍基地を「米国側が占有権を持った基地」から「日本側が管理権を持ち、抑止力のために米軍が駐留している共同使用基地」(地位協定二条四-b)に移 行させることを進める。世に「シンガポール方式」」といわれ、米軍がフィリピンからの基地撤退を余儀なくされた時、東南アジアに軍事的空白を作らないため に、管理権はシンガポールが確保するが米軍が共同使用という形で駐留する形をとった。

明らかに現在の地位協定には、占領軍時代の基地のス テータスを延長した性格が残っており、日本側が主権を有する形への変更が必要である。実は五月末に発表された普天間問題についての「日米共同声明」におい て、「米軍と自衛隊の間の施設の共同使用を拡大する機会を検討する意図を有する」という項目が記されたが、これは今後の見直し論議において重要な一歩とい える。米軍の抑止力に期待する人でも、主権回復の重要性は理解できるはずである。

第三段階:「基地無き日米同盟」と適正な自主防衛構想の確立

次のステージとして、東アジアの安定(例えば、朝鮮半島の統一)を見極めながら、駐留米軍のハワイ、グアムの線までの撤退というシナリオの実現を図 る。但し、「極東有事」に対応するために、「緊急派遣軍」のような兵力を抑止力として維持するために日本側が一定の機関、一定のコスト分担をするというの も、選択肢としてありうる。「基地無き安保」への進化である。

その方向に向けて、当然のことながら「日本の防衛は日本自身が責任を持つ」という所謂「自主防衛」への具体的構想が求められる。軍事大国へ の誘惑を絶ち、近隣諸国にとって軍事的脅威とならないという専守防衛に徹したシナリオでなければならない。その前提として、東アジアの平和構築の基盤とな る「北東アジアの非核化条約」などを主体的に働きかける粘り強い外交戦略が必要となるであろう。

心すべきは、冷戦期を前提とする同盟外交の枠組みをそのまま温存すれば日本が安全と安定を確保できるという時代は確実に終わりつつあるとい うことである。古今東西、同盟外交は敵対する敵陣営が明確なときに機能するものであり、敵概念が錯綜とした「全員参加型秩序の時代」においては柔らかく設 計されねばならないからである。

海外を動いていると「中国の台頭」との対照において日本の存在感の低下について質問される機会が増えてきた。様々な理由はあるが、日本人と して注視すべきことは、中国の強勢外交の背景に横たわる歴史意識における自信である。アヘン戦争以来一七〇年、中国は列強の植民地主義の生贄とされて蔑ま れた時代もあったが、辛亥革命、中華人民共和国成立を経て、一九九七年の香港返還に至る過程で、一歩ずつ民族の自立自尊を回復してきた。戦後日本に失われ てきたものは、正に自立自尊の意思である。我々がなすべきことは、今のままの米軍基地を前提として「良好な日米関係」なる言葉の交換に自己満足するのでは なく、基地を削減しつつ東アジアの安定と真に信頼できる日米同盟に進化させることなのである。

連載「INSIGHT」THE WORLD COMPASS 2008年10月号

資源大国日本へのパラダイム転換—海洋開発の重要性   寺島実郎

「日本は国土の狭い資源小国だ」というのが、大方の日本に関する認識である。確かに、日本の国土面積37.8万平方キロメートルは世界61番目にす ぎない。しかし、排他的経済水域の面積では447万平方キロメートルと第6位の海洋国家である。固定観念を脱し、海洋の可能性に眼を向けるならば、日本は 資源大国になり得る可能性を秘めているといえよう。

最近の海洋調査の成果によれば、日本の海底には、希少金属からエネルギー資源まで驚くほど多くの資源が眠っていることが確認されつつある。世界潮流 として資源ナショナリズムが高まる中で、自国の資源にしっかりと眼を向け、技術力を注入して探査・採鉱していくことは、21世紀の日本の創生にとって極め て重要なのである。

特に、日本近海には海底火山活動領域が多数存在し、銅、鉛、亜鉛、金、銀などの金属資源の宝庫といわれる「熱水鉱床」が次々に発見され、海外企業に よる海底鉱区の申請もされつつある。また、コバルト、マンガンなどが豊富に含まれている鉱物資源、さらにはメタンハイドレードなどエネルギー資源の埋蔵も 確認されている。

日本も「海洋基本法」を2007年4月に成立させ「総合海洋政策本部」を内閣府に設置したが、従来の政策の寄せ集めではない新たな総合的海洋戦略の 構築とタイムリーな実行が問われている。経済セクターも強い問題意識を持って、結束・連携してコンソーシアム型のプロジェクトを具体化させるべき局面にあ る。戦略研究所もJAPIC(日本プロジェクト産業協議会)の共同研究に参画しており、海洋開発の可能性に挑戦していきたい。

新・自由主義の終焉—オバマのアメリカの行方

新・自由主義の終焉—オバマのアメリカの行方   寺島実郎

「米国は社会主義国家なのか」という表題の経済雑誌が、米国の書店やKIOSKに並ぶ時代が来てしまった。米政府のシティグループへの資本注入 (450億ドル、36%議決権保有)、保険大手AIGへの資本注入(800億ドル)という事態にまで金融不安は進行し、金融セクターは国家管理状態に移行 したとさえいえる。金融だけでなく、米国の虎の子産業ともいえる自動車産業のBIG3さえ、政府の直接的金融支援なしには存立できないところにまで追い込 まれている。

OECDの推計によると、2010年度の米GDPに対する一般政府支出(社会保障給付も含む)の比重は39.9%に至ると予想 され、欧州の47.1%へと近づいてきた。ちなみに、日本の同比率は37.5%であるが、財政出動による景気浮揚が常態化するなかで、世界では「大きな政 府」への流れが加速しているといえる。

いつの間にか、「小さな政府」を志向する議論は後退し、自由な市場の機能に期待する論調も影を潜め た。「競争主義・市場主義の徹底」「規制緩和」「改革開放」といった議論は、行き過ぎたマネーゲームがもたらした諸問題の顕在化によって色あせてしまっ た。結局、最後の調整弁としての「政府の役割」に回帰してしまった感が深い。

「大量生産・大量消費」を当然の与件とし、「消費は美徳」であ ることを疑うことさえなかった米国。才能によって分配の格差が生まれることを信じ、したがって虚構のマネーゲームであれ「巨万の富を得ることは神が与えた 祝福」と思い込んできたウォールストリートの住人。こうしたアメリカなる市場への過信ともいうべきメカニズムを根底から変える「CHANGE」に踏み込ま ざるを得ないところにアメリカは行き着いたということであろう。

我々は、簡単に市場経済の持つ積極的側面も見失ってはならない。ただ、「経 済」とは経世済民に由来し、本来は「富の分配の公正」や「貧困や不条理の克服」を目指すものであったことを再考するならば、米国を先行モデルとしてもては やしがちだった傾向を省察し、あらためて経済社会の在り方を構想すべき局面であろう。「市場原理と政府による経済の制御のバランス」は21世 紀の経済社会に突きつけられた課題でもある。